再会
ルカは、本のページをめくった。
顔をあげなくてもわかっている。図書館の窓の外は今日も快晴。夏の空に大きな雲が気持ちよさそうに広がっている。窓ガラス越しでも、日差しの強さがわかる。地面に落ちる影は濃く、空気すら密度を高めたかのように思える。
それに、セミの声はうるさい。緑茂る森が風に梢を鳴らす音も、他の季節よりも強い。
だが、それを重苦しいとは思わなかった。
このくらいの時間だったはず。
そんなふうに思ってから、ルカははっと我に返った。いったい何を気にしているのか。いつもと同じだ。窓の外は晴れていて、セミが鳴いていて……
そして足音が、近づいてくる。
気づいた瞬間、ルカは勢いよく椅子を押して立ち上がっていた。
「あ、あの……こ、こんにちは!」
「うわっ」
ルカの勢いに押されたのか、彼はうろたえたようだった。半歩身を引いてから、ルカが昨日会った少女だと気づいたのだろう。「ああ」と言った。
「こんちには。昨日はごめんな」
朗らかな笑顔に、ルカは思わずうつむく。
「う、ううん。あの……本、読みに来たんですか?」
「あ~……ああ、まあ、そうなるかな。ここ、図書館だし」
「そ、そうですよね。ごめんなさい」
「そこ、座っていいか? 君の向かい」
「え? あ、はい、ど、どうぞ」
図書館 のテーブルは6人がけ。通路から一番奥の角に座り直すルカの正面に、少年は移動した。肩にかけていたショルダーバッグをを足元に下ろして、座る。手には一冊の文庫本。コーティングされているから、図書館のどこかの書架から抜いてきたのかもしれない。
「助かった。この図書館、混んでるから座るところ見つからなくて」
彼がそんなことを言ったので、ルカは少し驚いた。
図書館の中でも一番奥まったこの席の周りに、まるで人影がないからだ。けれど、こんな奥まで来ようと思う人がいないだけかもしれない。そして奥まっているからこそ、他の場所は見えなかった。
気もそぞろに本のページをめくるルカの前で、彼も文庫本を開いた。ゆっくりと読み始める。どこか穏やかな表情で。
……何を読んでいるのだろう。
少し、気になった。つい視線が彼の手元に向かってしまう。そしてルカがページをめくる手がとまったせいだろう、彼がふと顔をあげた。
ぱちり。と目があう。
「ん、なんだ?」
「あっ、あ……その……ごめんなさい。なんでもないの」
「そうか? ならいいけど」
彼はまた本に視線を落とした。ルカも本に意識を戻そうとするが、どうしても、ちらりと彼のほうを見てしまう。そのたびごとに、どこを読んでいるのかわからなくなってページを最初から読み直す。そんなことをしているから、なかなかページがめくれないし、文章がぜんぜん頭に入ってこない。
思わず、ため息がこぼれた。
小さな吐息のつもりだったが、人の気配のないこの奥まった席では意外なほど大きく響いてしまった。彼が手をとめ、少し心配そうにルカを見る。
「……俺、邪魔してるか?」
「う、ううん、ぜんぜん! ごめんなさい。ちょっと集中できなくて……あっ、でも、あなたのせいとかじゃなくて、前からそうだったから、えっと」
問いかけるような、申し訳無さそうな顔を向けられて、ルカは焦ってしまって、言う必要のないことまで早口で答えていた。でも、うまくまとめられない。
あわあわしたルカに、彼はふっと微笑んだ。
「君は何を読んでるんだ?」
「聖書……」
「聖書? 聖書って、キリスト教のアレ?」
「うん。新約聖書」
「面白いのか?」
「よく、わからないわ」
「わからなくて読むのか?」
「わからないから読むの」
「ああ、なるほど。そういうのはアリだよな。気づかなかった」
心底感心したように言われて、思わずルカは笑ってしまった。
「あれっ、何か変だったか?」
「ちょっとだけ。すごく納得したみたいだったから」
「あ、ああ、そういうこと」
照れたようにはにかんだ笑みを浮かべるようすが柔らかかったので、ルカも思わず微笑んだ。それに気を良くしたのか、彼は言葉を続けた。
「それで、面白くなってきたか?」
「え?」
「その聖書。もう半分くらい読んでるみたいだから」
「……まだ、よくわからないの。でも、最後まで読んでみようと思って。せめてこの福音書くらいはって。人に教えてもらったから、気になって」
「へぇ」
この福音書の名前を教えてもらったからは読んでみようと思ったのだ――そう説明しかけたが、なんだか気恥ずかしくて、ルカは一度黙った。
そして、さっきから気になっていたことを聞いた。
「あなたは、何を読んでいるの?」
「推理小説。普段あんまり本読まないんだけど、まあ、手ごろかなと思ってさ」
「そうなの? 私も読んでみようかな」
「へぇ、意外だな」
「何が?」
「図書館好きみたいだし、推理小説なんていまさら興味ないくらいかと思ったから」
「ううん、読んだことないわ」
「じゃあ、普段はどんなの読んでるんだ?」
そう問われて、ルカは大きくまばたきをした。そんなことを聞かれると思わなかったのだ。記憶をたどるまでもなかった。
「えっと…………聖書を……」
「え、ずっと?」
「う、うん」
「そ、そうか……」
「うん……」
気まずい沈黙が漂う。
そこに、ふんわりと音楽が聞こえてきた。思わず、といった様子で彼が顔をあげる。
閉館だ。
気まずい雰囲気が薄れたようで、少しほっとした。
「閉館ね」
「そうみたいだ。俺、貸出手続きをしてこないと」
「本、借りるの? 読み終わったんじゃないの?」
「まだまだだよ。言ったろ、本を読むのに慣れてなくて。遅いんだよな、読むの」
「明日も、また来る?」
「ん? ああ、たぶん」
「そう」
彼の肯定に、なぜか口元にほほえみが浮かぶのをおさえられなかった。
「……じゃあ、明日も会えるかな」
「そうだな、たぶん。君が図書館に来てたら」
立ち上がって、文庫本を片手に、ショルダーバッグを肩にかけて、彼は歩き出した。
「じゃあ、また明日」
「ええ、じゃあまた」
歩いていく彼の背中が書架の向こうに消えるまで、ルカはそっと見送っていた。
また明日、と彼は言った。穏やかな声で。その響きが、じんわりと胸にしみこむ。
「明日も……会えるかな」
そうつぶやくと、しみこんだ響きが胸の奥に柔らかく灯るようだった。
その時だ。ふと、秒針の音がやけに大きく聞こえた。どきりとして周囲を見回す。もちろん、図書館で一番奥まったこの席に、人の気配はない。
だが、聞こえた。
ルカ、と名を呼ぶ声が。
「誰っ?」
小さく、しかし鋭く声をあげたが、返事はない。
そんなはずはなかった。確かにさっき、誰かがルカの名を読んだのだ。もう一度周囲を見回す。書架の向こうで、誰かが去るような音がした気がした。だが人影は見えない。
その席には相変わらず、ルカしかいなかった。
「もう、誰も、いない……」
ルカの小さなつぶやきは、夕方の気配と遠く聞こえるヒグラシの声に、ゆるゆると溶けて消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます