第5話 歓迎の夜会
チコリー村の人々は、村の水が乾かないうちに村へと帰った。水が乾いてしまった後だと、粉塵を吸い込んでしまうだけでなく、泥が固まって作業が大変になるからだ。村の復旧までしばらく、騎士団も派遣されることになった。
あれだけの大雨が降ったにも関わらず、氾濫したのがフラン川だけだったのが幸いだった。どうやら、大雨が降ったのは王都付近だけだったらしい。それもあって、災害派遣も王都近郊だけで済み、マクシミリアンも次の日には災害本部の責任者を解除された。
ラクール王国の一行が到着して5日が経ち、ようやく彼らを歓迎する夜会が開かれることになった。それゆえ、今朝から王城はたくさんの足音が聞こえる。アリスはその足音を耳にしながら、アリスの畑へとやってきていた。
今日のアリスの畑を当番しているのは、フィリップだった。
「ごきげんよう、フィリップ。エミリーは元気かしら?」
「ご機嫌麗しゅう、王妃殿下。はい。妻は元気に過ごしております。」
3ヶ月前、フィリップはエミリーと婚姻を果たし、エミリーはアリス付の女官から外れていた。エミリーと手紙のやりとりはしているものの、アリスはあえてエミリーのことを聞いた。
フィリップと幼馴染のアリスではあるが、もしこの夫婦になにかあれば、自分は絶対にエミリーの味方になろうと決めている。
「それはよかったわ。今日も畑の状態を確認しますから、お手伝いしてくださいましね。」
「は。」
頭を下げたフィリップにウインクを飛ばし、アリスは屈んで畑の畝を確認していく。カボチャやニンジン、ジャガイモ等がもうすぐ収穫できそうだ。――これなら収穫祭にも問題ないわね。
口端を緩ませながら畑の手入れをしていると、足元に大きな影が落ちた。雲一つない青空の下で何事かと思いアリスが顔をあげると、そこには日傘をかざして立つ銀髪の貴公子が居た。深緑の瞳は、アリスの双眸を真っ直ぐ捉える。
「レ、レイモン殿下!」
一瞬、時が止まったかのようだったが、アリスはすぐに気を取り直して土埃を払いながら立ち上がった。しかし、慌てたために畝に足をとられる。
「きゃ!」
――倒れる!そう思ったはずなのに、アリスの身体が畑に突っ込むことはなかった。
「失礼しました、王妃殿下。御怪我はないですか?」
銀髪の貴公子の逞しい腕1本が、アリスの身体を支えてくれていたのだ。羞恥が込み上げるアリスは、「お見苦しいところを……。」と言いながら、レイモンの腕から身体を離した。
「驚かせて申し訳ございません。あちらを通りかかったところ、王妃殿下のお姿が見えまして。帽子を被られているのは分かっては居たのですが、それじゃあ日に焼けてしまうのではと心配になりまして。」
レイモンは王城の渡り廊下を指さしながら、そう言った。
隣国の王妃たる者が、まさか畑仕事をするなど夢にも思わなかったのだろう。畑用のドレスであるとはいえ、アリスのこの姿を見たことがない者は、「ドレスで畑に?!」と驚くのは当たり前のことだった。
「こちらこそ、レイモン殿下をお迎えしている時にも関わらず、なんの説明もなしに日常通りに過ごしてしまいし失礼しました。ここはわたくしの研究のために使っている畑なのです。なので、できるときはわたくしが自分で手入れも行いますし、城の皆もそれが暗黙の了解なのです。」
初めて王城勤務となる者たちの反応を見るのが楽しみだというのは言わないことにした。アリスが畑仕事をしていることを知らない者は、皆慌てて駆け寄ってくるのだ。
「そうでしたか。何も存じ上げず、申し訳ございません。研究ということは、農業の研究をなさっておられるのですか?」
「ええ。昔から土いじりが好きですの。論文もいくつか出しております。よかったら、王城の図書室にもわたくしの論文がありますので、お暇なときにでも。」
「そうですか。大変興味深いので、ぜひ拝読いたします。……実はわたくしも農業に興味がありまして。王妃殿下さえよければ、このまま見学してもよろしいでしょうか。力仕事があれば、なんなりと申し付けてください。」
「まあ。見学はご自由にしていただいて構いませんわ。でも力仕事はそこに居る騎士に頼みますから、どうか木陰で腰をおろして見学くださいな。」
アリスがそう言ったものの、レイモンは結局アリスの側を離れずに見学をした。アリスとしては、知らない者に畑を荒らされるのではとひやひやしながらの作業になったため、いつも以上に神経を使うこととなり、疲れてしまった。
「お姉様!!!」
夜会の準備をしていると、アリスの部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。先触れもなしに慌ててやってきて、アリスのことを「お姉様」と慕う人物は一人しかいない。
「まあ、マリー様。どうなさったの?」
マリーの後ろからは角の生えたセリアが、「マリー殿下、きちんと先触れを出していただかないと困ります!」と話しているが、彼女はどこ吹く風だ。その後ろからついてきているマリーの侍女は青い顔をして頭を下げている。
「お姉様とレイモン殿下が畑で抱き合っていたと城中の噂になっておりますわよ!本当ですの?」
そんなことを言いながら、マリーはごく自然にアリスの居間のソファーへと腰掛けた。アリスはその隣のソファーに座って、目の前のテーブルに並べられた髪飾りや首飾りを選んでいる。ちょうど、夜会で着ける装飾品を選んでいるところだったのだ。
マリーの口から聞き捨てならない台詞が聞こえたが、「そうか。今日は夜会でいつもより多くの貴族が城に居るもんだから、あの場面を見た方がいらしたのね」とアリスは心の中で思うだけだった。
「それに、わたくしとレイモン殿下が婚約するのではという噂も流れておりますし……。」
もしマリーがうさぎだったら、その耳が垂れ下がっているであろう。アリスはそんなことを考えながら、マリーの顔を見た。
「マリー様。」
「はい。」
「レイモン殿下と御婚約されるかどうかは、最終的には陛下がお決めになることです。」
「分かっておりますわ。でも……。」
それでも嫌だという気持ちは、アリスには痛いほどよく分かった。
「……きっと、陛下もエミール閣下も、マリー様とレイモン殿下の婚約なんてされるはずございませんわ。」
「……分かっております。それに、国のためになるのでしたら、わたくしはいくらでもこの身を捧げるつもりです。しかし、ラクール王国第2王子とわたくしが婚約しても、パストゥールにはなんの利にもなりません。しかし、きっと、わたくしがまだ輿入れをしていないことをいいことに、“年増女をもらってやるからパストゥールからの援助を要請する”なんてことを言われたに決まっておりますもの。」
「そうですわね……。きっとマリー様の御見立が正解だと思いますわ。そして、マリー様とレイモン殿下の婚約の噂を流しているのは、ラクール御一行かもしくはラクール王国と懇意にしている貴族のどなたかでしょうね。」
「お姉様もそう思われますか。特に革新派はわたくしのことが邪魔で仕方ないようですわ。革新派の方々は最近、クロードお兄様にお見合いを申し込みされているそうですの。」
「それって……。」
アリスの眉間に皺が寄った。彼女が皆まで言う前に、マリーが深く頷く。
「陛下に御子ができなかった場合には、クロードお兄様が世継ぎになられますもの。それを狙ってのことだと思いますわ。」
やはり、とアリスは思った。しかし、ヴィクトルに御子ができない限り、クロードはそう簡単に婚約をすることはない。それだけが救いだが、アリスが懐妊をするかどうかがこの国の未来を左右するのかと思うと、肩の荷が重く感じた。
「……やはりわたくしから、側妃を娶るように陛下へ進言すべきでしょうね……。」
つい、ぽろりとそんな言葉が漏れてしまった。アリスはまさか自分の口から洩れたとは思わず、急いで口元を両手で覆ったものの、それは時すでに遅しだった。
目の前には、ウエーブの金髪をすべて逆立ちさせているような形相のマリーが居た。寒くもないのに、彼女はわなわなと震えている。
「お姉様!そんなこと、陛下は喜びません!」
「……分かっております。しかし、陛下とわたくしが第一にすべきは国の未来を考えること。御子ができなければ致し方ないことですわ。」
「でも!」
マリーはまだ何か言いたげだったが、それ以上は口を噤んだ。王族としての矜持が彼女にもあるからだ。惚れた腫れたが通用する世界ではない。好きな人の元に嫁ぐことができて、そしてその相手からも愛してもらえて、これ以上何を望むというのだろうとアリスは常々思っている。
「あと半年……。あと半年待って御子ができなければ、陛下には側妃を娶っていただこうと思います。」
明確な期間を提示したのは、これが初めてだった。
王城に松明が灯ると、軽やかな音楽と煌びやかな人々が集ってきた。今日の夜会にはパストゥール王国のほとんどの貴族を招待している。招待した全員が参加するわけではないが、これラクールとの繋がりを持つ絶好の機会とばかりに、多くの招待客が集まった。
目玉であるレイモンが大広間へと入場すると、場内はわっと歓声があがった。銀髪の貴公子の見目麗しさにご夫人方は溜め息を漏らし、凛々しい佇まいに殿方からは感嘆の声が漏れたのだ。
そしてなにより、レイモンが連れているパートナーに視線が集まる。「これは良い報せがすぐにやってくる」という期待の眼差しに、彼女は今にも逃げ出したかった。レイモンが手をとってやってきたのは、他の誰でもなくマリーだった。
マリーはその微笑みを崩さなかったが、腹の中では腸が煮えくり返る思いだった。なんと、夜会前にレイモンから一緒に大広間へと入場する誘いがあったのだ。
元々マリーは、クロードと一緒に入場しようと考えていた。王族に関わらず、未婚の女性が夜会へと参加するときは、親兄弟と連れ立つのも珍しくはない。しかし、誘いがあれば別の話である。
マリーには、レイモンからの誘いを断る理由がなかった。断る理由がないとなると、パストゥール王国とラクール王国の友好関係のことを思うと、断るわけにはいかなくなる。そういうわけで、マリーは仕方なくレイモンとともに大広間へと入場することになったのだ。
レイモンは今回の夜会の主賓だ。マリーと共に前に用意された椅子へと着席する。それを見計らったタイミングで、「国王陛下ご夫妻の入場です!」という掛け声があがると、ファンファーレが響き渡った。
国王陛下夫妻しか通ることの許されていない重厚な扉が開くと、これまでざわついていた場内もぴんと張り詰めた空気へと様変わりし、皆が頭を垂れる。国王が王妃をエスコートしながら入場すると、二人は玉座と王妃の座へと着席した。
「面をあげよ。」
ヴィクトルがそう発してようやく、参加者が顔を上げる。それは、王弟王妹、そして隣国の王子も同じだ。
「本日はラクール王国第2王子であらせるレイモン殿下の歓迎の夜会である。皆、楽しむと良い。」
国王のその言葉が開会の合図となった。場内には楽し気なワルツが流れ始める。初めに舞踏を披露するのは、国王夫妻である。ヴィクトルはアリスの手をとる。そして、数段高くなっていた玉座から舞踏を披露する広間の中央へと降り、参加する皆の視線を集める。
アリスはそれが心地よかった。ヴィクトルは他の誰でもなく、アリスだけを見つめている。そして、アリスもヴィクトルだけを見つめている。こんなに大勢の人が居る中で、自分たちの瞳には自分たちしか映っていないことに、どこか胸のときめきを抑えられなかったのだ。
それはヴィクトルも同じような気持ちだった。こんなに綺麗な妻を自分だけが独り占めしていることに優越を感じているし、自分がどれほどアリスを愛しているのかを見せつけてやりたかったのだ。
なぜなら、ヴィクトルの耳にも「国王夫妻の御子はいつになったらできるのか」という声が届いていたからである。それでアリスが傷つかないはずなどないと思って居た。アリスが側妃を娶ってほしいと申し出るのも、時間の問題だと思って居た。
ヴィクトルだってそれは仕方のないことであると分かっている。しかし、自分がどれほどアリスに惚れているのかを大勢の人に見せつけることが、彼なりの悪あがきなのだ。自分とアリスの間には、誰にも付け入る隙がないのだと知らしめておきたかったのだ。
まるで金色の羽衣と銀色の羽衣が絡み合うような舞踏が終了すると、場内は拍手喝采が起きた。ヴィクトルとアリスはそれぞれ、騎士の礼と淑女の礼をとると、また玉座へと戻った。
少し情熱的に踊りすぎたせいで、アリスの額にはきらりと光るものがある。ヴィクトルはそれにすぐ気づき、「王妃に冷たいものを」とマクシミリアンに申し付けた。今日のマクシミリアンは、腹心の家臣としての夜会への参加である。
国王夫妻の舞踏が終わると、各々が好きなように舞踏を始めた。銀髪の貴公子は、マリーの手をとって広間の中央へと移動する。その様子を皆が見逃すはずがなかった。それはアリスも同じだった。
「アリス。」
「なんでしょうか、陛下。」
ヴィクトルがアリスを呼んだためそちらに視線を映すと、彼はレイモンとマリーから目を離さなかった。
「……貴女はどう思う?」
主語はなかったが、ヴィクトルの言いたいことは分かった。ラクール王国が大寒波で食物が取れていないことは、アリスのところにも伝え洩れていた。
「わたくしは、少々農業の技術をお教えするくらい、わけはないと思います。あちらの国にも尊い民がおりますもの。こちらが支援したとしても、それを未来永劫にできるとは限りません。でしたら、ご自分たちでできる方法を見つけていただく方が、どちらの国にとっても有益かと。」
「……そうか。」
「それに、農業の技術なんてそう簡単に盗めるものではございませんよ。土によって育つ作物も違いますし、天候にも左右されます。一朝一夕にいきません。こちらで育つものが、必ずしもあちらで育つというわけでもございませんし。最終的にはご自分たちで研究していただく必要がございます。そのヒントをお教えするだけかと思いますわ。」
「……。」
琥珀色の瞳は、やっとコバルトブルーの瞳を見つめた。ヴィクトルはまるで、アリスを品定めするかのように見つめる。オラール侯爵領のことも抱えながら、ラクール王国一行のことを任せても大丈夫なのかどうかをかんがえあぐねているのだ。
「陛下。わたくしなら大丈夫ですわ。エミール閣下と協力してやり遂げてみせます。ですから、ご決断を。」
コバルトブルーの瞳は、一切ひかなかった。大広間には楽し気な音が躍っているというのに、ヴィクトルとアリスの周りだけは鉛のような空気が漂っている。飲み物を準備してきたマクシミリアンも容易く近づけたものじゃなかった。
「……分かった。また正式に触れを出す。」
「承知いたしました。」
その空気を傍仕えの者たち以外に気付かれる前に、その会話はそれで終わった。たったそれだけで、アリスの足元にも弾んだ音楽が落ち始める。それを察知したマクシミリアンは、そっとアリスに冷たい水を渡した。
「お兄様は踊られませんの?」
軽口を叩くアリスに、マクシミリアンは一瞬だけ口端が引き攣りそうになりながらも、すぐに笑顔を張り付ける。実の妹ながら、もう立派な王妃になってしまった彼女に、なんとも言えない渦がマクシミリアンの心を揺すった。
「……本日は陛下の傍仕えが任務でございますので。」
わざとのように恭しく接するマクシミリアンに、アリスは噴き出しそうになった。アリスが軽口を叩いたのも、今しがた大広間でドリアーヌがフィリップと踊りを披露していたからだ。
フィリップとアリスが幼馴染ということは、ドリアーヌとフィリップも幼馴染ということになる。今日のフィリップは非番であるため、デュモン伯爵の名代として妻であるエミリーと共に夜会へと参加していたのだ。
懐妊中のドリアーヌが躍っているのだから、マクシミリアンは気がかりで仕方がなかったであろう。当のドリアーヌは、まだお腹が出る時期ではないとはいえ、悪阻もそこまでひどいものではないのか、夜会を大いに楽しんでいる様子だ。
「お兄様。」
アリスはそう言いながら、扇子をかざしてマクシミリアンを手招きした。それは、内緒話をしたいという合図だった。マクシミリアンは仕方なく、アリスの膝元へと傅き、「なんでしょうか。」と御用聞きの姿勢をとる。
「あまり、わたくしと陛下の仲の間に入っておりますと、陛下に意地悪されますわよ。」
「な……!」
マクシミリアンが傅いた姿勢のまま後ろへとよろけると、アリスは蝶が舞ったかのように小さく笑い声をあげた。そして、そのアリスの肩越しには、ヴィクトルがマクシミリアンへとピースサインを飛ばしていた。
思わず大きな声をあげそうになったマクシミリアンだったが、そこは夜会であることを念頭に置いてぐっと堪えた。マクシミリアンにとって国王夫妻は、自分が忠誠を誓う存在でありつつ、茶目っ気たっぷりの妹夫婦である。本当に厄介な人が妹の旦那になったものだとこの時ばかりは大きな溜め息を吐いた。
彼らがそうこうしているうちに、銀髪の貴公子と金髪のウエーブ髪の乙女は、大広間を湧かせていた。さすが舞踏の心得のある二人である。息の合った踊りに、マリーはすっかりと楽しんでしまっていた。
「レイモン殿下は、踊りがお上手ですね。」
「マリー殿下こそ。お好きなのですか?」
「ええ。嗜む程度ではございますが、音楽が好きですの。殿下は?」
「わたくしも楽し気なことが好きです。」
レイモンとマリーは、踊りながら話をしていた。お互いのことを少しは知りたいと思っているものの、二人で夜会を抜けて話をすると、あっという間によくない噂が立つことも知っているからだ。
「そうですか。では今夜はどうぞ心行くまでお楽しみください。」
「わたくしのための歓迎会、心より感謝申し上げます。」
レイモンがマリーの身体をくるりと回転させると、マリーはそれに合わせてステップを踏む。それはまるで、番の小鳥が空を舞うかのようだった。
彼らは共に舞踏をすることで、お互いの人となりを確認し合っていた。傍から見るとそれは、より仲が深まっているようにしか見えなかった。その様子を、何とも言えない気持ちで見ている紳士が居たとも気づかないままだった。
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