聖域を求めて
わたしの前に犬の糞の精霊が現れてから数日経った。
いまだに糞精はわたしにまとわりついて恩返しをさせてくれと言っている。しかし、わたしは生まれてこの方、便秘なんかしたことがないほど腸内環境が良好な人間である。なので、排便関係でしか願いを叶えることしかできない糞精に恩返ししてもらえることがひとつもなかったのだ。
……こんなポンコツ精霊に付きまとわれるなんて、わたしは本当に運が悪い。
しかも、今日に至っては最悪といえるだろう。というのも、下校時、学校から最寄り駅まで歩いて向かっている途中に猛烈な腹痛に襲われてしまったのだ。
いったいなにがいけなかったのか? 昨日の晩ご飯の牡蛎フライか。今朝飲んだ牛乳か。それともお昼の学食のランチか。
とはいえ、この際原因なんかどうでもよかった。一刻も早くトイレに向かわねば大惨事になるのは間違いないのだから。
だが、駅まではまだ15分ほど歩かなければならなかった。しかも、この近辺は住宅街でコンビニなんかもないのだ。
額に脂汗が浮かぶ中、わたしはお尻に力を込めて内股で一歩ずつゆっくり前へと進んでいった。
これは、少しでも気を抜いたら――
「由香里さん、どうしたんですか? おかしな歩き方をして」
「どおぅっ!」
不意に糞精に声をかけられ、わたしは思わず変な声が出てしまう。
「……ちょ、ちょっと、いまは話しかけないでくれる? 緊急事態だからさ」
「そうなんですか? ぼくが力になれることがあったら言ってくださいね」
糞精は心配そうな顔で言う。
ここ数日一緒に過ごしてわかったのは糞精が基本的にいい奴だということだ。他の人といるときは自然とどこかに身を潜めていてくれるし、わたしがいつものように道ばたで転んだりしたときもすぐに駆けつけて心配してくれる。とはいえ、排便関係でしか願い事を叶えられないので、なんの役にも立たないのだが。
「いや、あなたが力になれることなんて――」
わたしは途中で言葉を切る。そして、ようやく気づいた。
――あんまりにもポンコツな精霊だったから忘れていたけど、この状況こそ糞精に恩返ししてもらうチャンスじゃないか!
「ふ、糞精! いまこそ恩返しをしてくれるときよ。わたしのこの便意をなんとか抑え込んでほしいの」
わたしがそう懇願すると、糞精は仏様のような暖かい笑みを浮かべた。
よかった。これでこの地獄の苦しみからおさらばできる。そう思っていたのだが――
「無理」
「え……えぇっ!?」
予想外の返答にわたしは大声をあげていた。
「いやいや、なんでよ? これこそ糞精ができるピンポイントの恩返しじゃん!」
「いえ逆ですよ、由香里さん。いいですか? ぼくは糞の精霊なんですよ? 便意を解放させるならともかく、それを抑え込むなんてぼくのプライドが許さないんです!」
えぇ……。こんな場所で解放してしまったら、それこそわたしのプライドずたずたなんですけど……。
だが、そう言い返す余裕すらいまのわたしにはなかった。もう糞精は当てにならない。ならば、こんな精霊なんか放っておいて
わたしは、ゴロゴロとうなり声をあげているおなかをさすりながら再び駅に向かって歩き出す。
駅までもつかギリギリといったところか。とにかく、気を抜かずに――
「月元さん」
「どおぅっ!」
またしても変な声が出てしまう。
「ちょっと本当に緊急事態だから――」
どうせ糞精だろうと声の方へと向き直り、わたしは思わず言葉を失った。
上背が180センチほどあるも、撫で肩でひょろりと細い体躯なので威圧感がない風貌。
少しつり目がちであるものの、長いまつげのおかげで優しい印象を与える瞳。
――そこにいたのは間違いなく、わたしの意中の人物である日野くんその人であった。
「ひ、日野くん! え、どうしたの? わたしになにか?」
あまりの出来事にわたしはテンパりながらも、なんとか心を落ち着かせて尋ねる。
「いや、なんか月元さんの様子がおかしかったから心配でさ。大丈夫? 顔色も悪いみたいだけど」
「あ、ああ、うん。ちょっと、おなかが……」
自分が想い焦がれている人に便意が限界に近いことを告げるのはあまりにも決まりが悪い。わたしは途中で口ごもってしまった。
それでも日野くんは察してくれたようで「ああ」とうなづく。
「それじゃあ、うち来る? おれの家すぐそこだからさ」
「え?」
思わぬ提案にわたしは驚いた。
「でも、そんなの迷惑じゃ?」
「大丈夫、大丈夫。いまの時間だと親もいないと思うし、なんも気兼ねしなくて平気だから。……って、もちろん月元さんがイヤじゃなかったらだけどね」
日野くんの家へおじゃまできるのは素直に嬉しい話ではある。トイレを借りるという理由でさえなければ手放しに喜んだことだろう。
とはいえ、おなかの痛みは我慢の限界に近いのも事実。わたしは恥を忍んで日野くんの家へとおもむくことになったのだった。
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