十年目の再会

 響く秒針の音をさえぎりたくて、ルカは本のページをめくった。

 顔をあげなくてもわかっている。図書館の窓の外は快晴。窓ガラス越しの強い日差し。地面に落ちる黒い影。うるさく響くセミの声。

 それらすべてを消し去りたくて、ルカは聖書のページをめくった。


 もう、何度も同じページをめくっていた。目を通して、ページをめくるけれど、内容がぜんぜん頭に入ってこなくて、前のページに戻る。そんなことを繰り返していた。

 ため息すらこぼれなかった。だが、聞き慣れた足音が近づいてきた時、ルカは息を飲んだ。

 彼だ。

 図書館の一番奥、六人がけのテーブルの端に座るルカの隣にまっすぐやってきた。

 いつもと同じ穏やかな笑みは、浮かんでいなかった。表情に色はなく、ただまっすぐにルカを見つめていた。


「いないかもしれないって思ってた」

「来ないでって、思ってたわ」

「ルカ」


 名前を呼ばれて、びくりとルカの肩が震えた。

 教えたはずはなかった。なのに、彼は知っていた。


「私の名前を知ってるのね?」

「十年前に、君が教えたんだ」

「やっぱり……! あなたは十年前とぜんぜん変わらない……あなたは、いったいなんなの?」


 席から立ち上がって、ルカは彼から距離をとる。

 真剣な眼差しが、今は恐ろしかった。

 十年前と寸分変わらない彼の姿が。


「話を聞いてくれ」

「来ないで……」

「十年前の話をしよう」

「あの時のこと、私はぜんぜん覚えてない」


 声が固くなって、ルカは気づいた。怖かった。とても怖かった。恐怖が足元から立ち上ってくる。この気持ちは、十年前のものだった。


「ぜんぜん?」

「すごく怖かった。それしかわからない」


 風が窓をうち、がたがたと音を立てた。

 ルカは逃げ出そうとした。その手を彼がつかむ。


「待てって!」

「離して!」

「だめだ、俺の話を聞いてくれ」

「いや、聞きたくない!」


 ルカが思い切り暴れると、テーブルにぶつかった。さっきまで開いていた新約聖書が、その衝撃で床に落ちる。

 まるでそれが合図だったかのように、森に続く窓の戸が勢いよく開き、強い風がルカと彼の間を吹き抜けた。彼の横っ面をはたくような強さだった。


「うわっ、なんだ、風が――急に……っ」


 ルカはひるんだ彼の手を振り払い、ぱっと駆け出した。


「待って!」

「お願い、来ないで!」


 大きく開いた窓の扉を抜け、ルカは外へと飛び出した。

 目の前には、森が広がっている。迷いはなかった。

 隠れなくちゃいけない、と思った。


(隠れなくちゃ。誰も追ってこられないところ、誰も知らないところ……私だけの隠れ場所)


 森がさわさわと梢を揺らし、ルカを招いていた。

 ルカはまっすぐ森へと駆けていく。


(森だけが私を守ってくれる)


 そう確信したのに、次の瞬間、不意に不安が胸をよぎる。


(……そうかな。本当に森は私を守ってくれるの? そうだったかな……)


 昨日、あんなに恐ろしかったのに。

 ルカの足をとり、前をさえぎり、外へと追い立てたのに。


「おい、待てよ、ルカ!」


 迷っている暇はなかった。

 彼が窓の扉を抜けて、追いかけてくるのがわかった。

 追いつかれてしまう前に、早く。ルカは、森へと駆け込んでいく。


 そうやって駆け込んでみると、森は昨日とはまるで様相が違っていた。

 木々が道を開けていく。嘘のように走りやすい。ルカをさえぎるものはなかった。駆け抜けるルカを応援するように梢がさわさわと音をたて、枝々はその場を譲るように道をあけた。

 だからルカは、走り続けた。森の奥へ、奥へと入っていく。


 ――そうして、やがてたどりついた。


 そこが、森の中心だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る