第70話 バケモノ

(1)

 目の前の獣系魔物の端くれは、物理的攻撃にも魔法的攻撃にもかなり高い耐性を備えている。正真正銘「バケモノ」だった。うんざりしたセイが天井を仰いだが、次の瞬間、彼の耳は珍しい音を聞きつけた。

『光よ、その白き掃滅のチカラを経て我が前に降臨せよ……』

セイの意向を汲んだのか、何と、リョウが攻撃呪文の詠唱を行っていたのだ。随分久しぶりにその詠唱を聞いたセイは、一旦、兄にその場を託す。

 結晶化し始めた魔法分子が呼び寄せる負のチカラを殺さぬよう、リョウは両手を上に挙げた。間もなく、詠唱が完結する――

『荒ぶる神の悪意(ディストラクティヴアルェス)!』

既に、魔族専住地・サテナスヴァリエ中の光魔法分子が、枯渇するのではないかと思う程、一斉に彼の四肢に集結し、巨大な結晶となっていた。それは大きな負のチカラを放出しながらフェンリルに襲い掛かる……筈だった。

「あ」

リョウの放った結晶は、どんどん収縮しながらフェンリルに到達し、ポンと間の抜けた音を立てながらフェンリルの鼻の頭にぶつかった。フェンリルは2度瞬きをして、鼻の頭を舐めただけ。

「んー……失敗失敗」

ここ数ヶ月の間、ろくに攻撃呪文を唱えていなかったリョウは、詠唱のどこかを間違ってしまったようだ。「なんだったっけな」と頭を抱えたリョウの背後から、殺気が近づいてくる。

「リョウ」

乾いたセイの呼びかけ声が風雲急を告げる。

「ハァイ」

危機を嗅ぎつけたリョウは身構える。間もなく、ドーム状の王間が戦慄に震えた。あえて音にすれば、以下のとおりである。

「ドおおおおおぉアあああああぁホおおおおおおおぉ!」

――ドームに共鳴したその怒声は、城内にも響き渡っていたという。

「ひぃっ!」

恫喝に身を竦めるリョウとフェンリル。

「さっさと下がれグズ」

吐き出すべきストレスはとりあえず発散したのだろう。さっさと戦闘体勢に切り替えたセイは、散逸しかけた光魔法分子を取り込むようリョウに命じた。

「久しぶりだったモンなァ、攻撃呪文」

掌をしげしげと眺めて溜息をつくリョウは、とりあえず戦闘に十分な光魔法分子を留め置くために詠唱を再開した。ただ、

「故郷(くに)に帰って出直してきやがれ」

と言い捨てたセイは、少し笑っているようにも見えたのだが。

 それにしても、一体この状況をどう打開すべきだろうか――リョウは攻撃といっても体当たりぐらいしか仕掛けてこないフェンリルの爪を難なく回避し、思案する。

「(セイの攻撃呪文も効かない。大体同じレヴェルにあるオレの攻撃呪文も、効果は期待しない方が良いんだろうな)」

光と闇の合成呪文は成功した例(ためし)が無く、おまけに失敗すると致命的なダメージを受けるのでこの場では封印するべきだとして、ならば、リョウが思い付く残された方法は一つだけだった。

「光魔法分子同士を合成させるしかねえな」

リョウはセイに提案してみたが、やはりこれしかないだろうと思っていた。

「……光魔法分子を?」

何か躊躇しているのだろうか、聞こえなかったわけではないだろうに、弟は一度確認してきた。

「ホラ、何度かレニングランドでも練習したろ?」

一人で放出する魔法分子には流石に限度量というものがある。ところが、二人以上の合成魔法ともなると、その威力は乗数効果を引き起こし、放出エネルギーが飛躍的に向上するのだ。ここでは、リョウとセイが共通に持っている光属性の攻撃呪文同士を合成すれば、その効果を期待することが出来る。やらない手はない、とリョウは思った。

「そう……だな」

しかし、セイは躊躇しているようだ。光属性の魔法を使用するためには、一時的に“闇の加護”を解除しなければならず、煩わしいからだろうか。いや、それにしても、弟にしては歯切れが悪い。

「無理か?」

リョウは改めて確認した。何故弟がこれほど躊躇しているのか、リョウは掴みかねているのだが。

「……良いだろう」

漸く、セイが頷いた。彼なりに天秤にかけた結果、取るべき最善の策がそれしかないと判断したのだろう。それを信頼して、リョウは一応、駒を進めた。

『光よ、』

セイが魔法分子属性を光属性へ切り替える呪文の詠唱を始めた。その間は、リョウがフェンリルの注意を引きつける為、間合いを詰める。その間にも、セイの光魔法分子と同調させなければならないので、リョウとしてはあちこちに気を配らなければならず、忙しい。この事態の打開の為、セイが選択した光属性の攻撃呪文を確認したリョウは、詠唱を攻撃呪文へと切り替えた。

「(この呪文……!)」

リョウにとっても、セイにとっても、レニングランドで修行していた頃以来の久しぶりの呪文である。余りにも懐かしくて、リョウは声が震えた。

『……背徳する魂に制裁を与え、天空への扉を開け放ち、楽園へと誘い給え!』

それは、修行の一番初めに、マオに教わった攻撃呪文だったのだ!

「間違えようがねえだろ?」

と、セイはリョウを見て小さく笑っただろうか。

「チッ! 低能で悪かったな」

思わず感激した双眸を誤魔化すために、リョウはセイを睨んでやった。

 タイミングとフィーリングが一致した。

『邪なる魂に正義の審判を(ゴッドパニッシュ)!』

闇の大陸の首都アンドローズに、先程とは比べものにならないくらい、おびただしい量の光魔法分子が集まってきた。それらは複雑且つ強力な結合を遂げ、術者である双子もむせ返りそうになるくらい猛烈な負のエネルギーを放出しながら、このオオカミのバケモノに食らいついた。丁度、ドーム状の天井が激しい音を立てて弾け飛び、焼け溶けて丸くなったクリスタルガラスがポロポロと落ちてきた。

「終わったか?」

再度、フェンリルが大きな音を立てて壁に叩き付けられ、骨が割れて砕ける音がした。白い壁や床はいよいよ赤く染まり、断末魔を上げたバケモノが漸く痛みから解放されたのか、全く動かなくなった。

「終わっただろ?」

フェンリルの身体は損傷してボロボロになっている。王間の揺れも収まり、セイが再び、闇属性に切り替えるための詠唱を開始しようとした時だった。

 「ん?」

ドクン、ドクン――という大きな心音がドーム中に響き渡る。

「何だ?」

リョウはフェンリルの心臓を確認した。赤く、大きく、力強く、波打っている。とてもこれから土に還るものとは思えぬほどに……

「まだ、終わってないのか?」

セイの分析がどうやら正しいようだ。

 「遅かったわ!」

背後から女声が聞こえ、二人は玉間の扉を振り返った。丁度、水竜(アクアドラゴン)と共に、アレスとフィアルが駆けつけたところだった。

(2)

 “遅かった”――アレスは確かにそう言った。

「どういう意味だ?」

後方でふざけあっていたリョウとフィアル(フィアルがアレスを伴ってやってきた事を、リョウが冷やかしているようだ)をドツき回しつつ、セイが尋ねた。

「彼はフェンリル。即ち、破壊と再生を繰り返して、高次の身体を得ようと成長し続ける古代紀の魔物です」

どうやら魔王軍は絶滅した筈の高位魔物までも甦らせて戦力としていたようだ。セイはもう一度、オオカミのバケモノを見遣る。

「バカな」

フェンリルが鈍く発光している。そのチカラは消え逝くどころか、むしろ膨れ上がって来た。それと比例して、ドームに響く心音はどんどん大きくなる。

「ウソだろ……」

リョウは愕然としてしまった。先刻以上の負のチカラを放出する魔法分子結晶なんて作り出せないし、まして、見た事も無い。

「超強化型のフェンリルを、ここまで追い込んだのは賞賛に値しますが……」

アレスは自らが作り出した生物兵器を眺めた。一体どうすればこのバケモノを倒せるのだろう。どんどん強くなる光と音――もうすぐフェンリルが再生する!

「どうする、アレス?」

フィアルさえもこのオオカミのバケモノの凶気に圧倒されてしまっていた。

「確か、」

アレスも記憶を辿る。フェンリルの弱点があったかどうか。いや、そんなものが出ないように造ってしまった。それはもう、完璧に。

「再生プログラムは脳から発令されています。丁度、彼の目と目の間を狙えば……」

アレスのささやかな期待は、

「刀を弾くほどの皮膚だ。それは無理だろう」

とのセイの言葉に打ち消されてしまった。

「やはりそうですか」

まさか、ここで自分がこのフェンリルと対峙する事になろうとは――アレスは予想だにしていなかった。彼女の溜息をよそに、リョウは現実を凡そ無視しているのか、両腕に光魔法分子を召喚し、フェンリル向かって投げ付けていた。

『強化魔法球(ブラスト)!』

フェンリルの身体を覆っていた光魔法分子が順応し、リョウのブラストを相殺した。

「だから、同じ呪文が効かねぇんだって言ってるだろ!」

激高したセイは、兄を睨み付け、「低能」と吠える。

「いや、まぁ、一応やってみるだけでも良いかなぁ、なんて」

普通教育を受けていないリョウにとっては、机上の理論など空想でしかないようだ。

「そんな余裕があるんなら魔法の勉強し直して来い!」

いつもは反論するリョウも、先程の魔法の失敗を受けたセイのこの正しい指摘に、苦笑を返すしかなかった。

「まぁまぁセイちゃん、ここは穏便に行こ。ね」

ここまで来て厄介な障害を抱え込み、相当苛立っているセイをフィアルがなだめに入る。その間にも、フェンリルの再生は進んでいく。

「(これまで彼等の搜索に総力を投じてきた魔王軍が馬鹿に見えるわね)」

目の前に絶体絶命が迫っているにもかかわらずマイペースを貫いている野郎共の様子に、当該軍の統帥権を引き受けているアレスが呆れ返っている最中だが、そうこうしている間にも、フェンリルが完全に強化再生を遂げてしまっていた。

 ――さて、どうするか。

「(これはとても私達の手に負えるものではない。飢えた彼はその胃が満たされるまで肉を喰らい続ける。それこそ光、闇を問わずに……ならば、)」

フェンリルをこの城から出してはならない!――アレスは呪文の詠唱を開始した。

「お、何だ何だ?」

魔王勅命軍最高司令官元帥の一挙手一投足に、正直、リョウは興味津々であった。

「戦って歯が立たないなら、やるべきことは一つだ」

例によって「低能」と兄を毒つくセイはアレスの呪文の意味を理解していた。しかし、問題はその有効性だ。

『濃霧召喚呪文(ミスト)!』

アレスは先ず、フェンリルからの攻撃を回避する為に、フェンリルの視界を濃霧で遮る。

「誰か、呪縛呪文(コンストレイン)を使える者は?」

次に、フェンリルの動きを封じ込め続けなければならない。アレスの問いには、セイが応じた。視界を突如塞がれて、すっかり混乱しているフェンリルは、今にもこちら側に突進してきそうな勢いだ。セイは呪縛呪文の詠唱を開始した。

「ん?」

フィアルはふと、セイを見た。まさか別人というワケはないだろうが、セイを覆っている魔法分子の絶対量が、フィアルの知るそれとは全く違うのだ。

『呪縛呪文(コンストレイン)!』

セイが光魔法分子の格子状の結晶をフェンリルに向かって投げ付けた。それは檻のようにフェンリルを内側に閉じ込めて、その動きを封じ込める。

「セイちゃん、……」

フィアルは焦る。

 “黒き勇者”として常に闇魔法分子と接する為だろうか、セイの身体には、もう殆ど光魔法分子が残っていない。それは“光の民”である彼にとって、かなり危険な状態である。それとは別に、フェンリルは呪縛呪文にも耐性があるのか、檻の中で暴れ回り、強引に結晶を壊そうとしている。

「セイ、呪縛が壊れるぞ!」

リョウが弟に呪文の解除を促した。結晶が壊れてしまうと、魔法分子が負のエネルギーを持ったまま逆流して術者に跳ね返り、逆に危険なのだ。

「小癪な……!」

こういう時、セイは天邪鬼だから困る。呪縛の強化を図る為、彼は、更に詠唱を重ねようとしたのだ。そこへ、

「止めなさい!」

通常無い剣幕でセイを止めたのは、アレスだった。

「……。」

その効果は覿面で、あの天邪鬼が嘘みたいに素直にアレスの指示には従っている。理由なら幾つも思い当たるが、フィアルとしては、少し複雑な気持ちである。全く聞き取れないほどの小声で、二人は今も、二三、やりとりをしている。

「ここはオレに任せて、セイちゃんは早く闇属性に戻しておいてくれ」

フィアルは、それだけしか言えなかった。

「何か策でも?」

アレスはそう問うてきたが、利口な彼女なら勘づいているだろう――呪縛呪文に代わる程度に敵の動きを封じ込めるためには、やはり、それなりの“腕力”で押し込めるしかないのだ。

「策というか、自棄(ヤケ)というやつだな」

苦し紛れに、フィアルはニッと笑ってやった。

(3)

 リョウがフェンリルの注意を引き付けている間に、フィアルはそのチカラの解放の為に詠唱を唱える。

『我等が父・ハデスよ、我が声に応え給え……』

そこら中の闇魔法分子が、一斉に闇の民の皇子に帰属し始めた。それらの一部は、闇属性に切り替える詠唱を始めていたセイを助け、フィアルとの戦いで消耗されたアレスの魔法量も回復させた。その一方、敵であるフェンリルの方のプロテクトは剥がされ、負の魔法分子に対する抵抗力を殺ぎ落としてくれている。

「(これが、“ヴァルザード”か)」

リョウもセイも、飄々としている“フィアル”の姿しか知らなかっただけに、少なからずショックだった。このチカラがあるからこそ、歴史は彼等の一族に、闇の民の支配を許容させてきたのだ。光の民には殆ど理解できない魔族の原始的絶対主義は、意外にも最も合理的な仕組みで成立していた。

『我が名ヴァルザード・ラダム・リノロイヅとの盟約に従い、此処に現れ出でよ!』

どうやら、召喚呪文のようだ。リョウはフェンリルから大きく間合いを取った。その時垣間見たフィアルの顔には、魔族の皇族の証である赤い紋がくっきりと頬に現れていた。この紋が闇の民に与える強烈なインパクトというのは、後ろに控えているアレスの冷や汗を見れば容易に分かる。

『召喚・混沌の象徴(ケイオス)!』

フィアルが召喚したのは、何と、超古代紀の聖人ケイオスである。

 神話によると、彼は世界の草創期に、森羅万象全ての物事に混沌の原因を造り出してしまったとされる。その為に民から畏れられ、世界に居場所を失ってしまったものの、“何時かは民が自分を必要とするだろう”と、彼は自らを聖伝書の文字の中に封印したと伝えられている。その呪文は民の濫用を防ぐ為、かなり徳の高い、身分あるものしか扱えないものとされていたが、ヴァルザード皇子はそんな呪文をも使いこなす超ハイユーザーだったのだ。

「殺れ! ケイオス!」

ヴァルザードがケイオスに命じた。ケイオスは大きな黒い杖を召喚し、フェンリル目掛けて突進した。

『全知全能と絶対有限の矛盾(アンチモニー)』

静かな詠唱ではあったが、殺気のような、背筋の凍るような負のプレッシャーを感じて、リョウ達は息を呑んだ。青白い光がケイオスの左腕から充填し、集められた魔法分子が周囲の空気と摩擦して、歪みを作っている。

 これは、規模こそ小さいが、リョウとセイが先日失敗した、光魔法分子と闇魔法分子の合成呪文のようだ。その歪みを裂くように、魔法分子の結晶は直線的な軌道を描きつつ、フェンリルに激突した。

「うわっ!」

傍から見ているリョウが声を漏らすほどの衝撃である。丁度、ドームが大きく揺れてリョウ達の足場が歪み、立っているのもままならない状況となった。

「殺ったか?」

あの鋼の皮膚も痛みを感じるのだろうか、フェンリルの叫ぶ声が聞こえたが、強い光がまだ残っていて見えない。黒い残像を残したまま、段々と光が散乱していく。

「どう?」

リョウがフィアルに問うた。正直、リョウでさえ話し掛けるのを躊躇してしまったが、片やフィアルはいつものフィアルのままで、発現した赤い線状紋を掌で覆い隠し、

「んー、」

と一つ唸ると、

「やっぱ、ダメっぽい」

と舌を出して見せた。

 やがて光が和らぎ、誰の目にもフェンリルの様子が明らかになった。

 銀色の毛並みは焼き尽くされ、皮膚が真っ赤に爛れ、所々出血している。でも、生きている。目の前の煩い脆弱な民達で空腹を満たそうとヨダレを垂らしている。そのケモノの姿は、レニングランドの森で傷を負った動物達の世話をしながら生きてきたリョウには、見るに耐えないものだった。察したセイが「甘チャン」と声をかけ、リョウを下がらせる。

「どうやら私は、」

冷や汗を拭ってアレスが呟いた。

「とんでもないバケモノを造り出してしまったようですね」

(4)

 薄いピンク色に染まってしまったフェンリルは、その痛みに絶叫しながら、リョウ達に襲い掛かってきた。

「餓死させるっきゃないようだな」

セイが剣を再び抜いた。もっとも、フェンリルが餓死するまでこのドームで戦い続けることが出来ればの話だが。

「なるべく体力を消耗させること」

アレスが言った。このドームからフェンリルを出してしまえば、アンドローズを中心に世界的なダメージとなるだろう。特に、闇の民にとって、それは光の民との最終決戦を控えたこの段階では致命的なことだった。

「でも、大体どのくらい戦えば餓死するんだ?」

それはフィアルの素朴な疑問であった。

「……訊かない方が良いわ」

モチベーションを下げないように、アレスは回答を避けた。このバケモノが魔王軍の手に負えなくなることは計算していたので、当初の想定通り、彼を衰弱させ、餓死に持ち込めれば、この場は正解である。

 但し、これはリョウとセイがある程度フェンリルを食い止めるために長期戦に持ち込むことを期待して想定していたプランである。


 現在、フェンリルは長い培養生活から抜けたばかりである。試算では衰弱期間も含めて一週間弱持ち堪えると考えられる。しかし、あと10時間足らずで魔族専住地と人間居住区は停戦を破棄し、魔王勅命軍とサンタバーレ正規軍がそれぞれ「最終決戦」と位置づけた大規模侵攻が幕を開ける。


 殺し合いが始まる前に、魔王と何とか交渉せんと望んでいるリョウ達には長い戦いはそれだけ不利であるのだ。想定通り、素直に餓死を待つわけには行かない。しかし、だからといってこれといった良策は思い浮かばないのだ。

「うっ!」

リョウはフェンリルの爪をギリギリのところで躱わすと、すぐにその巨体の反対側へ回り込んだ。そこは、丁度、王座のすぐ下の階段の中腹である。

「(さて、どうしようか)」

リョウはフェンリルの動きを目で追った。

 今のフェンリルのターンでセイが傷を負ったらしく、覚えたての回復呪文を左腕に当てていた。

 突然、今にもセイに飛び掛かろうとしていたフェンリルが弾き飛ばされた。リョウからは死角になっていたアレスが、間一髪攻撃呪文を放っていたようだ。

 それに追従する形で、フィアルのいつもの攻撃呪文が聞こえ、たちまちに炎が巻き起こる。勿論それが効かないのは分かりきっている。もう、合成呪文も強化魔法球も効かないのだ。


 アレスに飛びかかろうとしていたフェンリルが、フィアルから魔法球を真横から叩き付けられ、壁と床に打ちのめされた。そこに、セイがフェンリルの目と目の間を狙って剣を突き立てる。

 ――即座にリョウは階段を降りた。セイがそこから飛び退くと同時に、リョウが魔法球を同じ急所に叩き込む。丁度、二つの同じ詠唱がリョウの耳に届いてきた。リョウは壁を蹴って後ろに高く飛ぶと、簡易の結界呪文を唱えて防御体勢を整える。

『炎・水合成呪文(パラドックス)!』

フィアルとアレスの合成呪文の詠唱が完結した。“炎”と“水”という、異なる魔法属性を持つ魔法分子同士をあえて結合させることにより生じる強烈な魔法力学的な歪みを、膨大な負のチカラに置き換える魔法だ。フェンリルも堪えてはいるのだろう。骨折しているらしく、後ろ足を引きずっている。しかし、疲労耐性の強さはリョウ達の比ではなかった。


 沈黙。

 世界屈指のハイユーザーがこれだけいて、全く為す術がないのだ。誰もが声を失っていた。

 フェンリルが大きく咆哮を上げる。彼もなかなか飯にありつけずに苛立っている。丁度、リョウと彼は目が合った。

「(来るなよ……)」

思わず尻込みしてしまうリョウ。その怯んだ内心を見破ったのだろうか、フェンリルは見逃してはくれない。彼はすぐにリョウに向かって飛び掛ってきた。

「(速い!)」

避けきれない、と心のどこかで思っていた通り、リョウは向かってきたその爪に弾き飛ばされてしまう。後ろに飛ぼうとしていたのが幸いして、傷は浅く済んだ。しかし、突進してきたフェンリルは、そのままフィアルの左肩に噛み付いていた。

「フィアル!」

アレスがフェンリルに強化魔法球(ブラスト)を打ち込んだお陰で、フィアルは何とか喰われずに済んだが、フェンリルの標的はアレスに移った。

『地獄の王の侮蔑(ハデスインサルト)!』

アレスに飛び掛ろうとしたフェンリルの眼前に割り込み、何とかフェンリルの頭部に攻撃呪文をねじ込んだのはセイである。彼はそのまま剣を抜き、リョウとフィアルに回復呪文(ヒール)をかけるよう、アレスに促した。アレスがそれに応じたのを見届けて、セイはフェンリル目掛けて剣を振り上げた。

「セイ!」

流石に剣では無謀だろうと、リョウはアレスの回復呪文を待たずに飛び起きた。セイの剣がフェンリルの鼻の頭を浅く切りつけ、そこから血が噴き出している。痛みに驚いたフェンリルが暴れ、セイを前足で払い飛ばした。背中から壁に思い切り叩き付けられたセイは、一時呼吸困難を引き起こしてしまったのだろう。倒れ込んだ彼からは、聞き慣れないほど苦しげな咳と荒い呼吸をして気道を確かめる音が聞こえる。そこを、フェンリルが逃さない。すぐにセイを喰らわんと大きな口を開けた。

「くっ!」

間合いを詰めていたリョウを確認したセイは、何とか自力で魔法球をフェンリルの喉目掛けて打ち込むと、そのまま横に逃れる。すぐにリョウが、神剣・ラハドールフォンシーシアでフェンリルの背を切りつける。世界一の強度を誇るオリハルコンという金属の刃でさえびくともしないフェンリルの皮膚が、ラハドールフォンシーシアでは薄く、赤く、線が入る。フェンリルはセイからリョウへと標的を替えた。

「リョウ……」

まだ覚束ない呼吸を何とか落ち着けて、セイは兄を見上げた。リョウは、神剣と魔法球で間合いをコントロールしながら、フェンリルにダメージを与えている。“ダメージ”といっても、そんなものをフェンリルが受けているのかどうかは微妙なところだが。

「リョウちゃん……」

助けようとしたフィアルを、アレスが引き止めた――これ以上の攻撃は無謀であると言いたいようだ。

「ぐぁっ!」

今、リョウもフェンリルの体当たりによって、壁に叩き付けられた。それ自体は大したことは無いのだが、先程の傷を回復させていなかった為、そこがズキンと痛み始めた。苦痛に思わず顔が歪むが、にわかにその痛みが消えていくのを感じ、リョウはゆっくりと顔を上げた。

「さっさと起きろ」

目の前に、弟が背を向けて立っていた。肩口から腹にかけての傷がすっかり癒えていたので、それはセイがヒール(回復呪文)で治してくれていたのだろう。

「くたばり損ないはどっちか、試してみるか?」

セイが神剣・アミュディラスヴェーゼアを召喚した。いつの間に声帯を傷めたのだろう、彼の声はすっかり掠れてしまっていて、出来ることなら休ませてあげたかった。しかし、このバケモノを葬る手段は限られていた。

「そりゃあ何としてでも、くたばり損ないたいもんだな」

リョウも、もう一度、神剣・ラハドールフォンシーシアを召喚した。

「まさか……」

フィアルは息を呑んだ。光と闇の合成呪文――未だに一度も成功したことがない上、この状況で失敗すれば間違いなく死を伴うだろう。

「無理だ!」

フィアルは声の限り叫んだ――死ぬぞ!

 「止めな、二人共!」

フィアルの後に続いた声。驚いた戦士達は一様にエントランスを振り返る。そこにいたのは、此処にいる誰よりも傷を負った“天使”だった。

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