犬の糞の精霊


「あのう」


 そう背中から声をかけられたのは家のすぐ手前だった。


 まったく。最後の最後でまたなにか不運があるのだろうか。先ほど尻餅をついた拍子に手のひらを擦りむいたからさっさと帰りたいというのに。


 新興宗教の勧誘か。それともよくわからない抽象画でも売りつけられるのだろうか。


「なんでしょう……か?」


 わたしは苛立たしさを隠すことなく後ろを振り向いたのだが、声をかけてきた人物を見て思わず言葉に詰まってしまった。

 というのも、その人物がアイドルグループに混じっていても違和感がないほどのイケメンだったのだ。

 年齢はわたしと同じくらいだろうか。目は大きく幼い印象を与えるが、その分すじの通った高い鼻が大人っぽく、そのギャップに色気を感じる。くせっ毛であろう茶色に染まった髪の毛が、外側にぴょんと跳ねているのが特徴的な人だった。


 こんなイケメンに声をかけられるなんて! もしかしてナンパ? いや、待て。わたしは超がつくほどの不運人間。それなのに、イケメンからナンパなんていう幸運あるわけないじゃないか。だから期待なんかせずに冷静に対応するんだ。


 わたしは大きく息を吸って心を落ち着かせる。


「わたしになにかご用でしょうか?」


「はい。ぼくはきみに恩返しをしにきたんです」


「は?」


「ぼくは先ほどきみに命を救ってもらいました。だから、きみのためになにかしてあげたいんです」


 なに言ってんだ、この人。わたしは誰かの命を救ったことなんて一度だってないし、そもそもこんな格好いい人のことを忘れるわけがない。


「申し訳ないんですが、わたし、あなたのこと知らないんですけど。人違いじゃないですか? それに先ほどって言うけど、今日はわたし、自転車にぶつかったくらいでほかに変わったことなんてなかったですし」


 わたしがそう言うと、イケメンは顔をぱあっと輝かせた。


「それですよ! ぼくが自転車にひかれそうになったところをきみは身を呈して助けてくれたんです!」


 はて、自転車にぶつかったときにほかにだれかいただろうか。あまり覚えていないが、周囲にはだれもいなかったように記憶している……。


 わたしが少し考え込んでいると、イケメンがなにか思い出したかのようにポンと手を打った。


「ああ、そうか。ぼくの姿が違うからいけないんですね。それなら自己紹介をすればわかってもらえるはずです。ぼくは先ほどきみに助けてもらった犬の糞の精霊なんです」


「……」


 意味不明すぎる。そもそも自分のことを精霊っていうだけで普通じゃないのに、わざわざ犬の糞の精霊だなんて理解できない。


 だがひとつだけ間違いないことがある。


 この人はヤバい人だ! 


 急激な危機感に襲われたわたしは、目の前の自宅に一目散に飛び込んだ。玄関の扉を閉めて、焦る気持ちをなんとか落ち着かせしっかりと施錠をし、ほおっと息をついた。

 いくら不運だからといってあんな不審者に出会ったのは初めてのことだ。いまでも心臓がバクバクいっている。しかし、あの男の目的はなんなんだったのだろ――


「なんで逃げるんですか。恩返しをさせてくださいよ」


 思考を遮る声がすぐ隣で聞こえる。わたしはゆっくりと横を向いてみた。

 ――そこに先ほどの自称犬の糞の精霊のイケメンがいた。


「ぎゃー!」


 先ほどの不審者が家の中まで侵入していたのだ。わたしは反射的に大声で叫んでいた。

 その悲鳴にお母さんがリビングから飛んで来た。


「由香里、いったいどうしたの!」


「この男が……家の中にまで入ってきて……」


 わたしは男を指さしてお母さんに助けを求める。

 だが、そんな慌てふためくわたしに対し、お母さんは眉をひそめた。


「あんた、なに言ってるの? 誰もいないじゃない」


「え? いや、ここにちょっとカッコいい――変な男の人がいるでしょ? お母さんには見えないの?」


「なぁに? お母さんのことからかってるの? それとも妄想の恋人ごっこ? そんなバカなことやってる暇があったら現実のボーイフレンドのひとりでも連れてきなさいな」


 お母さんはやれやれと言わんばかりに首をすくめると、リビングに引っ込んで行ってしまった。

 あの態度を見る限り、本当にお母さんにはこの男の姿が見えないらしい。

 ということは、つまり――


 ――この人は本当に犬の糞の精霊ってこと!?

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