きみの願い事を叶えてあげましょう


 どうやらこの糞の精霊はわたし以外には見ることができないらしい。くわえて壁や扉もすり抜けて通ることが可能なようだ。つまり、どうやってもこの精霊からは逃げられないということになる。

 その事実を知ったわたしは、諦めて精霊を家にあげると自室へと通した。家族以外で初めて部屋に招き入れた男の人が、まさか犬の糞の精霊になるとは思ってもみなかった。


 わたしが「とりあえず座って」とクッションを顎で指すと、糞の精霊は言われた通りにそこに腰をおろした。案外物わかりはいいのかもしれない。

 しかし、いままでイケメンだからとか、不審者だからとかで落ち着いて接することができなかったが、こうして改めて対峙してみると――クサい。これも糞の精霊のせいなのだろうか。


「あ、あのさ……言いにくいんだけど、なんていうか、あなたちょっとにおうわよ」


 わたしは正直に言ってやることにした。ちょっと失礼かなとも思ったが、こうして接することになった以上、ちゃんと指摘してあげることが優しさだと判断したのだ。

 だが予想に反し精霊は嬉しそうに照れ笑いを返した。


「……なんで喜んでるの?」


「だって、きみが臭うだなんて誉めるから……」


「いやいや、誉めてないから!」


「え? そうなんですか? でも、臭うって言葉が誉め言葉だっていうのは糞界ふんかいじゃ常識ですよ」


「そんな世界の常識知らないし、知りたくもないから! ていうか、こんな臭いまき散らされちゃ困るんだけど」


「そこはご安心を。この臭いもきみにしか嗅ぐことができないですから、他の人にぼくの存在が気づかれることはありません」


 困るの意味を取り違えているようで、精霊は的外れなことを言って胸を叩いた。


 とにかく、こんな精霊がいつまでも部屋にいても迷惑だ。なんとか早く出て行ってもらわないと……。

 わたしはそんなことを考えながら、部屋を興味深そうに見回す糞の精霊に尋ねた。


「……とりあえず自己紹介でもしたらいいのかしら。わたしは月元由香里。あなたは名前は?」


「いやだなぁ。ぼくは精霊ですよ? 精霊に名前がないのなんて精霊界の常識ですよ」


「だから、そんな世界の常識なんて知らないから! ……はあ。もう、いいや。じゃあそのまま糞の精霊――だとまどろっこしいから略して糞精ふんせいって呼ばせてもらうわよ」


 わたしは頭に痛みを覚えながらも話を続ける。


「それで糞精はこれからどうするつもりなの?」


 すると、糞の精霊改め糞精は、きょとんとして「どうすると言いますと?」と聞き返した。


「いや、だから、あなたはいったいなにがしたいの?」


「ですから、何度も言っているじゃないですか。ぼくは命を救ってくれたきみに恩返しがしたいんですって。きみが心から感謝してくれるまで、ぼくは絶対に帰りませんから」


 とりあえずツッコミどころはたくさんある。だが、その中でも突出して疑問に感じているのは――


「――そもそもさ排泄物に命なんかないじゃん」


 わたしがそう言うと、糞精は首をぶんぶんと横に振った。


「それは人間の観点からですよね? 糞の観点では違います。糞も人間のように生きており、人間のように考えたりもするんですよ。自分の世界しか信じられない。これは人間の悪いところだと思いますよ」


「は、はあ……すいません……」


 よくわからないが、なんとも妙な説得力があり、わたしはついつい謝っていた。まさか犬の糞に頭を下げる日がくるとは……。

 しかし、このままではいけない。とにかく、わたしは恩人などではないということを糞精に理解させなくては。


「でもさ恩返しって言われても、別にわたしはあなたを助けたつもりなんかないんだけど……」


「そんなご謙遜を! だって、由香里さん。きみはぼくを助けた時に『よかったぁ』って言ってくれたじゃないですか」


「いやいや、あれは犬の糞を踏まなくてよかったって意味だからね?」


「え? だから、ぼくを踏んでつぶさなくってよかったってことでしょ?」


「うん、まあ、それはそうなんだけど……。あなたを助けてっていう意味じゃなくって、わたしの服が汚れなくってっていうことだから……」


 自分で言っていてよくわからなくなってきた。日本語って難しい。

 とりあえず、結果としてわたしが糞精のことを助けたのは間違いないのだろう。それならば、ここで否定しているよりかは、話を合わせてこの面倒くさい精霊様に早々に帰ってもらうほうがいいのかもしれない。


「はあ……。糞精の言い分はわかったわ。じゃあ、その恩返しっていうのをさっさと済ませちゃってちょうだい」


「ありがとうございます! それでは願い事をおっしゃってください。ぼくにできることならなんだって叶えてみせますから」


「願い事ねぇ……」


 ん? 待てよ。いままでこんな意味不明な精霊と関わり合いになってしまったことを不運としか思ってなかった。だが、なんでも願い事を叶えてくれるっていうのなら、糞精との出会いはむしろ幸運といっていいのではないだろうか。

 先ほどまでただの不審者としか思っていなかった糞精が一気に神々しく見えてくる。我ながら現金な性格だ。


 しかし、なにをお願いすればいい? ここは慎重に決めなくては。


 すぐに頭に浮かんだのは不運の解消というものであった。だが、もはやわたしの不運は日常と化しているもので、わたし自身が諦めている部分もある。それならば、自分にもっと利益があるようなもののほうがいいだろう。


 お金。

 美貌。

 頭脳。

 才能。

 欲求なんてあげればきりがない。でも、いまのわたしが一番欲しているもの。それはひとつだけだ。


「そ、それじゃあ、日野ひのくんと両想いになれるようにして!」


 日野くんというのは同じ学校に通うクラスメイトである。そして、わたしがいま密かに恋心を抱いている男子だ。

 わたしが頬を赤く染めながら願い事を告げると、糞精は聖母のような優しい笑みを浮かべた。


 ああ、これで生まれて初めてわたしの恋が実るのだ。そう思っていたのだが――


「無理」


「え……えぇっ!?」


 糞精の返答が期待していたものとは真逆のものだったため、わたしは大声をあげていた。


「いやいや、なんでも願い事叶えてくれるって言ったじゃん!」


「そんなこと言ってませんよ。ぼくにできることならって前置きしたじゃないですか。そういう願い事は恋愛関係の精霊にでも頼んでください」


 なんというだまし討ち。それじゃあわたしは、出会って間もない精霊に、ただ自分の好きな人を打ち明けただけじゃないか。こんな恥ずかしいことはない。


「……なら糞精はどんな系統の願い事なら叶えてくれるのよ?」


 なんとか気を保ちながらわたしが尋ねると、糞精は胸を張ってこう言うのだった。


「ぼくは糞の精霊ですよ? そんなの排便関係に決まってるじゃないですか」


 ああ、やっぱりわたしは超絶不運な人間らしい。

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