くらげ

寅田大愛

第1話

 波に漂う――どこまでも流されて。うれしいときも哀しいときも、ただふうわりと微笑んで、なにがあっても、なんにもないような顔をして、ただ、生きる。

 ひとはわたしをくらげのようだと言う。

 ゆめを見た。

 白くひどく凍りついた森の木々のなかを、初雪のような、指が触れただけで溶けてしまいそうなほど、儚い白く透き通ったくらげがゆっくりと瞼を閉じたり開いたりするかのように発光しながら、いくつもいくつも浮遊しているゆめを。ぼんぼりのようで。灯籠のようで。宝石のような明るい眩しいひかりではない。ろうそくのような頼りなく弱いひかり。月のひかりのようである。くらげたちは森のなかを泳いで、どこへ行くこともなく、のびたり縮んだり。触手をのばしたり。かさをすぼめたり。好きなように、自由に、思いのまま、時間と空間の間を、ただ、流れる――

〈あんまり感動がないのね〉

〈まったく、この子はいつもぼんやりしていて〉

〈お子さんはなにをしていてもうわのそらです〉

〈ねえ、聞いてるの?〉

 わたしのまわりは、何枚かのうすい透明な白っぽいヴェールで覆われているような気がする。なにをしていても現実感がない。常に夢見心地である。

〈かわいそうな子〉

 だれかがそう言って、わたしの頭をなでた。それにつられてまわりの大人たちはわたしを見て泣いた。わたしは必ずひとりにならないと泣けなかった。ひとりになっても、自分のいまの気持ちが、哀しい気持ちだということがよくわからず、うまく泣けなかった。それでも、ひとの哀しみには、自分のぼんやりしたこころが呼応するように震えて、自分も思わず哀しい気持ちでいっぱいになることを知っていた。だれかが泣くと、わたしも哀しかった。わたしをとりかこんで、ひとはみな泣いた。わたしはうなだれた。

 母はいつも泣いていた。母の眼から涙がこぼれるたびに、わたしのこころがぽろぽろ削られていくような哀しい気持ちになった。父は母にきつくあたる。父はどこかこころが虚無に囚われているような人だった。それでいて報われぬ底知れぬ途方もない怒りをその身体に宿したひとだった。

 お父さんも、哀しいの?

 そう問うことはわたしには赦されていなかった。ただその父の背中を見て、どうして? とこころのなかで繰り返すことしかできなかった。

 父も母も、わたしからはどこか遠くにいるような存在だった。家のなかは冷たく、よそからばらばらに連れて来られたわたしたち親子が一緒のテーブルについて食事をしているような気がしていた。わたしはいつも延々と痺れてきても口のなかで氷を噛み砕く作業を強いられた人のような態度で両親に接した。父も母も、そんなわたしに対しては、なにも言ってくれなかった。ただ黙々と日々を踵ですり潰して捨てていくように過ごしていった。

〈おまえは、くらげのようだね〉

 だれかが言った。

 わたしが、くらげ?

 熱い燃えるような真っ黒い眼をしたその男の子は、おいで、と言ってわたしの手を強引にとった。痛いよ、と言ってもその子は絶対にわたしの手を離さなかった。

〈だいじょうぶ。ぜったい治るよ〉

 その子はわたしの眼を見て、強い口調でそう言った。そのまま、その熱い身体で、柔らかい氷でできているかのようなわたしの血の気のない身体を、ぎゅ、と抱きしめた。熱い抱擁だった。わたしは思わずその子にしがみつくように抱きついてしまった。涙が、哀しくもないのに、次から次へとほほを伝って零れ落ちるのは、どうしてだろう、と正体不明の感情に襲われながら震えてしまって、自分でもふしぎがった。体の芯まで冷え切ってしまった冴えわたる心が、甘くとろりとした甘美な熱によって、融かされていってしまうのを感じた。もっと。

〈もっと、だって? おいおい。――いくらでもやってやるよ!〉

 男の子は笑って、両腕に力を込めた。〈こうかよ?〉

〈痛いよ〉

〈じゃあこうだな〉

 男の子は、わたしの顔を太陽の匂いのする両手で挟んで、いきなり自分の顔を近づけてきて、わたしと大胆にも唇を重ねた。あぁ……。

〈これで満足しとけよ〉

 男の子は、爽やかな夏の日差しみたいに笑って、自分の唇をぐい、と手の甲でぬぐった。――

「おかあさん?」

 わたしと男の子だったあの人の半分ずつ特徴を受け継いだ、うちの子どもが、無邪気な眼でわたしを見上げた。黒い髪の毛を長く伸ばした、利発そうな顔をした小さな女の子が、ブランコに乗ってその背を押してもらって漕ぎながら言った。

「いまおとうさんのこと考えていたでしょ?」まったく。この子は。なんて鋭いのだろう。

「やめなさい。お母さんが恥ずかしがるから」

 わたしと交代して子どもの背中を押していた夫が、ゆっくりと笑いながらたしなめる。

 天気のいい日曜日の公園。見上げると、空いっぱいにひかりが満ちていた。金や銀や白金や白や、柔らかな無数のひかりの粒が、わたしを包んだ。あたたかな春の日に昼寝をして目覚めたあとのように心地が良かった。なにもかもを、忘れ去れることができるような気がした。わたしの名を、いつまでもすぐ近くで呼んでくれる暖かなひとたちがそばにいる。わたしは歓迎されているようだった。わたしの存在を否定しない、やさしいひとたちが、そこにはいた。わたしはもう、だれからもくらげとは呼ばれていない。長く暗い冬から、季節が春に移り変わるように、そこにはくらげだったわたしが、「だってお母さんはあなたとお父さんのことが大好きだもの」と言って、ただ満足そうに笑える日々を送れるようになった、ただそれだけのことだった。それでも、わたしは、生きていて本当によかった、と心から感謝をしながら毎晩眠りにつくのだった。



                                       

 







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くらげ 寅田大愛 @lovelove48torata

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