森はうっそうと

 彼の後を歩いて、図書館を出た。その間、ひとことも話をしなかった。

 外では、セミの声がはっきりと、そしてうるさく響いている。窓越しだったときとは大違いの、生々しい声。

 日差しは強く、目の前を歩く彼の足元にくっきりと濃い影をつけていた。


「あっちぃなー。森の中のほうが涼しそうだ。行こうか」

「う、うん」


 明るくうながす彼について、森へと一歩踏み出す。

 ざわり、と森がうごめくような気がして、ルカは気後れした。だが、彼はどんどん歩いていく。

 気づかないのだろうか。この不気味な風に揺れる不吉な梢の音に。一歩進むたびに折り重なるうっそうとした木々の影に。

 いつの間にか、セミの音は止んでいた。ただ身をよじるような木々の葉擦れがルカをひたひたと取り囲んでいた。

 足がすくむ。

 だが彼はどんどん進んでいく。

 置いていかれてしまう。急がなくては。


「きゃっ」


 ぱしり、と木の枝にはたかれて、思わず声をあげた。立ちすくむ。


「どうした?」

「う、ううん。なんでもない」


 少し先を歩く彼が振り返る。その様子は、図書館にいたときと変わらず穏やかで、朗らかだ。少し安心して、ルカはあとをおいかけようとした。

 とても、歩きにくい森だった。道もなく、木はうっそうと茂っている。

 だが、彼はどんどん歩いていく。楽しそうに。


「なんだ、意外に明るくていい森だな。道もついてて、公園みたいじゃないか。日陰だから涼しいし。散歩にはもってこいってとこだな」

「え?」


 木々の向こうに、その背中が消えていこうとする。


「……あ、ま、待って!」


 不安で胸がいっぱいになって、ルカは慌てておいかけようとした。

 その途端、大きくうねった木の根に足をとられた。思い切り転んでしまう。地面にこすれた膝や腕が痛い。強い衝撃に、鼻の奥がつんとした。目に涙がにじんでいるのが、自分でもわかった。


「いたっ……」

「大丈夫!?」


 少し背中が遠かった彼が、慌てて戻ってきてくれる。

 座り込んだままのルカの前に膝をついて、のぞきこんできた。その心配そうな顔が、涙の向こうに揺れる。


「どうしたの?」

「木の根につまずいて……」

「――木の根? どこに?」

「え、いま、そこに……」


 いぶかしげな彼の声に、はっとして振り返る。さっき足をとられた地面には、何もなかった。木の根など、影も形もない。


「ない……」


 でも、さっきは。確かに。大きくうねった木の根が、ルカの足を絡めて転ばせたのだ。


「――大丈夫か、手を貸すよ。ほら」


 差し出された手にすがって、おそるおそる立ち上がる。幸い、怪我はなかった。ただ、木の根にとられた足先と、地面にうちつけた膝や腕がひりひりと痛む。それが、さっきルカが転んだことを示していた。

 彼女を妨害した証拠を隠し、森は不気味にざわめいている。その不穏なようすに、ルカは彼の手を離すことができなかった。

 困惑したような彼の声を聞くまでは。


「けっこう歩きやすい小道だと思うけど」

「小道って……道なんてぜんぜんないわ」

「なに言ってるんだ。森の奥まで続いてる。誰かが道をつけたんじゃないか? 行ってみようぜ」


 見えているものがまるで違う。

 得体のしれない感覚に、背中がぞわりと粟立つ。思わず、すがっていた彼の手を離す。そっと。

 一歩離れたルカを不審に思うこともなく、屈託なく彼は森の中を歩いていく。確かな道を歩くように。ルカに見えない道があるように。


「でも」


 道なんてないのだ。そんなにすいすい歩いていくなんて不可能だ。何かおかしなことが起きている。

 だが、このままだと置いていかれてしまう。この暗く影に満ちた森の中に、ひとりきりになってしまう。それは無性に怖かった。だから、「待って」と言いながらルカは小走りに追いつこうとした。

 そんなルカを妨害するように、ばさっと大きな木の枝が目の前をさえぎる。

 木の枝がルカの服にひっかかって足を止めようとする。

 彼は、気づかない。行ってしまう。鼻歌でもうたうように、気楽な様子で。


 もう一度、待って、と叫ぼうとしたときだった。

 ぱきり、と小枝を踏み折る音が聞こえた。それは木々の不気味なざわめきとはまるで違う響きで、ルカはびくりと足をとめた。

 先を行く彼が立てた音ではない。その音は、森の中から聞こえた。


「なに……? なんなの……?」


 森の中にいままで息をひそめてでもいたのが目覚め、ルカにひたひたと近づいてくる。そんな気がした。

 ――誰かが、すぐ隣にいた。そして、彼女の名を呼んだ。


「ルカ」

「…………っ」

「――ルカ、君は、本当に忘れてしまったのか?」

「だれ……? あなた、誰?」

「本当に――忘れてしまったの?」


 遠く、鳥が鋭く一声鳴いた。

 ざわざわと。

 ざわざわと森の黒い影がうごめき、人の形にこごっていく。そして、一歩近づいてくる。ずるりと。ルカの名を呼ぶ。責めるように。忘れたのかと。忘れてしまったのかと。


「いや……っ!」


 怖かった。森の奥からはいよってくる何かが、心から恐ろしかった。

 ルカは、その黒い人影から逃げ出そうと、必死に走り出した。もと来たほうへ。森の外へ。

 背後で、枝が鳴った。その大きな音に追い立てられ、ルカは走り続けた。悲鳴をあげることもできなかった。振り返ることもできなかった。

 だが、わかっていた。追われている。


 あの黒い人影に――森に、追われている。


 いつの間にか森を抜け出していた。強い日差しの中によろめき出て、ルカの足がもつれた。座り込みそうになるのを必死でこらえて、足を動かす。少しでも森から離れたかった。急がなくては。追いかけてくる。いまにもルカを飲み込むかもしれない。あの黒い影が――

 ――腕を、つかまれた。


「おい、待ってってば!」

「きゃぁああああああっ!」

「うわっ」


 振りほどこうを闇雲に暴れたルカだったが、自分の腕をつかんだ大きな手の温かさに、はっと我に返った。

 彼が、心配そうにルカの腕をとっていた。


「あ、あ……あなただったの……」

「どうしたんだよ、急に走ったりして」

「あなただけ? あの黒い人は?」


 さっとあたりを見回す。

 だが、誰もいなかった。ただ、セミがうるさく鳴いているだけ。

 森の外の道路にいたのは、ルカと、きょとんとした表情の彼だけだ。


「……いない……? 黒い人が――さっき……」

「黒い人?」

「いたじゃない、森の中に!」

「……なに言ってんだよ」

「あ……だって……でも……」


 彼の声に、不機嫌さがにじみ出てくる。それは不快さであり、怒りのようでもあった。今まで感じたことのない負の気配。

 森の中で感じた気配は、これに似ていなかっただろうか。

 あのとき森にいたのは、彼とルカだけなのだ。だったら……


「もしかして、あなただったの?」

「どういうこと?」


 セミの音が痛いほど響く。

 前にも、こんなことはなかっただろうか。


 聞かれなかっただろうか。

 ――気に入ってる場所があるんだ?

 そう聞かれて、とても嬉しかったのではなかったろうか? お気に入りの場所、自分だけの場所を見せてあげたい。ルカはそう思ったのではなかっただろうか?

 ――行ってみようぜ。俺も入ってみたくなった。あの森。

 覚えている。その言葉が、嬉しかったから。

 ――俺が今住んでるところ、森なんてないからさ。ちょっとした散歩ってことで。……へんかな。

 そう、嬉しかった。そのはにかんだような笑顔が嬉しくて、一緒に行こうと腕をひっぱったのだ。


(ううん、そんなの変。だって、森に入ったことなんてない……)


 それは奇妙な記憶だった。

 森には、森のルールがある。

 ――だから、森に入ってはいけない。

 そのはずなのに。


 森の中で。さっき。問われたではないか。

 ――ルカ、君は、本当に忘れてしまったのか?

 忘れて……しまったのだろうか?

 ――本当に、忘れてしまったの?


 何かを、忘れてしまっているのだろうか?


「おい、おいってば。なあ、どうした?」


 肩をつかまれ、はっとした。目の前に、彼の姿があった。ルカをまっすぐ見つめていた。


「え……あ……なに……?」

「なに、じゃないぜ。そりゃこっちのセリフだ。急に黙り込むから、どうかしたのかって聞いたんだ」

「前にも、こんなことがあったような気がして……それで」

「前にも? いつのことだ?」


 鋭い質問に、うまく答えられなかった。いつのことなのかわからなかった。

 呆然と黙り込むルカに、彼は真剣な顔で言葉を重ねた。


「こんなことって、森に行ったことか? そうだろう」


 どきり、とした。心臓を冷たい手でつかまれたような痛み。


「前にも誰かと一緒に森に行ったことがあっただろう?」

「わからない」

「わからないはずないだろ。十年前、君は今日と同じように森に行っただろう」

「どうして……そんなことわかるの」


 断定的な言葉が不思議だった。十年前に、誰かと一緒に森へ。どうしてそんなことを聞かれるのか、わからなかった。


「あなた、何を知ってるの? 十年前って、いったい……」


 ぞわりとした。森の中であの黒い人影に気づいたときに似た感触だった。


「……前にもこんなことがあった……あなたは、それを知っている?」

「それは」


 そうだ。前にもあった。こんなことが。

 お気に入りの場所を教え、森へ行こうと誘われた。嬉しかった。そのことを思い出した。はにかむような笑顔を、どうしていままで忘れていたのか。

 十年前。彼は今とまるで同じ顔で笑ったのだ。


「どうして、どうして今も変わらないの? なんであなたはあの時のままなの?」


 肩をつかんでいた手を、ルカは乱暴に振り払う。ぱしりと小気味いい音がして、その大きな温かい手がぱっと引かれた。

 彼の目は驚いていた。思い出したのか、と声がもれた。


「思い出したのか、十年前のことを」

「『思い出した』? やっぱり……! あの時、私を森へ連れて行ったのはあなたなのね?」

「おい」

「こないで!」

「話を聞いてくれよ」

「いやっ!」


 ルカは無我夢中で走り始めた。後ろで、待ってくれと声を聞こえたけれど、振り返らなかった。


 逃げなければ。逃げなければいけない。それだけはわかっていた。

 逃げなければいけない。十年前と同じように。

 確かに、あの時もルカは懸命に逃げたのだ。

 あの時も、森だった。

 十年前のあの夏、森はひどくおそろしい存在だった。


 彼が――今とまったく変わらない姿の彼がいたから。

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