第71話 Loss Angels

(1)

 サンタバーレとアンドローズを結ぶ海、ヴォルフテッド海は、この日は弱い雨。

 王宮騎士団長のカルナと、歩兵隊隊長となったサランは共に最前線を指揮することとなっている。


 もっとも、“勇者”達が魔王との交渉に失敗すれば、の話であるが。


 そう、此処にいる誰もがこの最終決戦の開戦を期待してはいない。

 きっとリョウとセイがリノロイドを説得してくれて、この戦いは杞憂に終わる――それはここにいる兵士達の共通の願いであり、祈りであった。

 今、彼等は魔王勅命軍の様子を探っている偵察部隊からの情報に聞き耳を立てているところだった。

 丁度、開戦まで、5時間を切ったところである。

 「伝令によると、まだ、魔王軍元帥・アレスが到着していないみたいですよ。」

サランがカルナにそう告げた。

「リョウ君達の情報はまだ無いのかい?」

「残念ながら」

サンタバーレ軍は、リョウ達の安否すら掴めていない状況だった。カルナは一つ唸る。

「アタイが現役だったら、ソコんトコ突っ込んで調査したげるケドなァ」

「その“突っ込んだ調査”で片目を失って、結局引退せざるを得なくなったのは何処の誰でしたっけ?」

「……サラン君はセイ君に毒の盛り方まで教わったのかい?」

カルナはサランの頬を抓ってやった。事実、あの双子の勇者達がこの王子に与えた影響はかなり大きい。それだけに、彼等には何としてでも無事でいて欲しいのだ。

「大丈夫です」

サランが言った。

「フィアルさんや、リナさんもついているから」

 ――雨が強くなってきた。

 何時止むのか分からない雨だ。成長期真っ只中の健全な肺臓の為、そして、不意のサウダージに襲われた為、

「ちょっと、煙草吸ってくるよ」

と、カルナはキャンプの外れに移動した。

 そういえば、『勇者』達の出発前日のあの日も、こんな雨の日だった――それを何となく思い出していたカルナは、溜息と一緒に煙を吐いた。


 “会う度に変わっていくね、アンタも、アンタの仲間も”

こうリナに声をかけたのは、カルナの率直な感想だったからだ。

“アンタはずっと変わらない。昔のまんまだ”

だから安心するんだよ、とリナは言ってくれた。

“アンタのお陰で『自由』を手に入れられた。これは造られた命ではなく、生かされた命なんだ――って、私なりにあれこれとやっていたつもりだが、いつの間にかこんなところまで来てしまったな”

親友と話している最中にも、リナの眼は始終、窓越しに映る『勇者』を映していた。

“今は、マオ様よりもランダ様よりも、あの子達の夢を見るんだ”

彼女の心の中で、動かし難い筈だった何かが変わっているのを痛感させられた瞬間だった。そう、以前の彼女なら忠誠や敬意で人間関係を作っていたし、彼女だってそれを自覚し、自嘲していたところもあった。そう言えば、リナは『勇者』にも『魔族の皇子』にも敬称を使わない。

“あの子達には、敬意とか忠誠とかじゃなくて、何か同情めいたものがあるんだ”

カルナ、アンタにもそうだよ――そう言ったリナの笑みには悲壮感はなく、あえて例えるなら、慈愛のようなものが滲んでいた。

 

「(そう言えば、あの時は煙草フカしてなかったな)」

今は隔てるものもなく降る雨を見つめながら、カルナはもう一つ煙を吐いた。

(2)

 『呪縛呪文(コンストレイン)!』

リナはボロボロの腕を伸ばし、フェンリルの動きを封じ込めた。

「リナ、どうしたんだよその傷……」

あまりに痛々しい彼女の傷を見たリョウが思わず駆け寄る。しかし、回復呪文(ヒール)を、と伸ばしたリョウの腕を、彼女は拒否したのだった。

「余計な魔力のロスは避けな。アンタ達は、これからリノロイドと“交渉”しなきゃならないんだよ?」

彼女の仕掛けた呪縛の中で、フェンリルが大きく咆哮をあげている。この呪縛呪文も、そう長くは持たないだろう。

「何か良案が?」

リョウの代わりにアレスが問う。彼女にはリナの行動が理解できないのだ。ここへ来て回復を断る理由が何処にあるのだろう。

「フィアル、アレス、……少し、魔力を分けてくれないか?」

リナがそれだけしか答えなかったので、二人はそれに同意した。フェンリルの動きを封じる為に腕を伸ばしつつ、彼女は魔力回復呪文(エナジードレイン)の詠唱を唱える――治さない傷、充填した魔力……これが意味するものとは?

「(まさか――)」

フィアルは嫌な予感がしていた。

「どうするの、リナ?」

やはりリナの傷が気になるリョウは、不安な表情を隠しきれない。リナは口元を緩めた。

「要はな、」

リナは、傷だらけのみすぼらしいオオカミのバケモノを見つめて口を切った。

「何をどうしたって、チカラには平等原則が成り立たないだろ? 私達がどんなに頑張っても、倒す事の出来ないバケモノもいるんだ」

フェンリルがリナの結界に体当たりをし始めた。チカラの逆流で、リナの細い腕からも血が噴き出す。しかし、それには全く構うことなく、リナは続けた。

「だが、万物に全て等しく与えられているものがある」

ここへ来てのまさかの禅問答にリョウとセイが顔を見合わせるが、すぐにフィアルが答えを出した。


「命、だ」


そうだ、とリナはニッと笑った。

「貴女まさか……!」

アレスも気が付いた。そして、セイも――

「一歩たりともそこを動くんじゃねぇ!」

セイが剣を抜き、リナに刃を向けた。

「そんなコトしてみろ、オレが此処で殺してやる!」

(3)

 “この旅に出る前に、マオ様にも申し上げておいたんだけれども、”

リナはずっと窓の外の雨粒を見つめていた。

“言われなくても分かってるよ”

ちゃんと聞きたくなかったので、カルナはリナの言葉を遮った。

“マオ様にも同じコト言われたなァ”

――だからこの旅に出る事をなかなか了承してくれなかったんだ、とリナが笑った。

“アンタはずるいよ”

よりによって、出発前日に言いに来るんだから……

“「リナ」なんて名前を付けたのがいけなかったみたいだな”

 カルナは煙管の中の灰を捨て、もう一つ煙草の葉を入れた。まだ、雨が止まない。開戦まであと僅か。そろそろ兵士達も口数が少なくなってくる。しんとしたキャンプの中には溜息の音だけが聞こえる。そろそろ兵士達の士気を上げなければならないのだが、カルナもどうもそんな気分にはなれなかった。

“でも、アタイが止めたって、もう覚悟決めちまったんだろ、リナ?”

泣いていた気がする。リナが困った顔をしていた。

“達者でな、カルナ”

アリガトウ、と残して、彼女は旅立った。

 

 カルナは吸いかけの煙草の葉を、雨を含んだ大地に捨てた。

(4)

 リナは突き出されたセイの刃を掴み、自分の喉元に突きつけて見せた。既に、剣の柄を握るセイの手は完全に力を失っていたようで、彼と彼女の手を離れて床に落ちた刀身が乾いた音を立てた。

「自分を追い詰めるような事をするんじゃないよ。アンタの悪い癖だ」

詮方無くしたセイが舌打ちして剣を拾い上げる。リナは一つ頷いて、その『勇者』の姿を見守っていた。

「リナ?」

リョウの不安は募るばかりだ。いや、心の何処かでは、リナの言わんとすることは理解できていたのだろう。だからこそ、何でも良いから、彼女から納得できる言葉が欲しかったのだ。

「私も、あの子と同じさ」

当惑しているリョウに、リナは笑みを見せた。

「あのフェンリルもファリスも私も、リノロイドに仕える為に作られたアンドロイドだったんだ」

「え……?」

欲しい答えではない、とリョウの表情が更に困惑の色を深めたが、構わず、リナは微笑んで続けた。

「私は失敗作だったのが幸いして、直ぐに魔王軍を抜け出せたのだけど」

リョウとセイ、そしてアレスまでが動揺する。一人、フィアルだけが、ただじっとリナの言葉に耳を傾けていた。「訊かれなかったから言わなかった」だなんて、つれないことを言っていた、彼女の過去に。

「スクラップにされる前にサンタバーレのカルナに救われた。ただそれだけの偶然で、私はアンタ達と出会えたんだ」

身動きできないフェンリルの抵抗がリナの身体を激しく傷付ける。アレスはせめてもの償いに、濃霧召喚呪文(ミスト)を唱え、フェンリルの視界を再度遮った。この呪文の詠唱と適宜繰り出されるフィアルの魔法球により、フェンリルは見当違いの場所に体当たりを返している。お陰で、リナの腕は何とか負荷から解放された。

「一つの命は一つの命に優ることもないし、劣ることもない」

――私の命があのバケモノの命に劣ることもないだろう、と言い切ったリナは、ニッと笑って見せた。

「リナ、それじゃあ……」

リョウの目から、にわかに涙が溢れてきた。

「リョウ、セイ、アンタ達なら、必ずこの戦いを終わらせることが出来る」

それは丁度、臨終の言葉のようで、リョウは堪らなくなる。

「ダメだよそんなの!」

誰でも良い、彼女にそれは違うと言って欲しい! ――しかし、フィアルもアレスも俯いたまま、一言も発さない。リョウはもう一度首を振った。

「大丈夫さ、アンタ達は誰よりも人の痛みを知っている上に、誰よりも強い」

――セイまで顔を背けてしまった。

「リナ姉……」

フィアルは彼女が下した悲壮な決断を知っていた。知ってはいたが、解せなかったのだ。構わず、リナは彼にも微笑を返した。

「フィアル、早く魔王になって、闇の民を幸せにしてやってくれ」

しかし、そう言葉をかけたリナの笑顔に悲壮感は微塵もない。伝え残した事など、何もないと思っているからだろうし、傍らにアレスがついてくれているなら安心だと思っているからだろう。

「リナ姉、そんな……」

フィアルの声が震える。

「貴女は……貴女はまだ、死んじゃいけない!」

フェンリルが痛みのあまりに声をあげている。リナはフィアルからオオカミのバケモノへと視線を移す。

「この子は私と同じ、人間を殺すために作られた兵器だ。だから、この子を救ってやれるのは、私だけだと思うんだ」

「だからって、お前が死ぬか?」

掠れた小さな、本当に小さな声で、セイが呟いた。うつむいた表情は彼の長く伸びた前髪の所為で見えないだけに、余計感情的に見える。

「これは、むしろ私の為だと思ってくれ」

やっと返せた彼女のその言葉を聞いたフィアルが、目元を掌で覆い隠した――ああ、この人は本当に……

「(大好きなんだね。リョウちゃんやセイちゃんや、仲間達の事が)」

そして、それは人工傭兵などという造られたものなんかじゃなく、“リナ”という一闇の民の純粋なココロに由来しているのだ。

「アレス、」

リナは先程からじっと涙を堪えていた敵の元帥にも声をかけた。

「貴女が此処で戦ってくれている事が嬉しかったよ」

「……。」

声にならなかったので、アレスは首を横に振るだけに留めた。そんな彼女に、リナは最初で最後の要望を出した。

「もし、貴女が今後とも軍の中枢に在り続けるならば、」

丁度、フェンリルが雄叫びを上げたところだが、リナは続けた。

「もう私やこの子の様なバケモノを作らないように教化してくれないか」

ふざけんじゃねえ、とセイが声を荒げたところである。

「承知しました」

アレスはリナと神に宣誓した――こんな悲劇は、二度とあってはならないから……

「頼んだぞ」

もう何も、言い残した言葉は無い。リナは満足し、微笑んだ。そしてゆっくり腕を下ろし、呪縛呪文(コンストレイン)を解除した。

「嫌だリナ! 行くな!」

リョウはリナの手を引き、そのまま彼女の肩に泣き顔を押し付けた。

(5)

 リョウは覚えてはいないだろう。レニングランドからマオからの使者としてベルシオラスまでリョウを迎えに行ったのは、実はリナであった。あの頃から彼は、『勇者』であると諭しても首を傾げるばかりで、周囲の大人達に修行させることさえためらわせてしまうぐらい朗らかであった。何とか剣をとらせても、リョウは誰でも受け容れて優しくし、誰にでも愛想が良くて気立ても良かった。その陰で、まさか養父から虐待を受け続けていたなんて、彼は想像さえさせなかった。そういう意味では、彼は根に“強靭”なものを持っていた。

 一方、セイはこちらが話し掛けるなり闇の民と察し、威嚇してきた。天才剣士として、若年からレニングランドのピースキーパーとして活躍していた彼にしてみれば、闇の民であれば全て敵であり、全て殲滅すべき対象だったのだ。父親を嘲笑する脆弱な光の民とはまとめられたくない、『勇者』などではなく、父親の仇を討つ為に誰よりも強くなりたい、と剣を取っていた彼が、皮肉にも潜在的な“脆さ”を内側に抱きながらこの世に生まれてきたという矛盾――そんな彼が今となっては、天国へ還ろうとしている“天使”を引き止めようと、兄と同じように彼女の手を掴んで放そうとしない。

「リョウ、セイ、……」

リナはもう一度、双子達を振り返った。

「行くな」

やっと、セイは言葉を発した。声帯を傷めているからだろうし、打ち消しては溢れてくる感情に対処しきれないからだろう。

「やれやれ」

と、苦笑を浮かべたリナは、大きな白い翼を広げたまま双子達の肩を抱きしめた。それはまるで、天使の加護である。丁度、『勇者』が天使の白い羽に抱かれているかのように、フィアルとアレスの目にも見えたのだ。

 何て顔してるんだい、と呆れた天使が声を張り上げた。

「もっとシャキッとしなよ、“勇者”だろ?」

リョウが何度も何度も涙を拭い、セイが漸くリナから手を離し、その手を強く握りしめた。

「二人共……」

少し声が震えたのが我ながら可笑しくて、リナは素直に笑った。

「この世界の事、頼んだよ。分かったね?」

リョウもセイも頷く。

「当たり前だろ!」

何度も涙を拭って赤くなった目ではあったが、リョウは一生懸命笑顔を作った。「送り出すならせめて笑顔で」と、心に決めた思いやりであり、優しさだ――何て彼らしいのだろう。

「良い返事だね。ホラ、セイは?」

リナが促して、漸くセイも口を開いた。

「言うまでもねェよ」

口元だけに笑みを引っ張って、溢れてきたものをごまかしている――何ということは無い。何につけても不器用だった、彼らしいじゃないか。

「頼んだよ」

そう言って微笑んだリナが、双子の肩を、ポン、と強く叩いた。


――翼が開く。翼が羽ばたく……飛んで行ってしまう!


残されたのは涙ではなく、『勇者』であった。


(6)

 “天使”がドームの頂点まで翔け上がった。丁度、アレスがフェンリルにかけた濃霧召喚呪文(ミスト)の効力が切れ掛かってきた頃合いだ。

『大いなる神の名の下に、生けどし生ける者達の魂が均しく在るならば、神よ、彼の者の魂を、我が魂と引き換えに救い給え……』

リナの詠唱が進むにつれ、ホールの中は熱に支配され始めた。

「(“黒い天使”に、なってしまうのか)」

フィアルは悟った。彼女にはこうなる事が分かっていたのだろう。だからこそ、あえて自分には見せておいてくれたのだ。全てはこの幼い『勇者』達を守る為――フィアルも詠唱を始めた。リナが発する熱から、双子達を守る為の結界発動呪文の詠唱である。それにしても……

「(この悲しみは遣り切れないよ!)」

――この涙さえ、この熱では蒸発しきれないというのに。


 リナの支配する熱がドームを焦がしている。結界で守られているリョウ達ですらそれを感じるのだから、きっと結界の外はもの凄く熱いのだろう。その証拠に、リナの皮膚は今まで見たことがないくらい黒く、綺麗だった銀色の髪も焼き切れてしまっていた。

今、翼が焼き尽くされて、消えた。

「苦しいか?」

リナは熱さに喘いでいるフェンリルを見下ろした。彼は焼け爛れた皮と、今もなお食欲に満ちたぎらついた眼だけを顕にしている。

「すぐに楽にしてやるよ」

もうリナからは翼が消えてしまったが、

「天使、か」

そう零したフィアルは目を閉じた。何時だっただろうか、“天使”と言う言葉を使ったら、彼女に失笑されてしまった事がある――この身体は“バケモノ”さ、と。

「もう羽は要らないな。お前も一緒にヘヴン(天国)に還るんだ!」

しん、というぞっとするような静かな間があった。これから起こる大いなる喪失を目の前にどうする事もできず、天井を見上げたまま茫然と立ち尽くしていた双子達に、“天使”は一度だけ振り返って、手を振ってくれたのだ。


――バイバイ。


「リナ――ッ!」

泣き崩れたリョウと、強く拳を握りしめたセイ。その声は届いただろうか。ともかくリナは、灼熱に悶え苦しむフェンリルに向かって、勢いよく下降して行った。それも、光と熱と音と共に、激情が地に墜ちる!

『終幕(ターミネーション)!』


爆発は爆音と爆風を伴ったというのに、それは誰の記憶にも残っていなかった。多くの時を費やしてプロテクトしておいたドーム状の天井が瞬く間に砕け散り、どんな魔法も受け付けなかったバケモノをも滅ぼしたというのに……

(7)

 “リナ”という名前を持つ者を二人知っている。1人は、スパイ時代に殉職した彼女の腹心で、もう1人は、腹心を失った直後に死地で出会った、魔王勅命軍が作ったアンドロイド。

「(雨、止みそうにないね)」

カルナは煙管をしまい込んだ――進軍開始まで、後3時間強。いや、きっとこれは中止になるに違いない。あともうすぐで、“勇者”が“魔王”を説得してくれたという知らせが届くだろうから。

「カルナさん、伝令が届きました」

サランがテントに駆け込んできた。

「何だい、ちょっとは進展したのかい?」

カルナはサランが持ってきたメモを確認する。

「いいえ。祖父からの伝令です」

サランの祖父とは、つまりサンタバーレ第一国王の事だ。手紙にはこう記されてあった。


***

――翁より騎士団長へ。

“勇者”を信じて待つべし。「天使は天国へ還るもの」との先人の教え。趨向は神の思し召しに違う事無し。

***


カルナはサランを見た。

「魔王軍も元帥不在で立ち往生している模様です。きっとリョウさん達が健闘してくれているんでしょう。焦らず、吉報を待ちましょう」

いつの間にか雨が止んでいて、弱い陽が射して来たのに気が付いたカルナは、サランの言葉を半分聞き逃してしまった。

「どうしたんですか? 何だか、ボーっとしてますね」

らしくない、とサランは笑い飛ばしてくれた。つくづく、彼は変わったなとカルナは思う。

「そうだね。ダメだね。こんな時にこんなんじゃ」

カルナは渡されたメモを懐にしまい込んで、自分の両頬を叩いて見せた。

「そうですよ」

苦笑いを返す彼は、ふと、カルナの足元で雨に晒されている煙草の吸殻に目を留めた。

「リナさんが心配していましたよ? 煙草ばっかり吸って、って」

「ったく……アイツめ」

カルナは溜息をついて、髪を掻き上げた。

「頼みますよ、カルナさんに言付けろって言われてるんですから」

――長生きしろよ、と。

「ハハ、何だそりゃ」

カルナは剣を取り、サランと共にキャンプを後にした。これから陣を整え、士気を高め、来るに違いない伝令を待つ。

「どの面下げてアイツが言うんだよ」

雲の切れ目から陽の光が漏れてきた。天国への扉とも見紛うその光は、アンドローズ方面に射し込んでいる。それは丁度、天使が天国へと還るのに、似つかわしい空だった。

(8)

 雨が降っていたらしい。

 湿り気を含んだ冷たい風が、疲れ果てた戦士達に吹き付けてくる。その風と、とてつもない喪失感に、戦士達はじっと身を竦めていた。粉々に壊れてしまった美しい王間は、この城の外に幾つも浮かんでいた魔法分子の塊が修復してくれるらしい。今は血を噴く傷も、時を置けばやがては治り往くのだ。

 しかし、彼女はもう、二度と、戻っては来ない――これは確かなことだった。

 「耐えて、歩き出しなさい。『勇者』ならば」

漸く、アレスがドームを後にした。それは最も確かで、最も正しい助言だった。

「……。」

次いで、フィアルが何処かへと消えた。それは最も端的に出来る慰めだった。

 ――そこには、天使が守り抜いた『勇者』だけが取り残された。彼等は暫く、それぞれがリナと共有した思い出の糸を辿り、何とかこの喪失を消化しようと腐心していたのだが、その途中で、ふと、リョウが口を開いたのだった。

「なァ、セイ」

話しかけられたものの、上手く声が出ないセイは、とりあえず首だけを兄に傾けた。続けて、曰く。

「リナ、ずっとこんなこと考えてたのかな?」


“アンタ達を、絶対ランダ様やセレス様のようにさせるわけにはいかない。私はその義務を自分に課した。これが、私がアンタ達と共に旅をする最大の理由だ”


何時だっただろうか、リナはリョウにこう話してくれたことがあったのだ。

「だとしたら、リナにとってこの旅は、もの凄く辛かったんじゃねえのかな?」

そう言葉にしただけで悲しみが込み上げてきて、もう一度リョウは顔を伏せた。

「(そうだったんだな)」

掠れた喉が酷く痛いし、今更何も振り返れないセイは、言葉も感情も全て呑み込んで空を見上げるしかなかった。


その時だった。

「それは違うな」

ふと、女声が聞こえたのだ。リョウとセイは驚いて周りを確認する。コツリ、と革靴の音が聞こえた。

「リノロイド……!」

リョウとセイは声を失った。まさか、今、この場所で彼女に見(まみ)えるとは、思ってもみなかったからだ。

でも何故だろう、目の前に闇の民の王が佇んでいるというのに、今は心も身体も鈍感で、彼女に対して当然持って然るべき警戒感すら、完全に失ってしまっていた。リナを失ってしまった事で神経が打ちのめされていた事に加えて、今この時の魔王の表情や雰囲気が独特だったからかも知れない。

「あの女は昔から、他人の為に犠牲を払う事を善として、生きがいにしていたような奇怪な女だった」

ちっとも変わっていない――そう呟いた魔王は、一体何処から手折ってきたのだろうか、白いコスモスの花を一輪、炎を召喚して燃やした。


白い煙が立ち昇り、風に撒かれて消えていく。リョウとセイは、ぼんやりその様子を見つめていた。

「……そっか」

リョウは目を閉じた――リノロイドもまた、リナというヒトを知っているのだろう。決して他人には明かさない過去があり、彼女の死を悼み弔うだけの経緯があるのだろう。ならば、此処で彼女と悲しみを共有しても良いのでは無いか、と思ったのだ。

「今日はあの女の供養をするが良い」

魔王は勇者に背を向けた。

「我はもう、逃げも隠れもしない」

エルサザールに来るが良い――魔王はそれだけ言うと、忽然と消えた。


 「リナ……」

何とか、リョウは瞼を開けた。分厚い雲に覆われていた筈の空に青が差し込んでいる。

「あ」

天使が一人、そこへひらめいていくのが見えた気がして、リョウは思わず声を上げた。

“私は此処から、アンタ達を見守っていてやるよ”

――そう、言われた気がしたのだ。

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