閑話:川瀬透という男

《三人称視点》


世界が崩壊した、あの日の出来事。


 それは、数多の絶望を産み、狂気を孕んだ者も少なくなかった。


 【文明の落日】


 その言葉は、あの日の全てを言い表すのに、とても適していて、尚且つ人の文明が終わりを迎えた事を、否応なく人々に理解させるには十分だった。



 世界が世界に呑み込まれた。



 そう表現する者もいたが、文明が崩壊した現実に向き合いたくない人々は、そういう事を口にする人の言葉から耳を塞ぎ、現実から目を逸らそうとした。


 だが、現実というのは、世界というのは残酷で。


 誰もが耳を塞ぐ事も、目を逸らす事も許さなかった。



 世界が崩壊したあの日、黒い嵐と共にやってきた【魔獣】という名の怪物。



 世界は、文明の形を壊してもなお、人々の心理に突き付ける。



 〝お前達の時代は、文明は終わったのだ〟



 絶望、絶望、絶望。



 あの日を境に外道に堕ちた者は少なくない。世界が終わった。なら、自由にやっても問題はない。


 倫理観など糞くらえ。道徳心など反吐が出る。



 【文明の落日】以降、恐らく人の歴史上、最も創作物のようでいて、人の醜い悪意が曝け出された混迷期。



 魔法のような、創作物から飛び出して来たような不思議な力。異能とも、超能力とも違う、神秘的で超常的な力。



 希望の意味も込めて、神様が人を見捨てていないという証明欲しさから、【ギフト】と名付けられた、その力は。



 人々の中に希望の灯火を宿らせて、人の矜持とでも呼べる、自暴自棄にならないで明日に向かって生きようという活力を齎した、残酷な世界に抗える力。



 だが、人の悪意の醜さは、底知れないのだ。



 逆に言おう。【ギフト】があったからこそ、人の悪意は加速したのだと。



 この世界に、人間を真の意味で動物に落とし、弱肉強食の食物連鎖の枠組みに放り込んだ、最後の火種だったのだと。



 絶望の中、自暴自棄になった者が、強大な力を手にした時の行動は、驚くほどに単純だ。



 生きるために、他の命を奪う。



 その対象が、人かそれ以外かの違いでしかないのだ。



 理性があるからこそ、思考する知能があるからこそ、豊かな感情があるからこそ。



 人の〝悪意〟は際立つのだから。






◇◇◇






 崩れた家屋。幾つもの木々が折り重なり、その上に鉄筋が剥き出しになったコンクリートも乗っかった、瓦礫の山。



 その下敷きになっている、中年の女性。



 赤い水溜まりが広がる中、感じ取れなくなった下半身の感覚に虚しさを感じても、女性は涙することなく、ただ、ただ、痛みに耐えるように歯を食いしばるだけ。



 助けを呼んでくると言って、どこかへ行ったバカ息子の顔を思い浮かべて、女性は無意識に笑みを浮かべる。



「全く………こんなんじゃ助からないのは、あの子も分かってるだろうに」



 喉に込み上げる、熱い粘つく塊を、彼女は吐き出した。



「ゲホッ、エホッ――――オエエエエエ」



 赤い血の塊が吐き出されて、気持ち悪さから胃の中身も吐き出される。



 多分に鉄の匂いが混じった、鼻につんと来る匂いに、顔を歪めながらも、何だか可笑しくなって笑ってしまう。



 小さく笑い、喉と口の中に残る胃の中身を吐き出そうと嘔吐えずき、想像以上の気持ち悪さから、彼女は顔を青褪めさせる。


 いや、青褪めているのは血が足りないからか。



「はぁ~………せめて、顔くらいは見たかったなぁ」



 その瞳に涙が浮かぶ。もう直ぐ、自分の死が近い事を予期して、一人で死ぬ事が寂しくなったのか。


 彼女の頭の中に浮かんだのは、愛しい親不孝者のバカ息子。


 段々と、身体の感覚が薄れていく事が手に取るように分かり、その事実に彼女は恐怖した。


 いっそのこと、泣き叫んでやろうか。そう、彼女が考えたその時。



「母さぁぁぁぁぁぁん!!!!」



 遠くの方から聞こえてくる、愛しい息子の声が聞こえて、彼女は己の中から恐怖が薄れていくのを感じ取った。


 ぜえ……ぜえ……と、息をきらして額から滝のような汗を流しながら、母親譲りの吊り目、父親似の顔立ち。


 金髪に染めていた髪が、黒髪と混じってメッシュになった、不良の典型のような髪色のバカ息子。



「透……………」



「母さん、もう少しで助けが来るから!きついだろうけどまだ頑張ってくれ!大丈夫!大丈夫だから!あとちょっとで来るから、だから…………」



 今にも大声で泣きだしそうな、無垢な子供のような顔で、青年――――――川瀬透は、今にも死にそうな顔をした母親の――――――川瀬美南の冷たくなった手を両手で握る。



「死なないで、くれよ…………」



「透……………あんたって子は、本当にもう………」



 美南は全てを察していた。本当は助けなんて来ない事を。ボロボロの衣服を着て、傷だらけになった息子の姿を見て、必死になってくれたのだろう事を。


 今にも泣きだしそうな顔で、心配そうに自分の手を握り、祈るようにぎゅっと目を閉じる息子の顔には、絶望の影がちらついていたから。



 あの時、突然の地震と、世界が別の世界に呑み込まれているとしか形容できない、不思議な現象。


 あの災害でめくれ上がった地面に煽られ、次々と崩れていく家屋に潰された美南。生きている事が奇跡であり、生きている事が不運とも取れる、もう助からない傷。


 潰れた半身が物語っていた。自分の命の灯火が揺らいでいる事を。


 死にたいか、と聞かれたら嘘になるが、息子だけでも助かったのだから、母親としては上々だろうと、美南は誇らしくさえ思っていた。


 瓦礫に潰されたのが自分で、本当に良かったと。



「透、顔を上げな」



 母の声を聞いて、瞼を上げて母親の顔を見つめる。透の目に映ったのは、自分を慈愛の表情で見据える、母の顔があった。


 だが、同時に何かを悟ったような表情だった。


 聞かずにはいられない。不安になった透は、衝動的な感情のままに母に問うた。



「かあ、さん………?なんだよ、その顔………まるで、自分が死ぬのを受け入れたみたいじゃないかよ………嘘だろ、なあ………死なないよな、母ちゃん!?」



「透、よく聞きな………あたしはもう直ぐ死ぬ。どうせ、もう助からない命だからね………だから、最後にお前に言っておきたいんだ」



「嫌だ……嫌だ!嫌だ!嫌だ!何でそんなこと言うんだよ!?助けが来るって言ったじゃんか!!もうちょっと、もうちょっとで来るんだ、だから、やめてくれよ………助からない命だなんて、言うなよ…………」



 何も聞きたくない、何も見たくない。母親の死ぬ姿を見るなんて、母親の最後の言葉を聞くなんて…………嫌だ。


 誰だって、母親が死ぬなんてことは、とんでもない不幸で、最悪の絶望だ。


 自分を育て、慈しみ、愛してくれた人が死ぬ姿なんて、見たくないに決まってる。


 ……………それでも、母親である美南は、言わなければならない。聞かせなければならない。これが、最後になるのだから。



「透」



「っ!」



 弱々しくも、力強い声音で名前を呼ばれて、透は瞼を上げて顔を上げた。


 そこには、困った子を見るような母親の顔はなく、最後の瞬間を息子に見届けさせようとする、〝母〟の姿があった。



「透、私はあんたを愛してる。どうしようもなく不器用で、それしかやり方を知らないあんたを、正義感のある優しいあんたを愛してる。透のことが大好きなんだ。だから…………最後くらいは、笑って看取ってくれないかい?」



 何も、言葉が口から出なかった。これが最後なのだと、母親自身に突き付けられた現実は、透自身の胸に深く突き刺さった。


 滂沱の涙を流す。鼻水も垂れて、ぐちゃぐちゃになった顔を、乱暴に袖で拭き取った透は、せめて最後くらいは、かっこいい自分の顔を母親に見せたいと。


 精一杯の笑顔を浮かべた。



「母ちゃん………今まで、育ててくれてありがとう………親不孝者でごめん。だけど、俺も母ちゃんのことが大好きだ」



 下手くそな、悲しみを隠せていない涙と鼻水まみれの笑顔ではあったけど、それでも自分から見た透の笑顔は、今までで一番の笑顔だと、美南は、そう思えた。


 だったら、応えないと、自分も、笑顔で――――――――。



「透…………あんたは、あんたの道を突っ走りな……」



 その言葉を最後に。


 川瀬美南は、透の母親は、息を引き取った。



 笑顔を浮かべていた。笑って見送るために。



 だけど、もう、限界だったのだろう。



 その後、透は大声で泣き叫んだ。涙が枯れ果てるまで、涙を流し続けた。



 声が掠れても叫び続けた。涙が枯れても、悲しみを叫び続けた。



 雨が降る。



 雨が、母親の身体から零れ出た血を洗い流していく。



 冷たい母親の手を握り、もう感情が浮かんでこない程に疲れ果てた透は、母親の身体に抱き着いた。



 雨に濡れないように。自分の身体が冷えて凍えるのも戸惑わず、透は母親の身体を抱きしめ続けた。



 雨が晴れる。



 憎いとさえ思ってしまうほど、空は晴れやかで、澄み渡っていた。



 でも、なぜかこんな空を見ていると、ふと子供の頃のことを思い出す。



 透は、幼い頃に見た母親の笑顔と、死ぬ間際の母親の笑顔を思い浮かべて、漸く決心がついたとでも言うように。



 母親の亡骸を瓦礫から引っ張りだそうと、動き始めた。



 近くの公園で、母親の身体を埋めた。下手ながら、岩に母親の名前を彫って墓石をつくり、母の墓をつくった。



 母の墓の前で、透は両手を合わせる。



「母さん、俺、頑張るよ。頑張って明日を生きていく。母さんがいなくても、大丈夫なように頑張る。だから……………ゆっくり、休んでくれ」



 立ち上がり、もう一度、空を仰ぎ見る。



 母親の笑顔と青空が重なって見えて、ふっと透は笑みを浮かべた。



 彼は歩き出した。



 母の死を受け入れて、一歩を歩き出したのだ。



『あんたは、あんたの道を突っ走りな』



 母の言葉が、頭の中に響く。



「ああ、母ちゃん、俺は決めたよ」



 自分の手を握り締めて、透は決意に満ちた表情で、前を見据えた。



「俺は、俺の道を突き進む」



 その後、彼は仲間と再会して【剣狼団】というクランを結成する。



 ただ一つの分岐点、過ちから始まる道を、その果てに破滅しか存在しない事を知りながらも。



 彼は、仲間との旅の道中で知った真実を受け入れて、もう一つの仲間たちとの目的を果たすために、その道を歩む事を選択した。






◇◇◇






《川瀬視点》


 薄れゆく意識の中で、川瀬は仲間たちとの思い出を、走馬灯のように頭の中で巡らせる。



 仲間たちを、友達を裏切るような行為を犯し、目的のために巻き込んだことは、自分だけの罪だ。



 誰にも明かせない事だとしても、戦うしかない。だが、友達を巻き込んでしまったこと、それだけが悔やまれる。



 だけど、託せる人に出会えたから。



 あの時に見た、英雄の戦い。



 もう一つの仲間たちから聞かされた、最強の英雄。



 彼になら、自分の仲間を託せられる。



 伝えるべきことは伝えた。後は、彼の戦いだ。



 俺の人生はここで終わる。けれど、俺の残したものは、絶対に無駄にならないだろう。



 彼は、気づいてくれるだろうか?



 いや、彼が気づくよりも先に、俺のもう一つの仲間の方から接触するか。



 どうやら、一人は既に接点があるようだし。



 謝れなかったけど、代わりに伝言は渡したからな。それで、許してくれないかなぁ。



 いや、許してなどくれないだろうな。彼は、俺に似ているから。仲間を大切に出来なくなった時点で、俺がクズな事には変わりはない。



 例え、あの狂人に侵されたことだとしても、俺自身が抗えなくなった時点で、全て俺の責任なんだからな。




 暗い、暗い道を一人で歩いているような、そんな不思議な感覚だ。



 俺だけが歩いている。この世界には、俺しかいない。



 光が見えた。一筋の光。



 なぜだか、理由も分からずに、そこに行かなければならないという衝動に駆られた。



 走る。走る。走る。



 光の下に辿り着いた時、暗闇が一気に晴れた。



 そこは、晴れ渡る青空の広がる街。



 何度も遊んだ、近くの公園。



 そこから少し歩けば、家がある。



 俺の家。俺が育った家だ。



 玄関を開けると、そこには、エプロン姿の吊り目の女性がいた。



 その人は、俺の方を見て驚いたような顔をしていたけれど、直ぐに穏やかな、慈しむような笑顔を浮かべて、こう言ってくれた。



「おかえり、透」



 ああ、涙が勝手に出ちまう。それよりも先に、言う事があるだろう、俺。



 乱暴に袖で涙を拭って、晴れやかな気持ちになった俺は、笑顔でこう言った。



「ただいま!母ちゃん!!」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る