森へのいざない
彼が図書館に通ってくるようになって、一週間は過ぎただろうか。
夏の空は高く、青い。窓の外で森の影は黒く落ち、ガラスの向こうからアブラゼミの合唱が聞こえる。
そんな光景を眺めていると、夏はいつまでもいつまでも続く永劫のループのように思えた。
テーブルの上に聖書を広げたまま、ルカがぼんやり窓の外、森の影をながめているところに、聞き慣れた足音が近づいてきた。
彼だ。
いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて、ルカを見る。
「おはよう!」
「……おはよう」
「もう来てるなんて、早いんだな」
そして、座りながらそんなことを言った。
意外な言葉のように思って、ルカは少し考え込む。
「――早いかな、私」
「早いって。図書館あいてまだ30分も経ってないし。よっぽど好きなんだな」
「え?」
「いや、図書館が好きなんだなって思ってさ。そうじゃなきゃ、開館してすぐに来たりしないだろ」
「えっと……そう……かなあ……」
そうだっただろうか、とルカは彼の言葉を反芻した。
(私は、図書館が好きだったんだろうか)
歯切れの悪い応答に、彼は少し表情を曇らせた。向かいの席から、のぞきこむようにしてルカと目を合わせようとする。
「違うのか?」
心配そうな表情に、とりつくろうように口が動いた。
「ん、どうかなぁ。図書館もだいぶ好きかな。一番好きな場所は違うんだけど」
「気に入ってる場所があるんだ?」
ぱっと彼の表情が明るくなる。だが、投げられた言葉の意味を、ルカはうまく理解できなかった。
もちろん、ルカの言葉に彼は反応した、それだけだ。
だが、その率直な質問は、ルカを戸惑わせた。
「え、そ、そうなの?」
「そうなのって……君がそう言ったんだろ、今」
「う、うん。でも、今まで思い出したりしなかったから」
ずっと図書館にいて、今まで思い出しもしなかった。
なのに彼の言葉で、不意に胸によみがえってきた。鮮やかな彩りで。
好きな場所――お気に入りの場所。
「どんなところ?」
「あのね」
だが、それは、おかしな光景だった。
少なくとも、ルカにはそう思えた。だから、すぐに答えることができなかった。ためらいが言葉を濁らせる。
「あの……」
「ん?」
だが、小さく首をかしげながら向けられた明るい笑顔に勇気づけられ、ルカはようやく言葉を形にする。戸惑いながら。
「――森の中なの……」
それは奇妙な記憶だった。
森には、森のルールがある。
――だから、森に入ってはいけない。
そのはずなのに。
案の定、彼も意外な言葉だと感じたようだった。
「え、森? 図書館の前の、あの森?」
「へ、変よね。私、あの森に入ったことないはずなのに。あはっ、きっと勘違いだと思う。えっと、ご、ごめんね」
「…………」
発言をなかったことにしたくて、ルカは懸命に言葉を重ねた。そうだね、と優しく笑って、聞き流してほしかった。そしていつものように彼の本の話を聞いたり、たあいもない言葉を交わしたり、静寂の中で本のページをめくりたかった。
だが、彼は。しばらく沈黙していた。
ふりつもる沈黙が、胸をきゅっとつかむようだ。
「あの……えっと……」
おそるおそる声をかける。
すると、考え込むようにうつむいていた彼が、ふわりと顔をあげ、ルカを正面から見つめた。
澄んだ、まっすぐな瞳で。
そして穏やかに言った。
「――行ってみないか」
「え? ど、どこへ?」
「森へ。忘れてるだけかもしれないだろ」
「忘れてる……?」
「子どものころの記憶なんてあいまいだからさ、はっきり覚えてないだけかもしれない。でも、行ったら思い出すよ」
「でも……森には入っちゃいけないって……」
「子どものころの話だろ。もう平気さ。行ってみようぜ。俺も入ってみたくなった」
それがあまりに屈託なく、明るい声だったので、ルカの鼓動がことりと揺れた。
「……入ってみたいの? あの森に」
「俺が今住んでるところ、森なんてないからさ。ちょっとした散歩ってことで――へんかな」
彼は椅子をひいて立ち上がる。
見上げるルカに、はにかんだように笑いかけた。
その照れた笑顔に、ルカの胸がいっぱいになる。
「あなたもなの?」
「え? 俺も……って?」
いぶかしむその声に、ルカははっと我に返る。
あなたもなの? と言った自分の唇の形は覚えていた。だが、どうしてそう言ったのか、よくわからなかった。
さっきから、なんだか妙な感じだ。
「え……あれっ、なんでだろ。なんだか、以前にもこんな話を誰かとしたことがあって」
「森に入りたいヤツって多いんだな、きっと。で、そいつと一緒に森に行った?」
「んっと……覚えてない」
行ったのだろうか。森に。
行かなかったのだろうか。森に。
「行ったんじゃないか?」
「そう……かな」
「小学生の子どもならともかく、高校生だぜ? 危険って年でもないだろ」
「そ、そうね。もう子どもじゃないもの。あはっ、何を怖がってるんだろ。おかしいよね」
そう、何を怖がっているのだろう。たぶん、行ったのだ、森に。前に。恐れる必要などない。窓の外はあんなに明るい。夏の青空はあんなに高い。きっと風も心地良いだろう。だから、行ったのだ。森に。
きっと。
「……ごめん、無理しなくてもいいんだぜ」
立ち上がったままの彼が、少し申し訳なさそうにそう言うから。
「無理なんてしてないよ。行こう?」
彼にはいつも笑っていてほしかった。
その穏やかな微笑を自分に向けてほしかった。
だから、ルカは笑顔を浮かべて立ち上がったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます