家具のない家
解放時の瞬間は、地獄から一気に天国へと駆け上っていくかのような感覚であった。
用を足し終え、トイレの水を流すと、わたしは「ふう」とひとつため息をついた。
一時はどうなることかと思ったがなんとかなった。これもすべて日野くんがトイレを貸してくれたおかげだ。
しかし、だ。
これからどうしよう。日野くんにどんな顔で会えばいいのだろうか。きっと日野くんは、わたしのことをおなかが緩い女だって思っているだろうな。普段はこんなことないのに……。わたしは本当に不運だ。
――いや待て、わたし。きっかけはどうであれ、日野くんと関わり合いになって家にまであがれたんだ。これはチャンスなんじゃないか。
そう前向きに考え直したわたしは、トイレから出る――前に念のために自分のカバンから香りつきの制汗スプレーを取り出し、トイレ全体にまく。そして、改めて廊下へと出た。
「どうでした? 健康的なモノが出ましたか?」
扉の前で待っていた糞精が目を輝かせて尋ねる。
この精霊に付きまとわれるようになってから、トイレを終えると毎回のようにこの質問をされるようになっていた。とはいえ、そんなことに答える義理もない。いつものようにスルーを決めつつ、わたしは糞精にこう釘を刺した。
「いい? わかってはいるとは思うけど、自宅以外ではなるべくわたしに話しかけないでね。他の人に見られたら変人に思われちゃうからさ。特に日野くんの前では絶対よ。ていうか、できればわたしには見えないところで待機してて」
「はい、わかりました……」
糞精は少し寂しそうな表情をしながらも、言われたとおりに壁の中にすぅっととけ込むと、わたしの視界から消えた。
さて、お邪魔な精霊もいなくなったし、とりあえず日野くんにお礼を言わなくちゃ。
わたしは日野くんを探すため、廊下の突き当たりの部屋の扉を開けてみた。
そこはリビングだった。青いソファーに小さな白いテーブルが中心に置かれていたのが、足を踏み入れてすぐに違和感を覚えた。
あまりにも物が少ないのだ。その部屋には他の家具がほとんどなく、生活感がまるでなかった。
「月元さん」
と、不意に背後から声がかかる。振り向くとティーセットが乗ったトレーを持った日野くんが立っていた。
「あったかい紅茶いれたから飲みなよ」
「う、うん、ありがとう」
トイレを貸してくれただけでありがたい話なのに、この上おもてなしまでしてくれるなんて。やっぱり日野くんは親切だ。
わたしはお言葉に甘え、青いソファーに腰をおろし、お茶をいただくこととなった。
「でも驚いたでしょ? この部屋なんにもなくってさ」
日野くんはわたしの前にレモンティーを差し出すと、リビングを見渡した。
「え、そんなことないよ。なんていうか、シンプルで清潔感がある部屋だと思うよ」
「いやいや、それはさすがにお世辞がすぎるって。だって、少し前まではこの部屋にもちゃんと家具が置かれていたんだから」
言われてみれば正面の壁紙も変な形で日焼けの跡が残っている。おそらく、ここにはテレビかなにかが置かれていたのだろう。
「あ、そうなんだ……。でも、どうしていまはこんな状態なの?」
話の流れとしては至って当然の疑問といえるだろう。しかし、その質問を受けた日野くんは顔を曇らせた。そして、少し間をおいてからこう言った。
「……じつはさ、おれ引っ越すんだよね」
「え?」
日野くんの言葉に一瞬世界がゆがんだ気がした。
「親の仕事の都合でね。でさ、ほとんどの家具は新しい家にもう送っちゃってるってわけ」
「じゃあ、学校は……?」
「うん。通える距離じゃないから今月末に転校することになってるんだ。まだクラスの誰にも言ってないんだけど、まさかこんなかたちで月元さんに知られるとは思ってなかったよ」
頭が真っ白になる。せっかくこうやってふたりっきりで話せることができたと思った矢先に、まさか日野くんが学校を去ってしまうなんて信じたくなかった。
だが、そんな動揺をおくびにも出すわけにはいかない。わたしは平静を装って「それじゃあ寂しくなるね」と建前だけの返答をしていた。
そして、レモンティーに初めて口をつける。
でも、いまのわたしには紅茶の味なんてまるでわからなかった。
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