第27話 甘チャンと猫(1)

(1)

 “リョウ”という名の人物について、セイは心当たりはあった。ただ、セイにとって、その名は今一番聞きたくない人物の名前でもあった。

「リョウというのは、バカアホ間抜けの単細胞で、甘チャン、且つ低知能のリョウの事か?」

蓋し、兄弟というやつは、人生最初の敵なのかもしれない。

「それはどうか分かり兼ねますが、……かの英雄・ランダの子孫なのだそうです」

苦笑混じりでその女性はそう告げた。

「ごめんなさい、貴方があんまりリョウに似ていたものですから」

その女性は再びセイに頭を下げて立ち去ろうとした。彼女の素性など、セイには一切興味のないことだった――ここがベルシオラスという町でなかったならば。

「そのリョウは、オレの兄だ」

自分でもよく分からないし、それを言ってしまった後で軽く後悔もしたが、セイはそれだけは伝えることにした。案の定、彼女は感嘆の声をあげ、

「それではリョウもここへ?」

と期待の眼差しを向けてきたのだが、セイにはそれに応えることができなかった。

「……来ないかもな」

客観的に見て、リョウは、どうもこの町を拒んでいるように思えたので、セイはそのように答えたのだ。

「やはり……そうですか」

その女性は表情を曇らせた。

「(やはり?)」

セイはその女性の言葉が引っ掛かった。

 この町は兄が10歳まで住んでいた町だ。彼の事を知っている人間がいるのもおかしくは無い――セイとて、今更兄の過去など聞きたくはなかった。

 嫌な予感が当たりそうだから、である。

「折り入って、ご相談があるのですが」

しかし、彼女はリョウの実弟であるセイを放っておいてはくれなかった。いや、セイの方も、断るのは簡単だった。ただ、何となく、それをしなかったのである。

「……手早く頼む」

嫌な予感を払拭したい気持ちも、無くはなかったからである。

 「有難うございます」と何度と無くセイに頭を下げた女性は、暫しセイを待たせ、先刻の騒動で散らばった、何やら深い緑色をした葉を拾い集めて袋に詰め込み始めた。

「(ルルム草の葉か)」

確か肺炎に効くという薬草だ。セイはその一枚を拾い上げて、何となく眺め回す。そんな彼を見ていた女性は、彼の持つ薬草の知識を補うように説明してくれた。

「この森で採れる薬草です。この葉を煎じると、心肺の病によく効くらしいから」

「……そうだったな」

セイもはっきりと思い出せた。

 この葉は、自宅の倉庫に保存してあった薬草の一つだ。

 リョウとセイの母・レジェスが持病の治癒の為に栽培していたものだったらしい。しかし、彼女の病は薬草程度で回復するほど軽いものではなかったらしく、セイとリョウを生んで間も無く、彼女は息を引き取ったという。

「その袋、見せてみろ」

その薬草について一通り思い出したセイは、おもむろに女性の袋を取り上げた。

「これは、薬草として使えねぇよ。若葉にしか、薬効は無いらしいからな」

英雄・ランダの子孫でなければ巷の問題児でしかないこの剣士が意外にも薬に明るい事に驚き、感心している女性をよそに、黙々と、淡々と、セイは袋に葉を詰め直した。


“薬の扱い方は、よく覚えておくと良い。そう遠くない将来に、君も薬漬けになるのだから”


――ベルシオラスの中心街へ向け、二人は歩き出した。日は暮れて、もう東の空の方は青紫色になっていた。

(2)

 その女性の名は、シェディルというらしい。彼女は郊外で仕事を持っているそうだが、実家でパン屋を経営していた母親が病に倒れた知らせが届き、数日前に看病の為に実家に戻ってきたばかりなのだそうだ。

「これで終わりだ」

セイは薬草を煎じた液を、ティーカップに移した。

「きれいな緑色! 私が作ったのはいつも茶色っぽいのに……」

シェディルは珍しそうにカップの中の液を見た。あまり器用では無いらしい。

「(何をしたらそうなるんだ?)」

セイは心の中でそう呟くと、鍋を焜炉の上に置いた。

「薬と毒は紙一重だ。よく解らないことを、敢えてしようとするなよ」

そういえば、これもマオから言われたことであった。セイ自身、まさか他人に薬を処方することになろうとは思っていなかったが。

「医者にも薬師にもお金を借りてしまいましたので、この町で薬を買うわけにはいかなくなりました」

ためらいがちにシェディルはそう言うと、台所の扉を閉めた。

「私の父は商人で、それは大変豊かな生活をしておりました。しかし、相次ぐ経営の失敗と、――まあ、殆どは父の道楽で、日を重ねるごとに生活も行き詰まり、とうとう五年前、父はこの家の財産を全て奪ったあげくに借金を残し、家を出てしまったのです」

シェディルは視線を落とした。

「あ、ごめんなさい……こういう訳ですので、とても薬は買えないんです。でも、今、ちゃんとした薬の作り方を教えてもらったし、もう大丈夫です」

彼女は明るくそう付け加えると、戸棚をあさる。「お礼に」と、セイにパンを差し出した。

「母の作ったパンです」

シェディルが差し出したパンは、日持ちするよう乾燥させた携帯食用のものである。今日の昼から何も食べていなかったセイは、一口頂いた。

「相談とは金の無心か? それとも親父の暗殺か?」

用件は手短に、ともう一度念を押したセイは、パンを二、三口かじる。つい先日まで、パンと菓子だけで食事を済ませていた彼はこの場で夕食さえ済ませてしまおうとしているようだ。

「お話し難いことなのですが、貴方にはきちんとお話しておかないといけないと思って……」

流石に飲み物が必要だろうと察したシェディルは、お湯を沸かしながらこう切り出した。

「17年前、我が家に一人の男の子が養子に参りました。それが、貴方のお兄さんの、リョウです」

何という偶然だろう――セイは溜息をついてしまう。

「私の母と貴方の母・レジェス様が、昔からの親友だった縁でそうなったと伺っております」

シェディルはリョウがベルシオラスに預けられた経緯を話してくれた。

 しかし、これだけ聞いていても、リョウが何故、ベルシオラスに行く事を拒んでいたのかという疑問の解決にはならなかった。シェディル自身も「お話しし難い」と前置きしているほどの事実があったのだろう。遠まわしに、遠まわしに、やがて本題へと連結していった。

「先程の話でお察しかと存じますが、父は大変な暴君で、血の繋がりもない子供を家に置くのを、大変嫌いました。そして、」

シェディルはセイの眼をしっかり見て切り出した。


「――リョウは、父から十年間ずっと虐待されて育ったんです」


 セイは小さく溜息をついた――知らなかったはずなのに、心当たりがないわけではなかったからだ。

「私も母も、恐怖のあまり、リョウをきちんと助けることができなかったんです」

シェディルはせめてもの罪滅ぼしのつもりで、セイに全てを告白した。


 リョウの養父は、傲慢且つ陰険な人物であったようだ。

 ランダの子孫を世間に隠匿しなければならなかった都合上、養育費以外に援助は無く、期待していた会社の経営の援助やコネクションが何処からも手に入らないということを知ったリョウの養父は、幼いリョウを養育しようともせず、何かにつけて暴行を加えていたらしい。一切の雑用をリョウに任せ、一つでも失敗したり、反抗したりすれば、まだ幼いリョウにナイフを突きつけ、或いは酒瓶や棍棒で殴打して痛みを覚えさせ、リョウを自分の完全な下僕としていたのだという。

「リョウがこの家を出た時以来ずっと、母は側にいながら何も出来なかった自分をずっと責めて、毎日のように呟いておりました。リョウにお詫びがしたい、と」

シェディルはセイにコーヒーを差し出す。その彼女のすがる様な眼を見て、セイは気付いてしまった。

「リョウに会わせろ、と?」

だとしたら、なんて間の抜けた依頼だろう――しかし、

「御察しの通りです」

シェディルは力無く頷いた。彼女だって、分かっているのだ。間が抜けていることくらい。一度、シェディルは席を外した。セイがリョウと同じ顔をしているのが辛かったのだ。義弟を守りきれなかった自分の罪を責められているようで。

「会うかどうかは、アイツが決めるだろう」

セイも席を立った。

「海岸に出る道を、教えてくれないか?」

(3)

 シェディルの家から、徒歩で二十分程度歩けばジェフズ海に出る。シェディルの話によると、その海岸一帯は大昔から人を食すといわれている人魚の住処となっており、立入が禁止されているという。

 こんな場所に兄がいる確証は何も無い。が、兄は最近どうも人魚と事件があったようなので、ひょっとしたら此処にいるかもしれないという蓋然性があるだけである。

 といっても、

「(居るんだろうな、単純だから)」

セイとしてはかなり高い期待値があるようだ。


 岩がごろつくばかりの殺風景な海岸である。陽が殆ど沈みかかっており、辺りは青紫色に焼けて、岩場でも何とか歩く事ができた。

“リョウの左手の親指、見たことがありませんか?”

先刻、シェディルから聞いた兄の過去の一部は、まだ夢の話を聞かされたような不確かさで、セイの脳裏に取り残されていた。

”爪をナイフで剥がされた跡が、治りきれずに残っているんです”

無論、セイは知らない。

“正直、リョウが勇者なんて呼ばれて旅に出ていることが信じられないんです。あの子、刃物を見ただけで、拒否反応を起こしてしまうほど、傷付くことに敏感になってしまっていたから”

何せ、そんなリョウの姿を、セイは今まで一度も見た事が無いのである。理由は、かなり明白だった。

「(アイツがむやみやたらと隠してきたから)」

 例えば森の中で動物と触れ合ったり治療してきた事で。

 例えば誰にでも愛想を振り撒いて明朗に笑う事で。

 例えば誰も頼みもしないお節介を焼く事で。


 暫く海岸沿いを行くと、大岩がせり出している場所があって、セイはそれ以上海岸を進めなくなった。いつの間にか夜の帳が降りて月が出ていた。

「(此処は……)」

セイが大岩だと思っていたその場所は、洞窟の入り口の一部となっている岩であるようだ。「祠がある」と聞いていたセイは、何となく、これがそうなのだろうと思った。

「(リョウは此処か?)」

双子だからという意識は皆無なのだが、またもセイは、何となく、そう思った。

 そして案の定、聞き慣れた声に呼び止められたのだった。

「そんなトコいないで、こっち来れば?」

大岩の上方を見上げるまでもなく、セイがリョウを確認できたのは、周囲に猫が五、六匹束になって戯れている声が聞こえたからだった。

「猫は良いよな。皆可愛くて」

「テメエもせめて猫ならなァ」

セイが声を荒げる。リョウは「チェっ」とつまらなさそうに舌打ちして、再び猫と戯れ始めた。

「(何なんだコイツ)」

セイは思わず溜息をついてしまった。もっと暗い表情をしていても良いのに、兄は飄々と、大好きな猫に囲まれて幸せそうに見えた。餌をねだる猫の声と打ち寄せる波の音が、暫く続いた沈黙を埋めてくれていた。

「ここで野宿する気か?」

呆れたついでに言ってやったセイは、兄の返事を待った。

「できればお宿に泊まりたいなぁ」

「じゃあ、立て。歩けこの低能」

「ハイハイ、スンマセーン」

リョウは渋々猫達に別れを告げて立ち上がる。名残惜しそうにリョウの足元に擦り寄る猫はまだ大勢いるが、セイは妥協することにした。

「シェディルって女がお前に会いたがっているが、どうする?」

単刀直入にセイは本題に入った。案の定、リョウは驚いた表情を返した。

「何で出会っちゃうんだろうなァ、お前ってヤツは」

「知るか。今回ばかりは神でも怨め」

丁度、セイの足元にも猫が擦り寄ってきた。「このヒト危険だからあっちに行ってね」と送り出したリョウの臀部に、セイが一発、蹴りを見舞ったところである。

「オレの事、……イロイロ聞いた?」

リョウの声が、少し小さくなった。

「まぁ、な」

嘘を吐いても仕方がないので、セイは認めた。

 

 暫く二人で波の音を聞いていた。

 月と海。動と静の対象的な風景だった。目の前で月を眺める兄のことを、セイは何も知らないし、これまで知ろうともしなかった。

「ここが人魚の住処か?」

得体の知れ無いこの兄は、訊けば教えてくれるのだろうか。話せば少しは楽になってくれるのだろうか――全く不確かなまま、セイは訊いた。

「オレが座ってたこの大岩が、正に人魚の住処」

リョウは、真っすぐ海を見つめたまま話し始めた。

 この辺り、レニングランド州西部の海岸線は昔、「カナッサバーレ」という地名がついており、そこに棲む人食い人魚はカナッサマーメイドと呼ばれ、人々から恐れられていたという。今となっては、絶滅したとも言われている。

 例によって、セイは相槌も打たないままなのだが、リョウは続けた。

「オレさ、あんまり父さんに好かれてなくてさ……5歳か6歳の時だったかな。嵐の中で、この海に突き落とされた時があってな」

「は?」

流石のセイも思わず声を上げて聞き返した。5,6歳の子供を嵐の海に投げ捨てる――それが悪意ならば完全な殺人行為だ。何という養父だろう。しかし、兄の口から出てきたのは、そんな暴君のような義父への恨み言ではなく、他愛もない人魚との思い出話だった。セイの驚きは、むしろそちらの方へと移行していった。

「どうもその時に、その人魚に見つかっちまって……食われかけたらしいんだよね」

リョウは、なかなか自分の傍を離れない足元の白い猫を抱き上げた。

「食われかけた?」

どうも次から次へと理解し難い出来事が立て続くようなので、状況の確認のため、セイはまたも聞き返した。そう、人魚が人肉を漁る種族なら、嵐の海に溺れる子供など、格好のターゲットだろう。こうして彼を、生かしておく筈がないのだ。

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