第17話 アリス
(1)
セイの眼前のその少女もびっくりしたようで、目を丸くさせた。
「私の名前知ってるの? でも確か、貴方とは初対面の筈だし……あ、ひょっとして、ずっと前に会った事があるのかしら? うーん……ごめんなさい、全っ然覚えてないわ」
一人悩むこの「アリス」の顔立ちや声色といい、先程まで戦っていた“アリス”そのものだった。
「トボけんな。さっきまで戦ってたじゃねえか」
また戦わなければならないと思ったセイは自分の剣を探したが、それは魔王軍に押収されたらしく、見当たらなかった。しかし、
「え?! そんな筈は無いわ。私、もう5日近く向こうの房に軟禁されてるのよ?」
アリスの回答はセイの記憶を裏切り続けた。自分の記憶がポンコツである旨自覚しているセイは、とうとう記憶から真偽を判断することは放棄してしまった。
「そう言われてみれば……無傷だな」
加えて、自称「アリス」の服は、魔王軍の黒の軍服でも無く、女性らしい薄いピンクのワンピースとアンサンブルの長いショールである。彼女の首元には修道女の証である金のロザリオが光っていて、どうもさっきまで殺人的攻撃呪文を繰り出していたような女と同一人物とは思えない。状況判断の途中だが、セイは話しかけられた。
「でも、貴方が戦っていたって言うのは納得できるわね。普通に生きてる人は、ここまで傷だらけにはならないもの」
アリスに促されて、セイは自分の額に触れてみた。手にべったりと赤黒い血が付く。記憶が戻ったり再び無くなってしまったりと不安定なので、自分がどのくらい傷を負っていたのかには無頓着になっていたようだ。アリスは、傷に触れては驚いているセイを見て苦笑していた。その微笑みさえ、先程まで戦っていた筈の“アリス”のものとは全く異なる、温かみのあるものである。
「多分、貴方はアレスと戦ったのね」
アレスと戦ったのは正解とも不正解とも言い切れないが、そう答える体力さえ、今のセイには惜しかった。構わず、アリスは結論に補足を付けた。
「アレスは、私の双子の姉なの。貴方が見間違えるのも無理はないわ」
そんな事を言った彼女は、セイの負傷した左肩にそっと両手を添えた。
「何だ?」
セイは身じろぐ。ただでさえ他人に触られるのが嫌いな上、自分の傷口に触れんばかりの異種族の手に、正直、警戒していた。攻撃されても防ぎようがないからだ。しかし、アリスはまたもセイの認識を裏切った。
「動かないで。傷が痕になったらいけないでしょう? 私、こう見えても治癒魔法は得意なんだから」
セイとしては複雑な心境だった。彼の拙い記憶力に依ると、彼に傷を付けたのも、それを治すのも“アリス”ということになるのだ。
「アレスと戦って死なずに済んだ光の民は貴方が初めてかもしれない。せめて私から、お詫びをさせてね」
彼女のこの言葉の是非はともかく、彼女が治癒魔法を得意とすることは本当らしい。リョウに任せると数十分を要しそうな治療が、ものの数分で完了してしまった。
「はい、終わったよ。ホラ、ぼーっとしてないで、顔の血を拭ったら?」
アリスにハンカチを差し出され、セイはふと我に返った。体中の痛みがウソのように消えていて、傷も残らず完全に癒えている。当たり前のようにハンカチを渡されたものの、それはレースやビーズで装飾されていて、とても血液で汚して良いものだとは思われなかったので、セイは自分の外套を引きちぎって顔を拭った。額だけだと思っていたが、顔じゅう血だらけだったらしく、顔を拭いただけで、外套の切れ端は、赤く染まってしまった。
「あ!」
アリスは、セイの顔をあらためて見て小さく感嘆の声をあげた。
「今度は何だ?」
何とか会話を切り返すだけの体力が戻ったセイは、儀礼的に問うてみた。
「貴方、意外と男前じゃない!」
アリスは紅く染まった頬を手のひらでさっと隠した。
「……そいつァ、どーも」
ことごとく想定から大きく外れてくるアリスの発言それ自体に大きく戸惑い、更にこういう時にどう返して良いのか分からず、セイは思わず彼女から目を背けてしまった。
それにしても、つくづくこの自称「アリス」は先程まで戦っていた“アリス”とは別物だった。セイは事実を整理できずに途方に暮れてしまう。
「確かに、さっきまでお前達双子と戦っていた筈なんだが」
こればかりが解決しないのである。果たして、同じ名を持ち、同じ顔かたちをした女が、同じ姉を持つ赤の他人と言うことが起こり得るだろうか。
「そっか」
其処に解決の糸口が見えたのだろうか、アリスは2つ3つ相槌を打った。
「つまり、実は、気付かないうちに、私は二つに分裂していたのね!」
「んなワケねぇだろ」
いつものクセで、セイはぶっきらぼうに突っ込んでしまうが、彼女はそんな不躾など笑い飛ばしてくれた。
「冗談よ。つまり、誰かが私になりすましているのね。そして、貴方は、その偽者と戦っていたってわけね」
アリスのこの仮説は成り立ちそうだった。どちらが偽者か本物かは、別として。
俄かにアリスの表情に陰が差したように、セイには見えた。そう思った瞬間、
「……ごめんね」
うつむいたアリスの口から思わぬ言葉が飛び出したのだ。セイは何故突然謝罪されたのかが分からなかった。
「でも本当は、姉は、優しいヒトよ」
彼女がそう付け加えてやっと分かった。どうやら、彼女は姉のアレスの事を詫びているようだ。これには、流石のセイも面食らってしまった。
「私がその場についていれば、貴方もあんなに深手を負う事なかったのにね」
戦いに明け暮れる姉と意見が対立しているのだと彼女は言った。
「あの程度の傷、深手とは言わない」
相手は人間の宿敵・魔族である。借りを作らないように、セイはあえてそう突き放したのだが、
「強がっちゃって」
アリスは悪意も屈託も無い、優しい苦笑いをくれた。
セイの理解を完全に超えていた。マゾクはニンゲンが大嫌いで、ニンゲンもマゾクが大嫌い。だから退け合ってきたのではなかったのか? それなのに、この女と来たら……
「私、いつも思うの。本当に人間と戦う必要があったのカナって」
この女と来たら。
「姉さんもリノロイド様も尊敬はしてるケド、私、やっぱり戦争なんて嫌いなの。だって、光の民も闇の民も、見た目や考え方にそんなに大差はないから」
セイは、アリスをじっと見た。同じような疑問を、今、自分も持っているからだ。
「……何故、オレにそんな事を?」
だから、セイは思わず訊いてしまったのだ。答えにくい質問だったのだろう、彼女は言葉を選んでこのように切り出した。
「貴方に聞いておきたいってトコロかしら」
あまり光の民と話す機会は無いのだと、彼女は言う。
「闇の民と光の民は、殺し合うものだと誰もが思っているの。私に傷の手当をさせてくれた光の民は、実は貴方が初めて」
アリガトウ、などと彼女は言っている。回復をしてもらった自分は満足に礼も言えていなかった筈なのに、つくづく、この女と来たら。
「(でも……)」
彼女なら何らかの答えをくれるのだろうか――セイは言うべきかどうか迷っていた。
「オレには、……」
迷いの最中なのに、言葉だけがせっかちにセイの口から零れてしまったので、もう誤魔化しようは無い。アリスに促されるまま、セイは続けた。
「オレには記憶がない」
そのセイの告白は、修道院出身のこの少女に驚きと同情を与える結果となった。
「兄の話では、たまに戻っているそうだ。だが、その時の事さえ、殆ど何も覚えちゃいない。先程の戦いの記憶も、殆ど無い。きっと、記憶が戻っていたのだろうが」
そう言って髪を掻き毟るセイの話を、アリスは相槌を返しながら真剣に聞いていた。だからだろうか、セイはつい、この魔族の女に本音を吐露してしまったのだ。
「時々、心の奥底で、光の民に対しても強い嫌悪感を持っている自分に気付く時がある」
案の定、アリスは不思議そうにセイを見ている。
「戦いを進める度に、追い詰められているような錯覚がある」
虚しい、と上手く伝えられただろうか。
「光の民も闇の民も同じなのか?」
互いに傷付け合い、憎み合い、そして苦しんでいる――それは記憶を白紙にされたセイの率直な感想だった。セイはアリスを見つめた。
「今は魔族の方が優勢だから一方的に見えるんだろうが、人間だって腹の裏じゃあ世界を自分達だけのものにする為戦っているんだろうし、そういう歴史が現にあったらしいな」
それは先日ソニアに聞いたところによるものだった。
「何のために戦っているのか、今は全く分からない」
遠く、ゲートの閉まる音が聞こえてきた。きっと今は海水が満ち、今朝来た道も海の中にあるのだろう。
「ねえ、」
アリスは不安の表情をセイに向けた。
「今の貴方も、やっぱりこの世界から魔族を消したいって思ってるの?」
あえて、アリスは闇の民への蔑称である「魔族」という言葉を使って問うた。
アリスの意図はともかく、セイにとっては少し難しい質問だった。記憶を失う前の「セイ」なら、確実にそう思っていただろう。
でも、今は全く分からない。
記憶を失ってから出会ったマゾクというものは、兄から聞かされていたものとは全然違うモノだったからだ。それよりもむしろ、かつては同種であるニンゲンにさえ憎悪を抱いていた「セイ」自身に、漠然とした罪悪感と若干の恐怖感を持っている。
「さぁな」
結局彼も、こう答えるしかなかったのだ。
「一緒に旅している兄が随分な甘チャンだから、闇の民を根絶やしにする旅にはならないと思う」
セイは、記憶を失って初めて会った時にリョウと話した事を思い出していた。正直、戦いが終わるのかどうかは全く分からないし、まだそれを裏付ける自信も無い。ただ、戦いをきちんとした形で終わらせたいと思っているし、勿論、その為に闇の民を根絶したいというわけではない。少なくとも、兄は。そして今の自分も――
「……どうかしてるだろ?」
かなり癪に障ったが(!)、記憶を失ってからは少なからず、自分は兄に感化されているのだろう。セイは大きく溜息をついた。
「貴方のお兄さんにも会ってみたいな」
アリスは微笑んだ。
「止めておけ、低知能が伝染るからな」
セイもやっと、少しだけ笑うことができた。
「貴方の名前、聞いてなかったわね」
闇の民の聖女・アリスはこの記憶を失った光の民の戦士に興味を持ったようだった。
「オレは、セイ」
この無表情・無関心・無干渉の男の、一体何に魅かれたのかは、ともかく。
「私はアリス。アリス・ファルナ・ヴィオン。よろしくね」
(2)
海に飛び込んでからどの位時間が過ぎたのだろうか――戦いで疲れきったリョウとリナが嵐の海を泳ぐというのは、流石に無理があるように思われた。
「(あれ?)」
海水が目に沁みて痛く、リョウには何も見えたものではなかったが、不思議と苦しくは無かったと思う。いや、海中だというのに息が出来ているような不思議な錯覚があった。手をつないでいるのはリナだろうから、はぐれてはいないようだ。それならこのまま意識を手放しても良いのだろうか。いや、
「(少なくとも、オレは生きなきゃいけない!)」
リョウは何とか目をこじ開けた。すると……
「あれ? ……ここは?」
リョウが目を覚ました場所は岩で覆われた洞穴のような所である。あまり、奥ゆきはないようだ。隣には、リナ(今は鳥の姿をしている)が、首を竦めて眠っている。波の音に誘われるまま振り返ると、そこは海。洞穴の入り口付近は波間から突き出した岩々がそびえているのだが、その向こうにはもう延々と大海原が広がっている。
リョウは起き上がった。疲労からだろうか、腕にも足腰にも力が入らない。フラフラの足どりで、岩伝いに海の方へと歩いた。遥か遠くにうっすらと見えるアレスの基地が、夕日の光に押しつぶされそうである。
一体どこまで夢でどこまで現実だったのかは曖昧だが、少なくとも、セイはここにいない。その現実が、心に重しのように乗っかっていて、絶景を前に一つも気が晴れない。
「(随分遠くなったなぁ)」
リョウは溜息をついた。何よりも、自分の力量の無さを心から悔んだ。今すぐにでも力を手に入れたい。強くなりたいと思った。
「(本当はオレが、ちゃんとしなきゃいけないのに!)」
特に、弟の記憶がない今は――リョウは唇を噛みしめ、拳を握りしめたまま、その基地をじっと見つめていた。
「具合はどう?」
ふと聞こえてきた女声に驚いて、リョウは、声が聞こえた方へ視線を移す。海面から女性が頭だけ出してこちらを窺っている。ぎょっとするようなシチュエーションではあるが、彼女の、ブロンドのセミロングヘアや碧海の色をした印象的な眼には見覚えがあった。
「貴女は……」
ダーハの港で出会った女性である。まさか、彼女が助けてくれたのだろうか。
「もう四日くらい眠りっぱなしだから、心配していたの」
その女性は海から出て近くの岩に腰かけた。リョウはその姿を見、目を疑った。というのも、その女性の下半身に足というものは無く、まるで魚のように皮膚が鱗で覆われている上、鰭としか形容できないものが付いていたのだ。
「ハ……半魚人っ!?」
リョウは、彼女のその肢体を見て息を呑んだ。
「そう、ねぇ……(できれば人魚と呼んで欲しいのだけれど)」
その女性は小さく溜息をついた。
「助けてくれてありがとう。貴女に聞きたいこともあるんだけれど色々とそれどころじゃなくって、いや、もう混乱しててゴメン」
そう、彼女はリョウの名を知っていた。しかも、人ではない。それなのに、自分とリナの窮地を救ってくれた。混乱する事実の糸に戸惑うリョウの言葉を遮って、人魚は何か呪文の詠唱のようなものを唱え始めた。人の聞いて分かる言葉ではない。古代語句だろうか? 攻撃呪文ではなさそうだったのだが、それにしてもリョウは不安になった。
彼女の言葉に導かれるままに光が現れ、彼女の指に柔らかい光が集まっていく。リョウはそれを興味のままにぼんやりと見つめていた。
「(あれ? 何だか……)」
その光に見覚えがあった気がするのだ。ずっと、ずっと前に――光の糸が真っ直ぐリョウに伸びてきた。リョウは少し怯んだが、その光を受け容れた。すると、彼女の呪文の詠唱を聞くうちに、群雲が晴れていくかのように、既視感が拭い去られていくのが分かった。
――“カナッサ”
「久しぶりね、リョウ」
「……カナッサ? あ!」
リョウは、目を丸くした。確かに、自分は彼女と出会っていたのだ。7年も前になるが。
「驚いたのよ。あの頃よりも身長伸びているし、容姿も大人っぽくなってて、私も始め気が付かなかったの。懐かしいわね」
カナッサはニッコリ笑った。リョウも照れくさそうに笑った。
「そりゃあ、7年も経てば、光の民は誰だって変わるもんだけどね。でも、貴女にとっちゃあ、大した時間じゃないだろ?」
カナッサ・マーメイド。父なる海の神の神託を守る為に永遠の命を許されている種族である。
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