第9話 視察終わり

 サル地区の後処理はバルサン公爵の連れてきた文官や騎士たちに任せ、アリス一行はファーム建設予定地へと到着した。すでに到着していたレイモン一行と合流し、建設予定地の視察を行った。


 途中、バルサン公爵から多少のツッコミはあったものの、国営ファームを建設しても申し分ない土地であることは全員が確認できた。アリスも実際に予定地を目で見ることができて、大満足だった。ここに農業の中心をつくることができると思うと、希望で胸が一杯だったのだ。


 建設予定の視察を終えると、全員で領館へと戻った。明日は王城へと帰るだけである。そのためか領館では、豪勢な晩餐会が開かれた。夜会ほどでもないが、晩餐会というにはそれよりも格が高く、アリスも少しだけ格式の高いドレスを着用して出席した。


「本日のお召し物もよくお似合いです。いつにもましてお綺麗な王妃殿下に心を奪われてしまいそうです。」

「そうですか。」


 レイモンの歯の浮くような台詞に、アリスの蟀谷は一瞬ぴくりと動いた。しかし、それを顔に出さないように努め、笑顔で返答をする。バルサン公爵もレイモンの方を一瞥したが、アリスが特に意に介していないようだったため、視線を送る程度に留めた。


 晩餐会は、終始和やかに進んだ。アリス、レイモン、バルサン公爵の他に、オラール侯爵領の各地域の自治長も呼んでの晩餐会である。それゆえ、オラール侯爵領の自治についての話がメインとなった。


 オラール侯爵領は交通の要所であることから、それぞれの自治長の意識も高い。アリスの掌握力を試すかのように「どこそこの名産品の輸入を考えているのですが」や「河川の治水において最近の流行りは」などと、経済から災害対策まで多岐にわたった。


 そのどれもについて、アリスは難なく対応した。オラール侯爵領を任されてからというものの、血眼になってこの土地のことについて学んできたのだ。この晩餐会を迎えるにあたっても、招待した自治長のことをよく学び、どのような考えを持っているのか傾向性についても頭の中に入れて来ていた。


「そういえば旅の者に聞いたのですが、北の国境付近で北からの移民が増えているとか。」


 その言葉を発したのは、交通の要であるシルキュラ地区を持つ自治長であった。全体の空気が少しだけ張り詰める。北の国境から移民が増えているとなると、ラクール王国からの移民者であることを意味している。


 アリスは気づかれない程度にレイモンを一瞥する。彼に変わった様子はないことから、自治長の話をそのまま続けさせることにした。


「それはいかような理由で?国境の関所が機能していないとでも

?」

「は。いえ、関所は機能しているようなのです。ところが聞いた話によると、関所から東へと進んだ森の奥に、抜け穴があるそうなのです。」

「抜け穴?」

「ええ。本来は切り立つ崖があり、抜けられるようなところではないそうなのですが、少し前の大雨の時に崖崩れがあり、それで抜け穴と言いますか、崖を登らずしても通れるところができたそうなのです。」


 北の国境の関所付近で大雨による災害が起きたことは、アリスの耳にも入っていた。人的な被害はなかったものの、崖崩れが数か所起きていると聞いた。その1つがその森なのであろうが、森の奥ということもあって報告されておらず、移民の抜け穴になっているのかもしれないとアリスは思った。


「なるほど。それは由々しき事態ですわね、レイモン殿下。」

「は。こちらからの移民だけではなく、パストゥール王国からの移民がラクール王国に入る可能性もあります。」


 ここに出席している者のほとんどが「パストゥール王国からラクール王国への移民は無いに等しい」と思ったものの、レイモンを立てる意味で異を唱える者は居なかった。


「……そうですわね。早急に陛下へと御報告させていただきます。」

「は。」


 晩餐会が終わると、自治長たちは深々と頭を下げながら馬車へと乗り込んでいった。見送るアリスに恐縮をしていたのである。すべての見送りが終わると、レイモンが「少し庭を散歩しませんか。」と声をかけてきた。アリスがセリアに目を配ると、彼女は黙って控える仕草をみせた。


「ええ。少しだけなら。」


 アリスが肯定の意を示すと、レイモンの口端は綻んだ。「では、まいりましょう。」とレイモンがエスコートをする仕草をみせる。アリスはそれを微笑みで交わし、歩を進める。レイモンはそれに対しても笑顔を絶やさず、「足元気を付けてください。」というだけだった。アリスとレイモンの後ろには、2名の騎士とセリアが控える。


 領館の庭園は主が不在となった今も、庭師が毎日手入れを行っている。そのおかげで秋薔薇が咲き香っている。心地よい夜風に乗って、その香りがアリスの鼻を掠める。


「レイモン殿下は、今回の視察は有意義なものになられておりますか?」


 レイモンが今回の視察をどう感じたのか、アリスは聞いてみたいと思っていた。レイモンと散歩をするのは不本意ではあったが、良い機会にと聞いてみることにしたのだ。


「ええ。大変有意義です。こうして王妃殿下と庭園を歩けるのも、この視察ならではですし。」


 笑顔のままのアリスは口端が震えていた。しかしそれは、暗闇でレイモンには見えなかったであろう。


「……王妃殿下は国王陛下とご成婚されるときにご不安はなかったのですか。」


 突然、意図の読めない質問がレイモンの口から飛び出した。なんの脈絡もない言葉ではあったが、ヴィクトルにも関する質問であることから、できるだけ誠実に答えることにした。


「不安がなかったといえば嘘にはなりますね。しかし、陛下がそれをすべて受け止めてくださいました。」

「陛下と王妃殿下の熱愛ぶりには、わたくしも驚かされております。城内では、御子の待望されておりますね。」

「え、ええ……。」

「城内では、側妃を娶ってはどうかとの風説も飛び交っておりますが、王妃殿下がお心を痛められているのではないかと心配で……。」


 その言葉に、アリスは大きく反応をしてしまった。コバルトブルーの瞳が一瞬だけ揺らいだのを、レイモンは見逃さなかった。


「王妃殿下は、お辛くないのですか?」

「辛いことなどありません。」


 アリスは即座に答えた。それがアリスの王妃としての矜持だった。


「側妃を娶られるかどうかは、国王陛下が決められることです。わたくしはただ王妃としての務めを果たすだけですわ。」


 自分の代わりを務められる者は居ないと、それだけはアリスの心の中に誇りとしてあった。ヴィクトルが自分を一番に愛してくれていることも、彼女はよく分かっている。だからこそ、ヴィクトルの決定であるならばそれに従う覚悟があるのだ。


 それさえも慮ることのできないレイモンの浅慮さに、アリスは呆れていた。王族でありながら、国王と王妃の心中を察することのできない第2王子に、ラクールの未来が危ういと感じるほどだ。


「レイモン殿下。そなたも身に粉が降りかからないとは言い切れませんわ。わたくしの本来の心情がどうであるか、よくお察しくださいまし。」

「王妃殿下……。……失礼いたしました。」


 アリスがセリアへと視線を送ると、彼女は「そろそろ夜半になります。お二人ともお休みくださいませ。」と発した。満足したように頷いたアリスは、「殿下。領館へと戻りましょう。」とこれで散歩が終了であることを示した。


「お部屋までお送りします。」


 領館へと戻ると、アリスとセリアはまた、レイモンの申し出に頭が痛くなった。博識であるはずなのに、なぜ作法がなっていないのかと、アリスは溜め息をつきそうになった。しかしそれをぐっと堪えて、目尻に皺を寄せながらレイモンへと向き合う。


「心配ご無用ですわ。レイモン殿下もご自分の居室へとお戻りくださいまし。わたくしには騎士らがついておりますから大丈夫です。」

「しかし。わたくしが庭園へと誘ったのですから。」


 これでは押し問答になるとアリスが困っていると、「どうされたのですか。」とバルサン公爵が図書室から顔を出した。アリスがバルサン公爵へと視線をやると、彼は何かを察したようにレイモンへと向き直った。


「レイモン殿下。夜半になるところ申し訳ないですが、少しお話をよろしいでしょうか。」

「ああ、今王妃殿下をお部屋まで送ろうと思っておりまして……。」

「わたくしなら大丈夫ですわ。レイモン殿下、バルサン公爵、あまり話し込み過ぎて明日の出発に遅れないように。では、わたくしはこれで。」


 アリスは一気に捲し立てると、セリアと騎士を従えて蘭の揺れるように主人室の方へと踵を返した。主人室では、シュゼットが湯浴みの準備をしていたため、疲れた身体が動かなくなる前に、アリスは湯浴みをすることにした。


「それにしても、レイモン殿下はどういうつもりなのかしら。」


 銀髪の御髪をシュゼットが丁寧に洗っている途中で、アリスはついそう声を漏らした。セリアはアリスの御身足をマッサージしている。


「レイモン殿下が農業のことを真剣に学ばれているのはよくわかります。」


 セリアの返答に、アリスも大きく頷いた。ラクールのために何かできないかと、必死になって勉学に勤しんでいるのは、今日の国営ファーム建設予定地の視察でも感じられた。現地の小作人に一番多く質問していたのは、レイモンである。


 どんな土地であればどんな野菜を育てることができるのか。どんな野菜ならば栄養価が高いのか。寒冷地でも育つ野菜はあるのか。すべて、ラクールのためと分かる質問であった。彼のその姿勢にアリスも、国を維持するための農業の重要性を分かっている人が居て、嬉しいと素直に思っているところなのだ。


 農業が衰退すれば、国は衰退の一途を辿らなければならない。大臣の一部やこのオラール侯爵領の自治長には、「金貨さえあれば食糧はなんとかなる」と豪語するものも居るが、それにはどれだけの金貨が必要か。また、輸入で賄うとしても、輸入先が干ばつ等にやられれば、パストゥールには一切の食糧が入ってこないことになる。


 金貨で腹は膨れない。農業を充実させることこそ、国を繁栄させることだとアリスが感じているのも、そこにあるのだ。


 そのことを切実に感じている国こそ、ラクールに他ならないであろう。大寒波で食糧難となっている今、農業の重要性が見直されているに違いないとアリスは踏んでいる。レイモンが座学に優れ、実際で目で見たものを吸収しているのも、ラクールのためであると誰から見ても明らかである。


 レイモンのそういう姿勢は、アリスも評価している。ところが、それ以外の場面においてのレイモンの振る舞いに、アリスは疑問を感じているのだ。


「……こんなことをアリス様にお伝えするのも、侍女として悔しい限りなのですが。」

「なあに。」


 シュゼットが苦虫を嚙み潰したような声で言葉を発した。シュゼットがセリアに目配せをすると、彼女は大きく頷いた。シュゼットが何を言おうとしているのか理解したうえで、それに対して了承の意を示したのだ。


「……最近城内でアリス様とレイモン殿下が密通しているのではないかとの風説が……。」


 言葉を発したシュゼットに怒っても仕方のないことだとアリスは分かっている。しかし、大きく声を荒げることはなかったものの、静かに炎を灯した声で「……そう。」と答えた。


「アリス様、あまりそのようなお顔をされない方がよろしいかと。」

「今はセリアとシュゼットだけだからいいでしょ。」


 セリアから冷静に窘められたため、アリスは頬を膨らませながら言った。アリスは基本的に、素直な質である。幼少の頃は感情がすべて表情に出ていたため、王妃教育の中で徹底的に叩き込まれた。


 そういうわけで、王妃として振る舞わなければならないときには、感情が表に出ないようになっているが、プライベートな空間だとその素直さが露見する。アリスは最近、セリア以外の侍女らの前でも素直な表情をするようになった。それだけ、彼女らに心を許しているのである。


 セリアも重々それが分かっているからか、「ほどほどになさってくださいね。」とだけ言った。


「それにしても、なぜそのような風説が流れるのでしょうか。アリス様がレイモン殿下とお会いされるときは、決まって人の目があるときですのに。」


 そう言ったのはシュゼットだった。まだ若い彼女からすると、なぜそのような噂を立てる人が居るのか、理解し難いのであろう。


「何か言いたい人は言うものです。」


 きっぱりと答えたのはセリアだ。シュゼットの教育に力をいれているだけあって、教師のような口調だ。しかし、アリスのことを心から慕っているシュゼットからすると、そのことは少し衝撃だったようで、「そんな……。」と力のない声を漏らした。そんなシュゼットを見かねたアリスは、咳払いをして言葉を発した。


「恐らく、側妃を推薦したい派閥からの風説でしょうね。」


 王城という場所は、いつでも野心に溢れている場所である。いくら王妃の座にアリスが座って居るからといって、まだ御子ができていない以上、側妃になれば誰にでも国母になれるチャンスがある。


 自分の娘が国母になれば、権力を手にできると考えている貴族はそこら中に居る。中には、アリスを王妃の座から降ろそうと考えている者さえいるだろう。


「シュゼットにも苦労をかけるわね。」

「そんな……!わたくしはいつでもアリス様と共にあります。」

「ありがとう。」


 アリスにとって、例え彼女の敵であったとしても、全員が大切な国民である。それゆえに、アリスに敵対心を持つものが居たとしても、それ以上に、忠誠を誓う人を増やしていけばよいと考えている。


「まあそんな噂よりも、陛下のお出迎えが大変かもしれませんね。シュゼット、いつもより入念に御髪に油を。」

「かしこまりました。」


 アリスの王城での悪い噂よりも、セリアが気になるのは帰城してからのことだった。昨日のヴィクトルのことを考えると、出て行ったときよりもよりヴィクトルの熱愛がすごいのではないかと、セリアは心の中で溜め息をついていたのだった。






 ヴィクトルの執務室に扉をノックする音が響き渡る。ノック音で大体誰なのか想像がつくため「入れ」と書類から目を離さずに答えると、扉の開く音がした。足音が執務机の面前で止まってから、ヴィクトルはようやく顔をあげて、入室してきたその人物の顔を見る。


「陛下。国営ファーム建設予定地の視察報告書をお持ちしました。」

「ああ。」


 バルサン公爵が手渡した書類を受け取ると、すぐさまそれに目を通す。軽く目を通しただけで、バルサン公爵がどのように解したか大体分かった。


「それで。サル地区の摘発はどうなった。」

「順調に片が尽きそうです。王妃殿下の尋問もお見事でした。まあいくつかまだまだなところはお見受けしましたが、それはこれから経験を積まれれば良いこと。初めてにしては上出来だったかと思います。サル地区の摘発にも至りましたし。」

「そうか。バルサン公爵がそのように褒めるということは、うちの妻はよくやれたということだな。よかった。私も見たかったな。」

「陛下がいらっしゃったら、それは陛下のお仕事になりますので、永遠にご覧になることはできないのでは?」

「おしのびで覗き見するさ。」

「陛下ならばされてしまいそうなので、絶対におやめくださいね。」


 ヴィクトルはくつくつと笑った。アリスが正当に評価されることを一番望んでいるのは、ヴィクトルだからである。


「……それで。レイモン殿下の方はどうだった?」


 実は、ヴィクトルが一番聞きたかったのはそれである。アリスが帰ってきた昨晩、寝台の中で何度もアリスに尋ねたものの、彼女が答えることは決してなかった。そればかりか、ヴィクトルを煽るような言葉しか発しないものだから、ヴィクトルもつい熱をあげてしまった。


 そんなわけで、今日のアリスはいつもより遅い朝となった。いつもなら夫婦で食事をとるところだが、今日はその姿がなかった。その代わり、ヴィクトルがいつもより寝室から出るのが遅くなった。


 可愛い妻の寝顔に見とれていたのだ。それはヴィクトルにとって、天使よりも女神よりも美しいものだった。何度もアリスの銀髪を掬っては、それを陽に透けさせながらはらはらと流す。それを何度繰り返したか分からない。たまに落ちる一糸がくすぐったいのか、頬をよじらせる表情さえ見とれていた。


「あの方は食えなさそうで素直な方ではありますね。表情に出ることはありませんが、行動に出る方です。第2王子でいらっしゃいますから、まあなんと申しますか、及第点ですね。しかし、あの行動が素直なところは少々警戒が必要です。陛下もご承知だとは思いますが。」

「なにかあったのか。」

「とにかく王妃殿下の御側に居られたいようでした。いつものよう腰巾着をされるだけならば私も特に言うことはなかったのですが、王妃殿下の寝室に足を運ぼうとされておりました。」


 バルサン公爵のその言葉で、ヴィクトルの目つきが鋭くなった。


「……私を睨まれても。」

「……分かっている。それで、どうしたのだ?」

「玄関ホールでひと悶着されておりましたので、私がレイモン殿下をお誘いして事なきを得ました。」


 バルサン公爵がそう答えると、ヴィクトルはあからさまにほっと一息を吐いた。


「なんというか、農業に関する知識を見ていると頭の良い方だとは感じますが、少々賢くないようですね。王妃殿下について学ばれるのは良いことですが、変な気を起こされても困りますので注視され方がよろしいかと。」

「……そうか。恩に着る。アリスにしばらくついてもらって良いか。」

「仰せのままに。」


 バルサン公爵は恭しく礼をとると、「下がって良い。」とヴィクトルから命があったため、そのまま執務室を後にした。室内に一人になったヴィクトルは席を立つと、窓際に立ってアリスの畑を見下ろした。


 今日も彼女が精を出して土いじりをしている。侍女や騎士らも楽しそうだ。ヴィクトルはそれを微笑みながらしばらく眺めていた。

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