第7話

 気がついたのは見知らぬ部屋だった。幸いにもあの不快な臭いがしない……ということは石神の屋敷の方なのだろうか。あの『ずぐ』を口にしてからの記憶がまったくないのだが、僕はいったいどうなってしまったのだろう?


「お、気ぃついたみたいやな」


 声の方向に視線をやれば、ニヤニヤ笑っている英志と松井さんが畳の上に座って僕のことを眺めていた。


「石神さん、大丈夫ですか……?」


 声と共に、濡れたタオルが額に乗せられる。もちろんこちらは槇山さんだ。


「あ……」


 声を出そうとしたら、また吐き気がこみ上げてきた。


「無理に喋らない方がいいわよ。まったく、なんてもの食べさせるんだろ、あのジジイども」

「あの気色悪いもん口にした途端、自分の様子おかしぃなったから慌てて連れて帰ってきたんや。吐きはせんかったけど、顔、真っ白ぅなってたんやで。ま、おかげで俺らは食わんですんだんやけどな」


 そうなのか……迷惑をかけてしまったようで申し訳ない。


「まぁ、今夜はゆっくり休んでなさい。私たちも、色々あってちょっと疲れちゃったし。恵理ちゃん、お風呂いこっか?」

「あ、それやったら俺も一緒に……」


 即座に繰り出された松井さんの蹴りが英志の脇腹にめり込んだ。


「お、おぉ……」


 呻き声を上げながら英志は畳に突っ伏してしまう。

「あ、あの……病人がいるのでここでは騒がない方が……あと、香奈美さん、申し訳ないのですが私、先にやっておきたいことがあるんです」

「へ? 何を?」

「この家の蔵を見ておきたいんです。なんだかこの村にも変なところありますし、あの『ぐず』とか『よごすの心臓』という言葉も気になります。もしかしたら、蔵の中に何か手掛かりになるものがあるかもしれません」


 なんだろう……温厚で物静かな槇山さんの言葉の中に静かな『怒り』を感じる。もしかして、僕がこんな目に合わされたことに対して怒りを覚えてくれているのだろうか……?


「せやな。なんも知らんまま帰るんも腹立つしな……じゃあ俺と香奈美ちゃんが交代で才人の様子見とくから、恵理ちゃんは蔵で調べ物してきてんか。ほな、香奈美ちゃんはお先に風呂どうぞ」

「覗きにくるなよ?」

「行けへん行けへん……多分な」

 


 ……太鼓と笛の音が聞こえる……

 気がつけば、僕は神社の境内に立っていた。あの、僕にそっくりなアマビトの像がある社の前だ。

 お祭りでもあるのだろうか? しかし薄暗い神社に佇んでいるのは僕ひとり。飾り付けどころか提灯の一つもなく、ただ月明かりだけが落ちている。

 夜空を見上げて、息を飲んだ。

 星空が近い。まるですぐそこに宇宙が迫ってきているのかと思うほどに。

 見上げる星々は、やがて蠢動し始める。何かを敬うように。何かを恐れるように。

 左右に分かれゆく星々に引っ張られ、宇宙が音を立てながら綻びていく。

 漆黒の空間に生まれた無残な裂け目。その向こうに極彩色の色ならぬ色が、光ならぬ光が渦巻いている。


「んぐ! んが! あいぃ! よごす=ぞーす!」


 獣の唸り声が闇夜に響き渡った。宇宙の不浄と清浄からなる存在を崇めるその声は、驚いたことにそれは僕の喉から発せられていた。

 時を統べ、空間を支配するもの。全知にして全能なるもの。原初よりありて、終焉を見届けるもの。そして、我に円環たる生命をもたらす永遠の心臓を授けし偉大なる父。

 太鼓の音に招かれて、僕は石段を降りる。下では村の老人たちが小さな神輿を担いでいて、その上には全裸の若い女性がぐったりと倒れている。


「アマビトさま、我らに『ずぐ』を与えたまえ。朽ちぬ命を授けたまえ」


 村長が一歩踏み出て口上を述べる。


「『よごす』に贄を」


 僕が応じると、一同は神輿を掲げて太鼓の音に合わせてゆっくりと進み出した。笛の音はどこから聞こえてくるのかと思ったが、どうやら夜空の破れ目の向こう……次元を超えた異界からのものらしい。

 神輿は坂を下り、村の中心に向かって進んでいく。やがて開け放たれた村長の屋敷の門を通り抜け、あの異臭の元である離れの前で停止した。建物の中からは、何やら大きなものが蠢く気配が伝わってくる。

 薬物でも使用したのだろうか、村の老人たちに引きずられるように立ち上がった女の眼に意思の輝きはなく、ただ夜空の裂け目から覗く異界の虹色を映しているだけだった。

 僕はハッとした。女は僕の知った人物だった。

 離れの扉が開け放たれる。ポッカリと空いた四角い闇の中からこちらを窺う何かの視線を感じる。知性を持たず、本能的に欲求を満たすだけの獣の視線を。

 老人の一人が女の背中を突くと、よろけるように白い裸体が前に進み出る。

 次の瞬間、半透明の器官が開いた戸口から這い出し、女の身体にグルリと巻きついた。不定形の器官はぐにゃりと形を変え、女の身体をスッポリと飲み込んでしまった。

 どうやらそれは、触手であり口でもあったようだ。みるみるうちに女の皮膚は溶かされ、全身から溢れた血液が筋肉繊維の剥き出しになった身体の周りを漂い始める。苦痛が正気を呼び覚ましたのか、女は絶叫を上げているようだ。大きく開かれた口から流れ込んだ粘液が女の舌を溶かし、体内に流れ込んで内臓を蹂躙する。

 整った肢体が赤黒い泥濘と化すまで、数分とかからなかった。「食事」を終えた半透明の生物がやがて、傍に置かれた大きな盥の中にどす黒い肉色の球体を排出すると老人たちが目に見えて色めき立った。『ずぐ』だ。あれはこうやって作られていたのだ。

 僕は進み出て、球体に手を突っ込んだ。無造作に引きずり出した一掴みを躊躇なく口に運ぶ。五臓六腑に染み渡る美味だった。全身が粟立ち、脳の奥底にある『何か』が目覚める。

 そして、僕は……

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