第28話 甘チャンと猫(2)

(1)

 11年前、養父の会社が主催する船上パーティーに、リョウは使用人として同行した。その矢先、船は嵐に遭遇し、パーティーは一時中止となった。リョウが養父の持っているグラスに酒を注いでいる丁度その時、嵐のせいで船は大きく揺れ、酒をこぼしてしまったのである。

「この下衆が! タダで食わせてやってるのに、この私に酒もロクに注げんのか!」

どんなに理不尽に怒鳴られても、リョウは反論さえ許されず、ただ罰を受けるのを待つ事しか出来なくて、その日も為す術無く胸ぐらを掴まれ、リョウは嵐の海に投げ込まれた。船の走行を止めていたのは唯一の救いだったが、6歳を迎えたばかりのリョウに荒れる海を泳ぐのは無理というものだった。泳ぐ力もなく、潮に流されるままに流され、挙句の果てに人喰い人魚に拾われてしまったのだ。


 ――それが、リョウとカナッサとの出会いだった。


 光の民を食糧としている人魚にとって、海難事故者は恵の肉に違いなかった。

 しかし、この日海に投げ出されたその子供は、普通の子供ではなかった。

 カナッサがリョウを拾い上げた瞬間に、リョウの危機を察して発現した光魔法分子の威嚇に圧倒され、すっかりカナッサは怯んでしまったのだった。

 リョウの持つ魔法キャパシティーが光の民と闇の民の均衡状態に支障をきたすことを恐れた人魚は、自ら“光のチカラ”を封印する事にし、その代わりに、海に落ちてしまったこの哀れな少年を助けようと思ったのだった。

 嵐の海に投げ出されたリョウは、美しいハープの音と透き通るような繊細な歌声で目覚めた。当時6歳のリョウは、歌声の主を見て、驚くままに小さく感嘆の声をあげた。何せ、歌っているのは、上半身は人間の形をしていても、下半身は魚の姿をした人魚なのだから。

 ただ、リョウは自分でも不思議を感じるくらい、人魚の肢体に動揺もせずに、美しい歌声に聞き入っていたとも記憶している。

 リョウだって恐怖は感じていた。何せ、ベルシオラスの住人ならば誰でも、人喰い人魚の事はよく知っていたからだ。

「(家でさえなければ、どこでもいいけれど)」

 なぜか自分を食べずに助けてくれた人魚のことを、リョウは単純に、優しいひとだと思っていた。

 幸か不幸か、この人魚の住処は、自宅からそう遠くない場所だった。

 人魚からそれを聞いて同じく驚いたリョウは、一度洞穴を出て外を見上げた。ずっと向こうに、教会の十字架が見えた。

「本当だ」

――安心した半面、いっそ、遠い異国に流れ着いてしまえば良かったのかも知れないと、思った自分も確かにいた。

 以来、行き場を無くす度、リョウは、この人魚の棲家を訪れるようになった。ほどなくして、この場所と人魚がかけがえのない存在になっていった。


 この11年前のジェフズ海での一連の出来事を、リョウはつい最近思い出したところだ。

(2)

 「……と、いうわけで、オレは人魚に食われずに済んだんだ」

時は現在。

 今や17歳のリョウが、ベルシオラスの町に戻り、人魚・カナッサとの思い出話を掻い摘んでセイに説明しているところである。

「何故にその低能も封印してやんねえんだろうな、人魚は」

セイは言ってやった。こんなことでもしないと、兄との距離感を見失ってしまいそうなのだ。

「毒しか出てこねぇな、テメェの口は」

リョウはムッとしてみせた。こうでもしないと、弟との距離感を見失ってしまいそうなのだ。

 両者はそのまま暫く海を見つめていた。

 沈黙が苦手なリョウも、沈黙でも別に構わないセイも、今日はどこか違う。互いに戸惑うくらいに。

 月はゆっくりと南中する。もうすぐ満月を迎えるだろうその月は、もどかしそうに大地を照らしていた。

「まあ、」

やはり、沈黙は苦手なのだろう。切り出したのは、リョウの方だった。

「あんまり良い事無かったもんだから、正直、好きじゃないんだこの町」

やっとそう認めたリョウは今朝からの嘘を詫びると、漸く、猫を地面に下ろしてやった。


 正面に月を見ている所為なのか、何だか明るい夜だった。

「お前のクソ親父は、もうこの町にはいないんだそうだ」

セイはシェディルから聞いた話をそのままリョウに伝えた。今、この町には、借金を抱えたシェディルとその母親しかいないこと。そしてその母親が肺を患い、病床でリョウに詫びたいと懇願していること。

「そっか」

リョウは眉をひそめた。

「じゃあ、行かなきゃな」

「行くのかよ?」

直ぐに結論が出た事も結論そのものもセイには意外で、またも思わず聞き返してしまったが、リョウはあっさり「行くよ」と重ねた。仕方なく、セイは聞き方を変えた。

「……大丈夫、なのか?」

すると、ためらいがちに、兄からも素直に返事が返ってきた。

「……分からない」

せめてお前ほど強けりゃあな、とか何とか兄は言う。傷を抱えて兄が笑う。俯かずに月を見上げて――ふざけるな、とセイは思った。

「甘チャン」

そう吐き捨てたセイに、リョウは投げやりな笑みを返してやった。

 双子だからなのか、溜息をついたタイミングまで一致した。

「左手、……だったな?」

今度こそ自分から切り出してやったセイは、リョウの左手に視線を投げた。

「ああ」

弟に促されるまま、リョウは左手の皮手袋を外した。相変わらず「ハジメマシテ」とか何とかおどけていたので、セイは舌打ちをくれてやった。リョウの左手の親指がセイの視界に入る――7年間一緒に生活していたが、リョウの左手の親指の爪を見たのは初めてだった。

 

 他の指の爪に比べ、そこだけ色も形もおかしい、小さな爪がこびりついていた。


「でも……」

リョウは言葉を濁した。刹那に、ナイフの痛みを思い出してしまい、思わず顔が歪んだ。

「!」

リョウが反射的に親指を隠した――道理で、今まで気付けなかったわけだ。

彼は覆い隠そうとしているのだ。痛みも、苦しみも。

「オレの、父さんと母さんと姉さんだから、愛して止まねえよ」

リョウは皮手袋を海に放り投げた。今は「地味に海洋汚染だな」とか何とか言って笑っている。つくづくリョウは、セイの理解を超えていた。もう一度、「甘チャン」と言ってやったセイは、またも自分の足に擦り寄ってきた猫を捕まえ、抱き上げた。

「猫かぶってんじゃねえよ」

などと猫にまで悪態をつきながら。

(3)

 居間のソファーで、シェディルは来るかどうかも分からない弟の帰りを待ち望んでいた。いつもなら、とっくに寝入ってしまっている時間なのに。

「(許して欲しいわけじゃないケド、せめて一言お詫びが言えれば……)」

彼女はとても不安だった。贖罪の機会がないまま別れてしまえば、母も自分も、多分リョウも、壊れてしまいそうだと思った。とりわけ、彼女の母の病症が悪化すれば、取り返しのつかない傷を負いそうだ。それともそれが、リョウを養父から守りきれなかった罪に対する罰なのだろうか?――シェディルはうつむいた。

「(受け容れるしか、ない)」

シェディルが諦めかけた、その時だった。

 鍵をあえてかけずにいた扉が急に開いて、一人の青年が顔を覗かせた。

 成長してスラリと伸びた高い身長ではあったが、栗色の髪、大きな目とニッと笑う口元には、養父の暴力から養母と血のつながらない姉を守ろうと、黙ってそれに耐えていた弟の面影と同じモノがあった。

「リョウ――」

シェディルは目にいっぱい涙を溜めてその名を呼んだ。

「久しぶりだね」

不安感と傷の痛みを圧し殺して、右手を挙げたリョウの背後から、

「良かったな、コイツが甘チャンで」

と、セイが無表情で入ってきた。

「本当に……本当に有り難うございました!」

シェディルはセイに頭を下げた。

「じゃあ、オレは宿に戻るから」

淡々としたセイがそれとなく言っているのは、緊急避難先である。この家で団欒を楽しむことも、傷が疼いて逃げおおせることも、リョウの裁量に委ねられた。

「ここに泊まって下さって結構でしたのに」

シェディルは残念そうな表情を見せた。

「オレは第三者だ。邪魔はしねえよ」

リョウの養母や姉を、今更共有する気にもなれない――セイはリョウとシェディルに背を向けた。そこへ、

「サンキュ、な」

と、不意にリョウの礼が割り込んできたので、セイはもう一度振り返ってしまう格好となった。

「別に」

わざわざ振り返っていう言葉でも無く、詮方なくしたセイはさっさとその場から立ち去る。

 大丈夫――それを確認したリョウは、何とか、気持ちが落ち着いてきた。

「(そうだ)」

リョウは握りしめていた左の拳を解放した。


姉も養母も大好きだったから、養父に殴られても笑っていられたのだ。

当時はカナッサが居場所をくれたから、自分を見失わずにいられたのだ。


 リョウは二階の養母の所へ見舞いに入った。

 見るものすべてが当時とあまりに変わらないので、リョウは少し竦んでしまう。

 聞き慣れぬ声や足音で、眼を覚ましていたのだろう養母は、力の入らない腕で何とかベッドから起き上がったところだった。

「リョウ!」

懐かしい養母の声は、しかし、思い出の中のそれと少し違う気がした。

「母さん、久しぶり……」

リョウはかつてよりも一回り小さく、脆く見える養母の姿に戸惑った。

 察するに、養父が彼女達に押し付けた借金の返済の為に、無理を押して働いていたのだろう。なかなか彼女にかける言葉が見つからずに、所在なく、ただ、彼女の傍らに寄ることしか出来ない。

 養母は小さくかすれた声でリョウの名を呼び続け、詫びの言葉を重ね、強く抱きしめてくれた。かつて暴力に傷付いたリョウに、そうしてくれたように。

「母さんは、ちゃんと寝てて。オレは大丈夫だから」

リョウは、何とか口元に笑みを作って取り繕う――養母の言葉が胸に響くまで、まだ少し時間が要るようだ。困惑とまでは言わないが、何かに戸惑っているような複雑な思いは確かにあった。

(4)

 ベルシオラスの宿場にて、遅めのチェックインを済ませたセイは、なかなかここに来ない兄に、とりあえず一安心していた。

「(何とか、やっていけてるようだな)」

明かりも点けていない暗い部屋の片隅のベッドに転がりながら、いつものクセで枕元に立てかけて置いていた剣の鞘とベルトの連結部分に半ば強引に取り付けてある「銀の止金」を、セイはぼんやりと見つめていた。


――“オレの、父さんと母さんと姉さんだから、愛して止まねえよ”


嘘か誠かはさておき、かの甘チャンきっての甘ったるい言葉で、嫌でもセイの脳裏に浮かんだのは、育ての親にして師・マオである。

「(ちゃんと生きてっか?)」

今、セイの育った町・レニングランドは戦火に巻き込まれようとしている。しかし、今やセイは、マオも町も、直接守れない。セイにとっては、それが異常にもどかしい上、“勇者”というものの煩わしさを改めて突き付けられているようで、不快だった。

「(レニングランドが壊滅すれば……)」

勇者でなければ巷の問題児でしかない彼にだって不安はある。せめてそうなる前に、魔王軍や魔王・リノロイドを滅ぼさなければならない――今までなら、そう思い込んでいれば良かった。それで良かったのに……

 セイは「銀の止金」を鞘から外した。それは決して止金などではなく、ブレスレットというれっきとした装飾品である。それも、父・セレスが、直接セイに託したものらしい。形見としては上等だが、あまりアクセサリーを身に付けるのが好きでは無いセイは、鞘とベルトの連結部分を、その銀のブレスレットで繋いで携帯しているのだ。

「(オレは、“勇者”じゃねえよ)」

セイは銀色に光るブレスレットを強く握りしめた。

「(誰が何と言おうと、討つべき敵はただ一人!)」

魔王軍第二部隊隊長、即ち、父親の仇である。


 ――時は歩みを止めはしない。運命がどんな顔をしてやって来ても、生きていく以上は、痛みに耐えて、また歩き出さねばならない。世界は歩みを止めない旅人が回す大地の上に出来ているかの如きである。

 例えどんなに耐え難い真実が目の前で展開されたとしても。

 例え“勇者”であろうとなかろうと。

(5)

 アンドローズ城下町のとあるスラム地域にて。

「これが貴様の本性か……ッ!」

2人の男が断末魔をあげたところである。一人は魔王軍崩れの暗殺者(アサシン)で、もう1人は魔王軍幹部の一人である。

倒れている2人の向こうに、この修羅場を催した張本人が佇んでいた。

「不意を狙っても、オレを殺れんとは……人選を誤ったようだな」

金色の長い髪の男が、冷笑して瀕死の2人を見下していた。彼はまだべったりと血のりの付着した刃で、倒れた男達の首を刈り取る。

 生首は喘ぐ。

「おのれ……! 汚らわしい混血人め!」


 翌日、魔王軍第二部隊の前副隊長が変死体で発見されたというニュースが、アンドローズ中で報じられた。


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