第19話 悲劇への扉(1)
(1)
星は幾つ出ているのだろう――海辺にある人魚の棲家の洞窟が、リョウの視野半分を覆い隠してはいるが、うんざりするほど星達に追いやられていたレニングランドの夜空のことをふっと思い出したリョウには、この町の空に浮かぶ星達は、ぽつりぽつりと寂しそうに輝いているように見えた。
「今日一日、基地の様子を見てこようと思っている。アンタは身体を安めなよ」
リナが言う「基地」とは、勿論、ジェフズ海上に浮かぶアレスの基地である。「今日」というのは、今日の夜から翌日の夕方を示している。
嵐の海に飛び込んで以来、リョウもリナもすっかり活動時間が昼夜逆転してしまった。これを奇貨としたリナが、リョウが意識を取り戻さずにいたこの数日中さえ、鳥の姿でアレス側の動きを偵察していたようだ。
「明日の夜には、侵入しよう」
リナの提案に、一切異論も反論も無いリョウはこれに応じた。
「気をつけてね、リナ」
リョウが声をかけたときには、リナは鳥の姿となっていたので頷いたかどうかは定かではないが、彼女は星空へと消えた。一日暇になるリョウは、気は急くが、とりあえずじっとしている事にした。下手に動いて魔王軍に見つかるよりは良いと思ったからだ。
押し寄せる波の音は、焦燥感ばかり運んでくる――確かこれは昔からだった、とリョウは今更追憶するのである。この海の景色に夜の帳が下り始めると、家に帰りたくなくても帰らなければならなかった。
「(誰も自分の帰りなど待っていなくても)」
――リョウは首を横に振った。“昔のコトで悩むのは勿体無い”と言われたばかりだった。
「カナッサ……」
光の乏しい大海原で彼女の名を呟いたところで誰の耳にも届かないが、リョウとしてはそこに救われているフシは否定できない。
「(臆病だと笑われそうだな)」
左の手をぐっと握り締めて、リョウは暫くその誹りに耐えていた。リョウ自身、カナッサに憧れさえ抱いていたので、彼女の事を闇の民だと意識したことも無かった。それだけに、彼女が魔王軍の一員となったという事実を突きつけられ、正直、戸惑っていた。
“闇の民”の一員となることが、海の民・人魚であるカナッサにとって、一体何の強みになったというのだろうか。あまつさえ彼女は、自分と出会うまでは陸(おか)の民さえ拒み続けていたらしいのに。
「(それとも、拒んでいたのは光の民だけだったのか?)」
取り留めの無い考えをしていたリョウであったが、「それ」は突然襲い掛かってきた。
「うっ……!」
脈を打つ音まで聞こえてきそうなくらいに鈍い痛みがリョウの胸を貫いた。まるで、大鎚で殴られたような重たい痛みが、続いて頭にも響いてきた。
「(確かに無理はしたケド……痛えし、気持ち悪ィ……)」
アリスとの戦闘で傷を負ったまま、嵐の海に流されて4日も栄養を取らなかったのだ。更に、干し肉の水の補給だけでは体の調子は整わない――不調の原因なら、リョウでも幾らか見当はつく。
「(きっと疲れから来るものだろう)」
そう判断したリョウは、何とか横になって安静を心掛ける。しかし、その重く鈍い痛みは時間が経つにつれ、酷くなり、吐き気すら伴うようになってきた。
「(ヤバイな。明日はまた基地に乗り込まなきゃいけないのに)」
リョウは瞳を閉じた。そうすると、少し楽になる気がしたのだ。
(2)
フィアルが暗に伝えてくれた通り、ツェルスはこの事件に大きく関わっていた。
彼女は、先ずアレスになりすまし、“謹慎処分”と言う名目でアリスを地下牢に閉じ込めて干渉を防いだ。その上で、何も知らないアレスの前に、今度はアリスとして現れて、ランダの子孫の回収計画を失敗させようとしているのだ。
全ては、アレスとアリスという双子の姉妹の失脚を誘う為に。
ツェルスは、自分よりも身分の低いアレスが、主君の絶大の信頼を得て、“水の加護”を享受し、魔王軍を事実上指揮していることに嫉妬していたのだ。
彼女は自分の計画が進んでいる事に満足していた。後は人魚・カナッサが、リョウを見つけ次第殺せば、アレスの失脚は決定する。そして、アリスのフリをしてセイを殺せばアリスも罪を問われて失脚するだろう。そうすれば、サテナスヴァリエで四天王の次点と言われるほどの術者(ユーザー)であるツェルスが第三部隊隊長の座に就く蓋然性が極めて高い。
――しかし、カナッサからの報告はなかった。
「人魚め、私を裏切るつもりか?」
ツェルスは穏やかな海を睨みつけた。
実は、不老不死の人魚をも脅かす能力が彼女にはある。それに、海の民・人魚にとっては、光の民など食糧でしかない。ランダの子孫を助ける筋合いなど、ない。
「(ならば、あの人魚に私を裏切るメリットなど無いはずだ)」
もっとも、ツェルスは、人魚がかつて唯一受け容れた光の民が、幼い頃のリョウである事など、知る由もないのだが。
「(念には念を入れて、あの子を利用できるようにしておく必要がありそうね)」
ツェルスは不敵な笑みを浮かべたまま、何処かに消えていった。
一方、同建築物の地下では……
「はーい。これセイの分ねっ!」
薄暗い地下牢には場違いにもほどがある、アリスの甲高い声が響く。
セイがアリスに出会い、丁度五日目。セイは、毎日のようにアリスの暇つぶし相手をしていた。
彼女は、未だ使われたことがないという「地下食堂」に食料と水を確保された上で軟禁されているらしい。むしろ、豊富な材料と教本と引き換えに、この理不尽な軟禁に甘んじているのだという。
「一人分だけ作るのは難しいのよ。料理って、哲学みたいよね!」
というような理屈で、彼女は、手作りの焼きたてパンや焼き菓子をセイの房にも持ち込んでくる。セイに運ばれている食事が、必ずしも安全とは限らないと見られたため、これはアリスなりの配慮ではあるのだが、アリスのことをよく知らないセイにとっては、どちらにしても緊張感は変わらない。
ただ、アリス曰く、自分が生まれ育った修道院の子供達に配る為のお菓子作りの練習でもあるらしく、セイはアリスからの土産を断るに断れなくなっていた。
よって、セイの情報も、もっぱらこの奇特な「アリス」から聞いた話に偏る。
彼女は、アレスに牢に入るよう言いつけられたと言う。勿論それはツェルスの策だが、それをアリスは知らないし、セイも知らない。
“姉さんは、私が戦いもしない事が軍全体の士気を下げるってハッキリ言ったの。でも、良いの。姉さんの方が絶対間違ってるんだから!”
闇の民である彼女の本音がそれだという確証は何処にもない。だが、セイは、それが本音であって欲しいと、心の何処かで願っていた。彼女は、凡そ戦場には似つかわしくないヒトだと思ったからである。
何はともあれ、この四日間は、セイ自身戸惑う程、平穏な日々が続いたのだった。
――時間はそう永くは待ってはくれなかったが。
(2)
突然、地下に足音が響いた。ツン、ツン、と刺すようなその音は、何かの暗喩のようでもあった。
「大変! 私、一度戻るね」
アリスは、例の抜け道に潜り込んだ。セイは、何もなかったように壁にもたれかかって、近づいてくる刺々しい足音をじっと聞いていた。丁度、扉の開く音と閉まる音が聞こえ、足音は更に大きくなる。セイは牢の柵越しに、アレスの姿を見た。アレスもセイを横目で見たが、そのまま足早に奥へと進んでいった。
「(一体何を目論んでんだ?)」
知将と呼ばれる彼女のことだ。彼女が動けば戦況も変わる。なるべく状況を探りたいセイの気持ちを知ってか知らずか、足音が止まったと同時に聞こえた甲高い女性の声が、大まかな答えをくれた。
「姉さん、今度は何の用?」
警戒心からだろう。セイがここ数日聞いて知っていたアリスの口調よりも、それはずっと尖って聞こえた。
「貴女を解放してあげる為に来たのよ」
対照的に、アレスの声はアリスと比較しても落ち着き払った冷静なものだ。
「貴女に、やって欲しい事があるの。それさえやってくれれば、貴女の自由は保障するわ」
姉の提案にアリスは暫く黙っていたようだが、やがて、セイにも聞こえるくらいはっきりと、承諾の声が聞こえた。
「その代わり、」
直ぐに、アリスは交換条件を提示した。
「魔王軍第三部隊副隊長を辞めさせてもらう!」
ひいては魔王軍も辞める、と彼女は言い出したのだ。
「私、もう、戦争に加担したくは無いの。だって、壊れるばかりで何も変わらないんだもの!」
何となく、セイは安心した。何故かは彼にもよく分からない。
「今更何を言っているのよ?」
アレスの溜息がセイの房にも届いた。それもそうだろうとセイは思う。構わず、アリスの声が続く。
「世界を構成する“四大元素”のチカラがあれば、この戦乱の世も変わると思っていたわ! それも、姉さんが盟約を結べば平和は近いと思ってたの。だからこそ私も、姉さんについて行こうと思ってた」
――でも何も変わりはしなかった。古代より万物の素にして至高と謳われる“四大元素”のチカラは、光の民に圧迫と隷従を強いるだけでしかなかった。
「(オレ達も、)」
セイは思った。
「(“絶対元素”で、魔族を追い詰めるだけ)」
“そうはさせない”と、兄は言ったが、果たして。
「良いでしょう」
しかし意外にも、アレスは、妹の退役をあっさり了承したのだった。
「正直、貴女の消極的な態度が部隊の士気を下げていると感じていたところだから」
鍵を開ける音が聞こえてくるくらい、静かだった。一体、今、アリスはどんな表情をしているのだろう。明朗な彼女しか知らないセイにはその想像ができず、何故だかよく分からない焦りに駆られた。
「さあ、行きましょうか」
一体何が面白いというのか、アレスの笑い混じりの声が聞こえ、改めてセイは我に返った。
再び足音がセイの牢に近付いてきた。ツンと早足で歩くアレスから、やや距離を置いて、アリスの姿も見えた。彼女はおもむろに牢に近寄って、小声でセイに話し掛けてきた。
「待ってて。隙を見て、ここからすぐに助け出してあげる! そしたら――」
ここまで言いかけたアリスだが、それに気付いたアレスに「囚人と口をきくな」と制されてしまった。
「また後で、ね」
彼女は笑顔だけを残して、閉じ行く扉の向こう側へ、行ってしまった。
何だか不気味な余韻だけが残った。
魔王軍第三部隊副隊長の解任、そして退役を許すほど、重大な変化が起ころうとしているのだろうか。そうだとしたら、アリスは一体どんな仕事を任されたのだろうか。そもそも、数日前に戦った、もう一人の“アリス”の件は何一つ解決していない。
「(罠?)」
そうかもしれないことは言っておくべきだっただろうか――セイは大きな溜息をついて、壁に寄りかかった。
「オレを“助ける”、か」
誰に助けを請うた覚えは、セイには無かったが。
「(変な女だな)」
つくづく、セイはそう思う。
「(バカにうるさくておせっかいで、他人の為にわけの分からん仕事をする。何か、アイツ、……)」
リョウに似た女だと、つい、セイは思ってしまった。
(3)
「……ックション!」
背後から聞こえたくしゃみに驚いたリナが、その音源を振り返った。
「風邪かい?」
「いや、」
風邪はひいているかもしれないのだが、努めてリョウは気丈に振舞っていた。
「大方セイの野郎がオレの悪口でも吹いてるんだろうよ」
リョウは鼻を鳴らして見せた。
「ハハ、そうだと良いな」
人魚の棲家の洞穴にて、リョウとリナは潜入の方法についておさらいしていた。
リナの話によると、ジェフズ海の夜間の兵の見回りは海面を中心になされているらしく、見張りの視野も、光源が限られているので狭窄気味らしい。夜間に、上空から基地内に忍び込めば、うまく潜入できそうだという。
「まあ、これは私達を基地におびき寄せる為に、ワザとガードを甘くしている為だと考えて良い」
即ち、セイがいる地下に続く階段は、基地2階にある通信指令室本部の前の廊下を必ず通らなければならない為、2階での戦闘は避けられなさそうだ。勿論、地下にも見張りは何人かいるだろう。
「ここは、囮作戦に出ようと思っている」
リナは決断した。不穏な作戦名にリョウは思わず息を呑む。“勇者”とはいえ、17歳の彼には無理もない反応だろう。
「私が囮になるから、アンタは敵の注意が逸れた頃を見計らって地下へ行きな」
リョウにも分かるように、リナはかなり噛み砕いて説明した。
「リナは大丈夫なのか?」
「出来る限りの事はやってみせる。こんな時に私の心配はするんじゃないよ」
リナは笑ってそう言ってくれた。
ベルシオラスからダーハ沖に出るまで、とリナはカヤックと潜伏しやすい黒の外套を調達してきていた。
カヤックなどは初めて扱うリョウであったが、怯んでいる場合ではない。どうせ乗り捨てるから気軽に漕げ、とリナは言った。
夕日は沈んだ頃か。リョウには見慣れた海の所為か、心なしか、オールが重い。
果て無く続く大海原にカヤックで臨むと、やおら虚無感に襲われてきた。波を掻き分けて進むこの心許ない舟は、この現状をメタファーしているようだ。
それでも暫く漕ぎ進めていて、リョウは気付いたのであるが、この舟は、後ろに乗った方が舵を執るのであって、やはりそれはリナである。
実は、リョウの体調不良はまだ少し残っていた。しかし、とうとう彼は、それをリナに告げる事はしなかった。ただでさえ、不安の多い戦いだ。あまり彼女に心配をかけたくなかったのだ。
月が雲に隠れた。今日も雨が降るのだろうか。
リョウとリナは、丁度、ダーハ沖の、基地を手前に町を臨めるポイントに到着した。正直、いつ見つかってもおかしくない距離にはいる。
「来た時とは、真逆から行くわけか」
リョウの目にも、5日前にセイが決死の思いで開けてくれた、ドームの穴が見えた。補修が間に合っていないようで、其処だけ光源が無く、敵から見つかり難そうではあった。
リナが羽を広げた。その翼に見える部分は風魔法分子結晶である。海の強い風に紛れ易いと彼女は豪語する。その言葉を信じ、リョウはなるべく、自分の光属性魔法分子を抑えて気配を殺した。
「行くよ!」
リナが一度鳥へ変化した。リョウはオールを両手にしっかりと持った。
リナが飛ぶ。
彼女は一度鳥の姿のまま高く飛び上がって基地上空を旋回すると、見張りの位置と光源の位置を確認する。リョウの目にも見える程、緩やかに高度を下げて飛ぶ白い鳥が、波間を縫ってこちらへ向かってきた。
リョウはオールをしっかり握り、そのまま掲げた。
リナが女性の姿に変化する。彼女はリョウが掲げたオールをしっかりと手に取ると、カヤックを橇のようにして、一気にリョウを基地へと近づけた。
「死んでも手を離すなよ!」
リナの声を風がかき消さんばかりだ。覚悟を決めたリョウは「分かった」と返事をして深く息を吸った。
「良いよリナ、飛んで」
リョウの合図で、リナは、リョウを連れて高く飛び上がった。
光源を避け、見張りの死角を突いたように見えたが、敵の目にこの侵入がどう映っているのかは、正直判らない。リョウの両腕が緊張と疲労に耐えかねて震え始めた頃、例の、ドームの穴が眼前に飛び込んできた。
「くっ!」
足を振り上げて推進力を作って、何とかその穴に転がり込んだリョウの横目に、あからさまに声を張り上げたリナが、攻撃呪文を繰り出すのが見えた。
囮作戦開始の合図である。
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