第8話 サル地区

 打ち合わせを終えて一休みすると、アリスたちはすぐに行動を開始した。領館の使用人たちからは、もう少し休んではどうかとの提案があったが、アリスたちがやらねばならないことは山積している。


 レイモン一行とは領館で別れてから、バルサン公爵を含めたアリス一行は、ならず者の輩が幅を利かせているサル地区へと向かうことになった。今回、シュゼットが同行するのに白羽の矢が立ったのは、ここにある。


 昨年、アリスがレルカン国の残党に襲われてからというものの、シュゼットは己の力を磨いていた。どんなときでもアリスを守れるようにと。毎日のようにセリアから訓練をつけてもらい、この1年間で実践に出ても大丈夫なくらい、シュゼットは強くなっていたのだ。


「シュゼット。そんなに怖い顔をしないで。」


 サラ地区に入ると、シュゼットの眉間の皺が深くなった。それに気づいたアリスが、そっとシュゼットの手の上に手を載せる。シュゼットがこんなにも警戒を隠さないでいると、サラ地区に降り立つことはできないとアリスは思ったのだ。


「申し訳ございません……。緊張してしまいました……。」

「いいのよ。誰にでも最初はあるのだから。でもあまりに怖い顔をしていると、貴女を連れて行けなくなるわ。」

「はい……。」


 アリスはちょんとシュゼットの眉間を人差し指で触れた。するとたちまち、シュゼットは薔薇の花が綻んだかのように紅潮した。そしてあっという間に深い皺も緩んだ。


「笑顔じゃなくてもいいけれど、いつも通りにしていて。」


 いつも通りとアリスに言われたものの、シュゼットは違う意味でいつも通りにすることができなくなった。師匠であるセリアは少しだけ心配になったものの、先ほどの怖い顔より数百倍マシかと思い、セリアからシュゼットに何かを言うことはなかった。


 シュゼットが気を取り直したところで、馬車がゆっくりと止まった。目的地に到着したようだった。アリスの馬車の扉がゆっくりと開かれる。


 アリスがサル地区へと降り立つと、鼻につんとつく匂いが気になった。見た目には、とびきり綺麗というわけでもなく、だけどひどく汚れているわけでもない街並みが広がっている。それなのに、匂いが気になる。


 たったそれだけで、アリスは嫌な予感がした。思っている以上に、サル地区の治安は良くないのかもしれないと頭を過る。それならばなおさら国営ファームを建設し、オラール侯爵領の治安を整える必要があると彼女は思った。


「まずは、地区長を訪問しましょう。」


 事前に、サル地区の地区長へと訪問伺いを立てていたバルサン公爵は、待ち合わせの建物へとアリスを案内する。この訪問をするにあたって何日も前から、近衛騎士団がその建物へと出入りをし、厳重な警備態勢を敷いてきた。


 警戒をされているサル地区ではあるが、あまりにも治安が悪ければアリスが来れるはずもない。そういう意味では、アリスが訪れることができる程度には、悪すぎないといったところだ。しかし、王妃が訪問をしてきたことで、なんらかのハレーションが起きる可能性もゼロではない。そういうわけで、前々から入念な準備がされてきての今回の視察である。


 地区長と待ち合わせた場所は、サル地区で一番立派な建物である公民館だった。公民館であれば警備がしやすいということで、そこで謁見をすることになった。アリスが公民館に足を踏み入れると、ステンドグラスの光が降り注ぎ、調度品も丁寧に手入れが行き届いている。


 アリスは、「サル地区にしては綺麗にしているわね」と胸を撫でおろした。こういう公共の建物というのは、そこに住む人々の協力がないと綺麗に保つことはできない。


 謁見を行う部屋として準備されたのは、協議の間だった。何か採決を行う際に使われる部屋である。公民館の中で一番広い部屋がここであったため、採用されたのだ。


 アリスはまず、協議の間の隣の部屋に通された。決して広いとは言えない部屋だが、部屋の隅々まで整えられていることが入った瞬間に分かった。サル地区とはいえ、国の妃を迎えるのである。こ最大のおもてなしであることをアリスは瞬時に受け取った。


 協議の間の準備が整うまで、アリスが隣の部屋でお茶を嗜む。アリスの優雅な振る舞いに、その場に居た全員が溜め息を零しそうになった。しかし、彼女は彼女なりに緊張していたのである。


 この国の妃となって1年は経ったものの、単独でどこかの長を訪問して謁見するのは、アリスにとってこれが初めてであるからだ。相手に舐められやしないか、こちらの聞きたいことを上手く引き出すことができるか、アリスは緊張していたのだ。


 アリスのティータイムが終わったタイミングで、協議の間へと誘導された。開かれた扉へ向かって進むと、協議の間にはすでに頭を垂れて待っている者たちが居る。彼女はゆっくりと用意された椅子へと進むと、それに浅く腰をかけた。頭を垂れている者たち3名と対峙する。


「面をあげよ。」


 協議の間に凛とした声が通る。その声は、張り詰めた空気を一直線に進み、この場で誰が一番上なのかを知らしめた。はじめにゆっくりと顔をあげたのは、3人の真ん中に鎮座する恰幅のある男だった。決してよい身なりとは言えないが、一張羅らしいことは誰からの目にも明らかだった。


 サル地区長らしきその男が頭を上げたのを見て、両脇に頭を垂れていた男たちも面を上げる。その男たちも一張羅であった。


「そなたが地区長にございますか?」

「はっ。王妃殿下に謁見賜り恐縮にございます。地区長をしておりますゴーチェ=オダンと申します。」


 アリスの思った通り、真ん中の男が地区長であった。サル地区の長ということから人相の悪い男が来るのではないかと思って居たが、ゴーチェからはそのようなものをまったく感じなかった。


 恰幅はあるが気の弱そうな目つきでどこかオドオドした雰囲気がある。なぜこの男が地区長を任されているのか、アリスはなんとなく分かった思いがした。これも、サル地区ならではのことであろう。


「この地区はできてからどのくらいになりましょうか?」

「は。まだ1年くらいでしょうか。」

「そうですか。まだ浅い地区ですね。なぜここができたのでしょうか。」

「は。私たちは元々、ここら一帯に広がっていた農村で農夫をしておりました。しかし、2年前に大規模な宿屋街の建設話が持ち上がり、あっという間に農村を追い出されてしまいました。それからの日々は地獄でした。住むところもないし、食べ物もない。それで私たち農夫は、繁華街の片隅でホームレスとなっていました。そこから少しずつ頑張って、農村を追い出された者たちで作ったのが、この地区です。ですからこの地区は、周りからサル地区と呼ばれております。」

「そうでしたか。この地区を主導的につくったのは地区長でしょうか?」

「え、ええ、まあ。ですから地区長をしております。」

「なるほど。」


 アリスはが片手で扇子をパンッと一振りすると、その音が協議の間に響いた。そんなに大きな音でもなかったが、張り詰めた室内にはよく音が通った。開いた扇子を口元に翳し、まっすぐにゴーチェを見据えるアリス。少し広いゴーチェの額には、きらきらと光るものが噴き出し始める。


 ゴーチェの両脇に居る男たちの顔にも、アリスは目線をやる。男たちは俯くばかりで、アリスと目を合わせようとはしなかった。何もやましいことがなければ、そのような態度をとる必要はないのである。


 開いていた扇子を、アリスは左手の掌に打ち付けると、乾いた音と共にそれは閉じた。「バルサン公爵」とアリスが呼ぶと、脇に控えていた彼が「は。」という返事と共に、地区長らとアリスの間の距離のところに身をすべらせると、跪いてアリスに頭を垂れる。


「あれを。」


 アリスの指示で、バルサン公爵は後ろに控えていた侍従に合図を出すと、彼は盆に乗せた何かを持ってきた。バルサン公爵はその盆に乗せられていた植物を取り出して、その場に居る者に見えやすいように掲げる。


「そなたたちは、これのことをよく知っておりますね?」


 アリスはあくまでも、淡々とした口調で言葉を紡いだ。3人の様子を見たかったからだ。ゴーチェはもう汗びっしょりであり、脇の男たちも目を泳がせている。


「け、芥子にございます。」

「ええ。そうですわね。」


 ただの芥子でこれだけ動揺するということは、悪いことをしている自覚がいくらかあるのであろう。元々、農夫たちである。植物のことが分からないわけはない。


「芥子は綺麗な花を咲かせますものね。わたくしも好きですわ。」

「は、はあ……。」

「地区長はどうです?芥子はお好きですか?」

「ええ、まあ……。」

「そうでしたか。わたくし、大好きですの。」


 アリスは大げさにそう言ってみせた。そして、ゴーチェの瞳をじっと見つめる。すると彼ははっと目を見開き、両脇の男たちの腕を両腕で小突いた。ゴーチェの合図で頷き合った男たちは、ゴーチェの小脇に置かれていた包みを広げ、そこから巾着を取り出した。


 ゴーチェはその巾着を男たちから受け取ると、跪いていた場所から一歩前へと進みだし、またそこで跪いた。そして「これをお納めください。」と言いながら、巾着を両手で掲げて頭を下げる。


 協議の間には静寂が走る。アリスがバルサン公爵を一瞥すると、彼は意をくみ取ってゴーチェの前まで進むと、その巾着を受け取った。踵を返してアリスの前に進み出ると、跪いてそれをアリスに献上した。


 巾着を受け取ったアリスは中身を確認する。彼女の思った通り、巾着の中身は黒褐色の粉末のようなものが入っていた。この地区に足を踏み入れてから感じている臭いと同じ香りもする。


「……これをそなたたちが?」

「はい。上質なものを精製しております。」


 ゴーチェの回答に、アリスは「なるほど。」と答えた。


「これの作り方は誰に?」

「……農夫時代からちょこちょこと作っておりました。」

「なるほど。今はどこに納めておられますの?」

「……新しくできた宿屋街の宿に。」

「他には?」

「いえ。宿屋街を治めている自治会長にすべてお任せしております。」

「なるほど。」


 暫時、静寂が流れる。先ほどまで汗びっしょりだったゴーチェの瞳は、いつの間にか期待に満ち溢れていた。


「ではこれを証拠品として押収いたします。」


 ゴーチェらが「えっ。」と声を上げて間もなく、騎士たちが彼らを捕らえる。訳の分からないという顔をしているゴーチェらだったが、そんなことはお構いなしに両脇を抱えられている。もう少し暴れるかと予想されていたが、ゴーチェらはただただ説明を求めているという顔をしていた。


 そんな彼らを見て、アリスはバルサン公爵へと目配せをする。ここから先は任せるという合図だ。それに御意を示したバルサン公爵は、ゴーチェらに向き直って咳払いをした。


「そなたらを、人を幻惑させるアヘンを精製した罪でひっ捕らえる。」

「え?!」

「王妃殿下もお好きと仰せになられたではないですか!!!」

「これだけのものを献上しましたのに!!!」


 バルサン公爵から罪を告げられると、ゴーチェらは騒ぎ立て始めた。


「ええい、うるさい。王妃殿下がいつアヘンを好きだと仰せになられたか。芥子の花が好きだと仰せになられただけだぞ。」


 ゴーチェら以上に大きな声を出したのはバルサン公爵だった。彼の大声を聞いたのはこれが初めてだったアリスは、少し肩を震わせて驚いてしまった。そんな姿を誰かに見られていなかったかと視線を動かすと、セリアとしっかり目が合ってしまい、アリスは少しバツが悪くなった。


「不法なもので生計を立てているこの地区を、正式な地区として認めるわけにいきませぬ。サル地区の解体をここに決定する。」


 バルサン公爵からの宣言に、ゴーチェらの身体は硬直した。まさか、地区の解体まで決定されると思わなかったらしく、情報の処理に追いついていない。ただ茫然とする彼らを、騎士らは抱えるようにして連行する。


 その姿をアリスは目を細めながら見つめた。本当ならば、こんな光景を見たくないと思ってサル地区にやってきた。ここにやってくる前にバルサン公爵と打ち合わせをした通りにことが運ばれた。もしアヘンを精製している噂が本当であれば、サル地区は解体するということを決定していた。


 サル地区の解体に最後まで反対したのは、バルサン公爵だった。しかし、アリスはそこを頑として譲らなかった。アヘンの精製だけを取り上げたとしても、今度はそこに暮らしている人が行き詰ってしまう。それならば一度、国からの手を加えることによって、民の暮らしを確保したいとするのが、アリスの希望だったのだ。


 アリスにとっては、このサル地区で暮らす人々も大事な民なのである。人は宝である。ここで生まれ育った子供たちが、ここで暮らす大人たちが、未来に希望を抱けるように手を差し伸べることで、それが国の財産になると信じているのである。


「……ここからは王妃殿下の手腕ですからね。」

「分かっております。」


 オラール侯爵領を任されたときから、いつかは自分の全責任でやらねばならない日がくることは分かっていた。ただ今まで通り運営して次の領主を選定して任せてしまえば、自分はきっと楽だっただろうとアリスは思う。しかしそうしなかったのは、なによりも民に幸せになってほしいからである。


「では後の事はわたくしの方にお任せいただき、共に国営ファームの建設予定地へとまいりましょう。」

「ええ。」


 アリス達は休む間もなく、公民館を後にした。






 一方その頃、レイモン一行は馬車に揺られて順調に国営ファーム建設予定地へと到着していた。


「それにしても、国王陛下と王妃殿下は本当に熱愛されているのだろうか。」


 馬車にはレイモンが連れてきたお付きしか居ないせいか、彼は本音を隠そうとしなかった。王城内では、国王夫妻が熱愛されているとする派と、御子ができていないことを証拠にあれは演技なのだとする派に分かれていることは、レイモンの耳にも入っていたのである。


「しかし、今朝の熱愛ぶりを見ますと、本当なのではないでしょうか。」


 レイモンにそう答えたのは、レイモンの侍従であり乳兄弟であるコンスタンである。コンスタンはレイモンにとって本音を話せる唯一の存在なのだ。


「まあ、あれはなあ……。しかし、熱愛が本当ならば、あんなに見せつけるようにしなくても良いのではないか?」


 馬車の中で頭を抱えるレイモンに、コンスタンはかける言葉が見つからなかった。国王夫妻の熱愛ぶりを目の当たりにして、レイモンは確実に胸を痛めているのである。コンスタンは、それはレイモンが抱くべき感情ではないと知りつつも、どうしてもレイモンの味方になってしまう質を捨てきれないでいた。


「……ひょっとしたら、皆の前で見せつけなければいけない何かがあるのかもしれませんね。」


 コンスタンのその言葉に、レイモンは満足そうな表情で顔をあげた。そのエメラルドの瞳は、先ほどとは打って変わって希望に満ち溢れている。


「お前もそう思うか?!一目見たときから、私も感じていたのだよ。国王陛下はおそらく、王妃殿下のことを駒としか見ていない。それなのに、王妃殿下は辛い片思いをされているのだ。私だったら、王妃殿下にそんな思いをさせないのに……。」

「……そういえば、これは噂なのですが……。」

「なんだ?言ってみろ。」

「どうやら、ヴィクトル国王陛下が側妃を娶られるのではという話が出ておりまして。」

「なに?!」

「国王夫妻に御子ができていないということは、同衾もされていないことでしょう。ということは……。」

「そんなの、王妃殿下があまりにも可哀想ではないか!」


 レイモンは声を荒げた。そして、揺れる馬車の中で立ち上がりそうになったため、コンスタンが慌ててそれを押さえつけた。一瞬だけぐらついた馬車に、御者の慌てた声が聞こえる。すぐに馬車は立て直したが、レイモンは申し訳ない顔をする。


「落ち着いてください、殿下。」

「あ、ああ。すまない。しかし、王妃殿下が不憫すぎる……。」

「そうではありますが、御子ができないのであれば仕方のないことであります。御子を残すのが一国の主の役目でありますから。」

「それは分かっている。分かっているが……。アリス王妃殿下は、そんなに無下に扱われて良い人ではない。聡明で美しくてまさしくヴィーナスだ。そのヴィーナスに御子が宿らないということは、国王陛下とは縁がないということではなかろうか?」


 コンスタンは思わず身震いした。それはどういう意味かと問うのが怖い。自分の主が何を考えているのかなんて、コンスタンには手に取るように分かってしまう。


「いや、しかし。王妃殿下のお役目は御子を産み落とされることだけではございません。外交やあらゆる諸問題について素養がある者が選ばれるものです。ですから、王妃殿下に御子が居ないからといって、その地位が脅かされるものでもありませんよ。」


 どこの王国でも、正妃と側妃は明確に線引きされる。国王も人間であるがゆえに、正妃よりも側妃に心を奪われるということはあったとしても、だからといって正妃の役目を側妃が果たすことはない。王妃と呼ばれるのも、正妃だけである。例え、お世継ぎが側妃の御子であったとしても、正妃の地位は尊重されることがほとんどだ。


「しかし、争いは絶えぬではないか。」


 レイモンは自国のことを言っていた。第1王子であり王太子であるレイモンの兄は正妃の子であるが、レイモンは側妃の子である。正妃の御子が王太子と傍から見れば諍いを最小限に抑えたように見えるが、後宮の現実はそうではないことをレイモンはよく知っている。


 望まれた順番通りに御子が生まれたとしても、後宮の諍いは留まるところを知らない。それゆえレイモンは、例え王妃であったとしても、側妃との争いにアリスが巻き込まれることを危惧しているのである。


「アリス王妃殿下は、一番に愛されなければならない御方だ……。」


 力のないレイモンのつぶやきに、コンスタンは心を痛めた。なぜ自分の主がこんなにも切ない片思いをしなければいけないのだ。どうすれば我が主をこの苦しみから救い出すことができるのか。


 コンスタンの頭の中はそのことばかりが占めていた。

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