第16話 ジェフズ海の戦い(2)
(1)
リョウが気付いた時にはもう遅かった。アリスは、強力な負のチカラを帯びた風属性魔法分子を両腕に集約させ、今、正に攻撃呪文を繰り出そうとしているところだった。
『飛竜の狂舞|(ドラゴニックロンド)!』
アリスの詠唱と共に、帯電した風系の魔法分子の結晶が大蛇の如く暴れ狂い、光が大爆音とともに床や壁の一部を巻き込んで破裂した。
「リョウ! セイ!」
アレスと応戦しているリナは、今すぐ助けに行ける状況ではなかった。それは同時に、任務内容から大きく逸脱している妹を、いい加減引き止めなければならない立場のアレスにも言えることではあったが。
「リョウ、寝てんじゃねぇ!」
声をひそめたセイの声が聞こえ、リョウは目をこじ開けた。肩を揺すられていたので思い出したが、先程のアリスの攻撃呪文で受けた傷を塞ぎ忘れており、開いて血が噴出したのが分かった。リョウは胸元を押さえて疼きを飲み込んだ。
「っ痛ぇ……」
セイが簡易の結界呪文(バリア)を張ってくれた上に、盾になってくれたからだろう。リョウは辛うじて意識を失わずに済んでいた。ただ、
「(絶体絶命って奴か)」
焦る気持ちと、諦めの気持ちと、やたらと客観的な変な落ち着き――そんなものがリョウの痛みの中にうずくまっていた。そこへ、
「お前は確か、泳げたな?」
と、弟から唐突な質問があった。だから気が付いたのだが、弟の記憶は戻っているようだ。リョウは伏したまま、アリスの動きに注意を払いつつ答えた。
「あぁ、一応。でも、何で?」
目が痛いと思ったら、額に滲んだ汗に血液が混じっていた。最早何処がどう痛いのかよく分からなくなっている。しかし、リョウは気が付いた。
「(待てよ)」
セイの記憶が戻っているなら、瀕死なのは彼の方だ。リョウは弟に回復呪文を施さんと手を伸ばしたが、「不要」と制された。不気味な間があって、漸くセイが口を開いた。
「それなら、死んでも岸まで泳げ。いいな?」
問いの答えですらない弟の言葉の意味するところが、リョウにはまだ分からなかった。
「……見ろ」
上体だけを起こしたセイが指差した先には、アレスの放った魔法がぶつかった跡がくっきりと残る壁だった。
「オレじゃまだ、……勝てない」
ほんの少しだけ、セイは笑みを見せただろうか。
「だが、あの壁に、穴を開ける事ならできる」
リョウも小さく身体を起こした。しかし、反論しようとした口はセイに塞がれてしまう。
「リョウ、お前は、リナと一緒に海へ逃げろ。分かるな?」
「オレと、リナ? お前はどうするんだよ!」
先刻からリョウの問いには一切答えないセイの意図がやおら明確になった。リョウは慌てて起き上がる。
「そんな」
リョウは首を振った。しかし、セイは兄の意思表示を完全に無視した。
「オレは先に行く――それだけだ」
そう吐き捨てたセイは、目線をアリスへと移した。遠くから、アリスの声が聞こえてきた。
「まだ生きていたの? でも、所詮、“虫の息”ってところかしら」
アリスは意地悪く笑っている。堪らず、リョウはセイに掴みかかろうとしたが、簡単に躱わされてしまった。
「虫が得意とは奇特な女だな」
アリスにそう返して冷笑したセイは立ち上がって、全神経を両手のひらに集中させた。
――中途半端に戻った記憶が、闇魔法分子を導いてくれる。どの程度まで身体が持ち堪えてくれるだろうかは、セイの知ったことではない。
『死神の微笑(デスクレスト)!』
意図を悟られぬように詠唱の殆どを省きながらも、セイの手から発せられた闇魔法分子は数少ない大地属性の魔法分子を次から次に取り込んで硬度を増しながら、中央のアリスを避け、更にリナ達の方へと伸びていった。
「何を……」
唖然とするリナとアレスを更に避けた魔法分子結晶は、寸分の狂いもなく、先程セイが指摘した場所に直撃した。爆音と暴風を伴い、ぽっかりと口を開けたホールの壁からは、高く白波が立つ海が覗く。
「(これは“闇魔法分子”?!)」
「(まさか……光の民に扱えるものじゃない筈なのに!)」
アレスは勿論、アリスまでもが驚きのあまり、我を忘れてしまっていた。
強い風と雨が吹き込んできた。嵐の海は巨大な魔物のようで不気味だ。しかし、其処に飛び込めと言われたから躊躇しているのではない。
「急げ!」
セイが叫ぶ。時間が惜しいのだ。
「だけどお前」
当然、リョウは納得がいかない。それは絶対にしてはならないことだとも思っている。
「――。」
セイはアリスを警戒しつつ、リナの方を見た。彼女はセイの考えていたところを察していたようで、リョウと同じく首を振った。そう、セイの提案は素直に納得できるものではないのだ。しかし、
「此処でくたばるワケにはいかねえんだよ!」
セイが叫んだのとアリスがセイの真意を読み取り、リョウに攻撃しようとしたのは同時だった。リナはもう、呑まざるを得なくなっていた。
「させるか!」
アリスが魔法を放とうとしたが、それはアレスの、殺気にも似た強烈な視線によって制された。リナは一つ小さく頷くと、呆然としているリョウの腕を掴み上げ、海へと飛び込む。
「セイ!」
リョウは叫んだ。その声に、セイが応えることはなかった。
「(オレさえちゃんとしていれば!)」
リョウを、無力感が襲ってくる。
(2)
「嵐まで来るとは」
敵ながら、リョウとセイのやりとりに、アレスは何だか懐かしいものを感じていた。兄弟仲は良くはなさそうだが、考えていることは大体同じなのだろう。久しぶりに時化た海は、この戦いのメタファーだろうか。彼女の足元には、力尽きた少年が横たわっている。
「大丈夫よ、姉さん。あとの一人もすぐに、カナッサが見つけてくれるわ」
嘲笑さえ浮かべて、妹はそんなことを言っている。彼女の分析は間違ってはないので、「そうですね」と同意したものの、アレスは、妹の言動に違和を感じずにいられなかった。
「貴女は、まるで、……別人のようです」
アレスは双子の妹に率直にそう伝えた。何があったのか、と。しかし、彼女は背を向けてしまった。
「そう? じゃあ、今までの私がどうかしていたのかもね」
彼女の視線上にも漸く、極度の疲労で倒れ込んだ兄弟の片割れが映る。
「この子は地下牢にでも入れておくわ。姉さんは、一応部下全員に海の探索でもさせておいた方が良いんじゃない?」
アリスは、ホールの裏の控え室に予め待機させておいた部下達を呼び寄せる。
「そうですね、お願いします」
姉の返事に笑みを返し、意識が朦朧としたままのセイを連れて、アリスは先に階段を下りて行った。その中途で、アリスが指示外の行動をとらないよう、一人の部下が見張りに付く。
それらを見届けたアレスは、残りの部下を集め、適宜指示を出す。
「標的の内、1名が海中に逃亡しました。総員嵐が治まるのを待って探索してください。今捕らえた方も、もう一人が見つかるまで、アンドローズへの移送はしない事」
アレスは努めて平静を装っていたが、配置に戻る部下達を見送った彼女は、一つ、大きな溜息をついた。
(失敗する事があれば、お前は命をもって償わなければならない)
主君の言葉が、アレスの脳裏を過る。大勢の部下や修道院に残してきた血のつながりの無い大勢の家族や仲間達――背負っているものが大きいアレスにとって、死より、むしろ自分の死が周囲に不経済を齎すことの方が怖かった。しかし、それにしても、
「(あれは、……アリスなの?)」
四天王として第一線で指揮をとることが多い自分と、戦うことよりも傷を負った仲間の為に回復部(ヒーラー)にいることが多い双子の妹・アリスとは、正直軍内で顔を合わせることは少なかったが、それでも分かり合えているものと信じていた。先程の戦いは、むしろ、彼女から邪魔をされているような気さえしてきた。
「らしくないなぁ、ボーっとしちゃって」
急に呼びかけられて、アレスは驚いて後ろを振り返った。
「貴方でしたか」
アレスは声の主を見て、眉をひそめた。
「気付かなかったのかよ、オレずっと居たぞ?」
その男は亜麻色の髪を掻くと、一つあくびをした。勿論、フィアルである。
「相変わらずの非常識ですね。軍務の方はどうされているのですか?」
自分もまた疲労しているアレスはフィアルと目を合わせない。動揺を悟られたくなかったからだ。
「サボタージュですね。次、発覚した時からは軍法会議にかけるので、そのおつもりで」
彼の閉口を良いことに、アレスは会話を畳み掛け、強制終了させてしまった。
「そんな言い方ねぇだろ、人がせっかく心配して来てやったってのにさぁ」
流石のフィアルも言い返したものの、
「貴方に助けを頼んだ覚えはありません。余計な手出しは無用です」
斯様なけんもほろろであった。
「ハイハイ。すんませんスンマセン」
フィアルはそう吐き捨てて、一応その場から消えておくことにした。ここにいては彼女の神経を逆撫でしてしまうと判断したからだ。しかし、一方のアレスも、あんなにも愛想の無い返事をするつもりは全くなかった。
「(あえて言い訳をさせてもらえるなら――)」
今、自分は超重要任務中であること、そして妹との関係が軋んでいること、加えて、特にフィアルに対しては、どんなに仕事をこなしても拭い去れないほど深刻な「劣等感」を持っていること。アレスは彼とつい口論になる度に、彼へのコンプレックスから脱却できない自分を憎むのだった。
「(……いいえ)」
しかし、逆境なら逆境で、知将にはやらなければならないことがある。
アレスは、辺りに誰もいないことを確認して通信機器を取り出した。
「至急、分析を依頼します」
アレスがアクセスしたのは魔王軍第二部隊の機密担当である。
“承知しました”
と応答したのは、ディストである。
「お願いします。例の件です――」
一番想定したくない事態を想定したアレスは、あらゆるリスクをクリアした後で、任務に当たることにした。
そう、アレスは、一番想定したくない事態を想定したのである。
(3)
「さぁ、ここが貴方の部屋よ」
飴色の長い髪の女がそんなことを言っている――セイのまだ覚束ない視覚でぼんやりと見えたそこは、「部屋」ではなく「牢」というべき佇まいである。重たい鉄柵の扉の周りは、石を伸ばしたような硬く冷たい物質で固められており、とても破壊できそうなものではない。アリスはセイをその中に放り込んだ。
「抵抗しないのねぇ。もう観念したのかしら?」
「……。」
セイは、右手の親指を立てたまま突き出し、そのまま親指を下に向けて垂直に下ろした。そして、上目づかいでアリスを睨んだ。俗に「地獄へ落ちろ」のサインである。
「可愛くないわね。アレスがあの子を逃がしたりしなきゃ、すぐにでも貴方を殺すことができたのに」
アリスはそう吐き捨てると鍵を閉め、アレスがわざわざ付けた監視役まで睨み付けると、足早にその場を離れた。遠くなる二つの足音と重い地下室の扉を開け閉めした音が、静かな牢に響いては消えていった。
外は嵐だというのに、ここはたいそう静かだ。セイは纏まらない記憶の糸を何とか手繰り寄せたが、これから外に出られることがあるのだろうかもよく分からない。ただ、別れ際に、リョウが何やら吠えていたのは少しばかり覚えていた。
「(奴は相変わらず吠えているのだろうか。まさか、戻って来たりはしないだろうな)」
ほんの数刻前の“セイ”が何を考えて此処に残る選択をしたのか、今のセイにはよく分からない。ただ、分からないなりに、リョウが逃げ遂せることが大切であることはよく理解できる。しかし、如何せん、かの兄は「甘チャン」なのだ。
「無駄に戻ってきたら、ぶっ殺す」
暗闇に呟いて念を押してみたが、セイの言葉は分厚い壁に吸い込まれて無為に帰した。
それにしても、震えが収まらない――セイが今倒れこんでいる床が冷たいせいか、体力が大きく削られてしまっているせいか、寒くて仕方がない。とはいえ、彼に起き上がる気力は、もうない。
「(本当にここで最期になりそうな気がする)」
しかし、目を閉じかけたセイの耳に、甲高い少女の声が飛び込んできた。
「ねぇ、誰かいるのー?!」
セイは少なからず驚いたが、先刻の戦いの疲れもあって、その声を完全に無視していた。今は、海へと逃れた兄とリナが無事である事を祈るのみ――暫く何も無かったので、彼はもう声が聞こえたことすら忘れてしまっていた。
そんな折だった。
セイの座っているすぐ隣のコンクリートが少しずつズレて、穴(通気孔跡かと思われる)が開いた。そして、その下から先程の声の主と思われる少女が顔を覗かせたのだ!
「ちょっと、ヒドイじゃない。居るんなら居るって言ってくれたって良いじゃないのよ!」
ここ何房あると思ってんのよ、と少女は子供のような間延びした口調でそう言うと、その穴から這い上がった。
「!」
しかし、その少女の顔を見るなりセイは驚愕し、じたばたと手足を動かして起き上がると、何とか間合いを取った。
飴色のウェーヴのかかった長い髪。長い睫毛に縁取られた大きな目とは対照的な、小さな鼻と口……
「アリス!?」
つい先程まで戦っていたアリスが、何と今、牢の中に、しかもセイの目の前にいるのだ!
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