第4話 ラクール王国第2王子

 まだ昼間だというのに、城内には明かりが灯された。外は雷鳴が轟いており、窓に打ち付ける水滴が足元を濡らす。こんな風に雨が降る日は、王城内がどこか忙しい雰囲気となるところが、それ以上に王城で働く者たちが気を急かしていた。


 その理由は、今日がラクール王国第2王子を迎える日であったからだ。ただでさえ城で行き交う人数が増えるというのに、この土砂降りである。ヴィクトルをはじめとする諸大臣や政務官方々は、大雨による被害が最小限となるように指揮をとらねばならなかった。


 慌ただしい城内を横目に、アリスは書斎で本を読んでいた。アリスが動くとそこに人員がとられてしまうため、できるだけ他のことに人員を割けるようにとの彼女なりの気遣いだった。


 アリス付の侍女や女官が他の仕事を手伝わされることはほぼないのだが、今日はラクール王国第2王子を出迎えるための謁見の間での式典がある。そして、明日にはヴィクトル主催の歓迎の夜会もある。そうなると、準備をしなければならないことが山ほどあるのだ。


 ここ数日間は、アリスもアリスの侍女もラクール王国第2王子を出迎えるための準備に忙しかったため、「明日の夜会が終わったら何か労いをしなければいけないわね」とアリスは考えていた。


 しかし、止みそうにない雨が降り続いている。書斎に並ぶ本も湿気を感じる。本独特の湿気の匂いもアリスは嫌いではないが、これだけ雨が降るとラクール王国一行は無事に王城へとたどり着くことができるだろうかと心配になる。


「使者でも先に着かれたら良いのだけれど、この雨じゃ早馬も危険ね。」


 誰に言うわけでもないアリスの言葉は、書斎にぽつんと取り残されたような響きになった。






 一方その頃ヴィクトルは、各種の対応に追われていた。大雨が降れば治水に弱い地域や山間部に被害があるのは常のことだ。それゆえ、忙しくなるのは当たり前のことではあったが、ラクール王国の使者が到着していないことによって、さらに議会は混乱していた。


 通常、国賓を迎える際には、使者が先にやってきてあとどれくらいで到着する旨を伝えるものだ。ところが今回、2日前に到着した使者を最後に、状況を伝える使者がやってきていない。これはもう、何かあったと勘繰るしかない状況であった。


 ヴィクトルとエミールは、パストゥール国内の被災状況を予想しながらも、ラクール王国一行に対してもどう対応するかに追われていた。王都近くで起こった被災についてはすでに騎士を派遣している。


「まず、ラクール王国一行がどこまで進まれているかにもよりますね。」

「ああ。それさえ分かれば応援を直ちに出せるのだが……。」


 評議の間では緊急の議会が開催されており、主要な関係者も招集されている。「うーん」とうねりながら主に話をしているのは、ヴィクトルとエミールだった。腹心の家臣であるマクシミリアンは災害本部の責任者となっているため、王城ではなく王都近くの災害現場に出向いている。


「3日前に峠を越えられて、順調に行けば今日王都への川を越えるところだったということですよね。」


 エミールが2日前に到着した使者に確認をしながら、地図に書き込みをしていく。ラクール王国との国境からパストゥールの王城まで、3つの峠と7つの川を越えなければならない。ラクール王国一行は、王都に入る最後の峠は越えており、今日は最後の川であるフラン川を渡る予定だった。


「雨が降り始めたのが昨夜だから、この辺りで足止めを食っている可能性が高いな。」


 ヴィクトルが地図にマークを入れる。そこは、王都までしばらく村もなにもないところだった。延々と道が続いており、雨を凌げる場所も少ない。森が点在している地帯だが、ラクール王国一行の大所帯となると、凌げているかも微妙なところだ。


「でしたら、騎士をその一帯に派遣されてはどうですか?」


 その発案をしたのは、マルロー侯爵だった。ヴィクトルは腹の中で「農政大臣のくせに何を言ってるんだ」と怒りを沸かしたが、表面に出すのを堪えた。


「……一行がフラン川を越えてくださっていれば騎士を派遣する意味もありますが、そうでない場合には騎士の命を危険にさらすことになります。」


 この大雨では、フラン川を越えているかどうか確認に行かせるのも危ない。


「もし騎士たちを行かせるとしたら、フラン川の手前にある森までです。それ以上になると、氾濫に巻き込まれる恐れがあるでしょう。」


 エミールが地図を指し示しながら、皆に聞こえるように言った。すると、評議の間はしんと静まり返る。誰も意見を持たないのだ。


「議会中失礼します!」


 意見の纏まらない評議の間に、ずぶ濡れになった騎士が飛び込んできた。早馬で駆けてきたらしく、ずぶ濡れのうえ泥だらけだった。


「フラン川が氾濫したと!」

「なに?!」


 評議の間は騒然となった。あわあわとしだす者や、平静を装っているものの腕組みをして口をもごもごさせる者も居る。「こんなときにまったく」と舌打ちをしたのは、外交大臣のフェドー侯爵だった。ラクール王国一行が川の氾濫に巻き込まれたのなれば、外交問題に発展するおそれがある。


 ざわつく評議の間の中で冷静だったのは、ヴィクトルとエミールだった。


「フラン川のどのあたりが氾濫したのだ?」

「フラン川流域のチコリー村周辺です。」

「被害は?」

「村はほぼ水没しているようです。」

「なに?!」


 騎士の言葉に、評議の間は喧騒に包まれた。ヴィクトルは「くそっ!」と声を荒げて拳を机に振り落とした。村が水没したということは、そこに住んでいる農民の命もほぼダメだったと考えられる。


「チコリー村周辺となると、ラクール王国一行は……。」


 エミールはその続きを紡ぐ言葉を失った。言えるはずがない。王城へ向かうフラン川を越える橋は、まさしくチコリー村付近にあるからだ。


 今度は、誰も言葉を発しない思い空気が評議の間を支配した。事実を確認しようにも、この大雨の中で騎士を向かわせるわけにもいかない。


「……私たちは黙って雨が止むのを待つしかない。雨が止んだらすぐに騎士を派遣できるように準備を。」

「は!」


 ヴィクトルは評議の間から見える西の空を見つめた。まだ稲妻が走り、黒い雲がこちらへと押し寄せている。――まだしばらく天気が変わることはないか。


 彼はつきそうになった溜め息をぐっと堪えて、静かに拳を握った。激しい雨はその夜まで続き、ヴィクトルが寝台へと身体を滑らせたのは、日付もとうに越えた時刻だった。






 昨日の雨はなんだったのかというほど、清新な空気が空を包んでいる。濡れた草木は山の端から差す光に照らされて、それはまるで真珠の髪飾りのようだった。アリスは、寝室の空気の入れ替えをしようとカーテンと窓をぱっと開けた。


 今日はいつもより早く目覚めたアリスだったが、そこにはすでにヴィクトルの姿はなかった。アリスが寝台に着いてから随分後にヴィクトルが潜り込んできたことは寝ぼけ眼ながら知っていたが、彼が起きた時間は知らない。


 夜明けとともに騎士をチコリー村に派遣しなければいけなかったからだと分かってはいるものの、ヴィクトルの身体のことが心配になる。ただでさえパストゥール王国のすべてがヴィクトルの双肩にかかっている。


 そしてアリスは、チコリー村の民のことを思うと、胸が張り裂けそうだった。王城から近い農村であることもあり、アリスはよくチコリー村へと顔を出していた。村長だけではなく村民たちとも顔見知りであった。1年前のレルカン国残党との戦いのときも、根菜を沢山分けてくれた村の1つである。


 その村が水没したなど、アリスには信じがたい出来事だった。チコリー村の被災を聞いたときは、目の前が真っ暗になることを初めて経験した。ただ頑張ってそこに住んでいる人たちが、一瞬にして居なくなる恐怖がアリスを襲ったのだ。


「どうか皆が無事でありますように……。」


 アリスは黎明をもたらす旭光に向かって祈ることしかできなかった。


 それから侍女のアンナに手伝ってもらって身支度を終えたアリスは、朝食をとるために食事室へと向かった。対面の席は空席である。


「陛下はすでに公務に着いておられます。」


 そう言って頭を下げたのはヴィクトルの侍従だった。本当ならば、クロードもしくはマクシミリアンをアリスの側に着かせたいところだったろうが、生憎の災害で二人とも出払っている。ヴィクトルなりの気遣いにアリスは目を細めた。


 そして、椅子へと着席すると、テーブルの上に小さなカードが置いてあるのが目に飛び込んできた。


「これは陛下から?」


 アリスが尋ねると、侍従は黙って頷いた。それを確認すると、二つ折りにしてあるカードをそっと開く。そこには愛しい文字が連なっていた。


「どこまでも陛下はわたくしのことを気遣ってくださいますのね。」


 アリスは口元を緩めながら、そこに書かれた文字を指でなぞる。そうすることで、ヴィクトルの心に少しだけ触れた気がするのだ。彼女は今、ヴィクトルの身体やチコリー村、また国民のことが心配でならない。


 しかし、それ以上に。パストゥール王国のすべての民のことを心配しているのは、他の誰でもなくヴィクトルだったのだ。手紙には、“愛しい君と、愛しい民のために”と書かれていた。


 アリスは朝食を終えると、時間を持て余した。こういうときに、自分にできることがないと手持無沙汰になる。そういうわけでアリスは、関係各所への差し入れの準備を厨房に言いつけて、自分は執務室に籠って手紙を書いた。


 騎士団や災害本部、評議の間の面々へと、1秒でも早い復旧という願いを込めながら、感謝の気持ちを綴った。こんなことくらいしかできない自分を情けなく思う瞬間がありながらも、今はぐっと堪えて尽力してくれるすべての人たちへの労いの言葉を紡いだのだった。


 そうしてアリスが執務机にかかりきりになっていると、どこからか騒がしい声が響いてきた。初めは怒号でも飛び交っているのかと心配になって執務室の扉を開けて、廊下で耳を澄ませてみると、どうやら弾んだ声がたくさん聞こえる。


 その瞬間、アリスは執務室を飛び出した。セリアが「王妃殿下?!」と驚いた声をアリスの背中にかけたが、彼女は振り返らなかった。仕方がないので、セリアも飛び出したアリスを駆け足で追う。


 輿入れしてからというものの、アリスがこうして王城内を駆けたことは、ただの一度もない。そんなアリスの姿にすれ違う家臣たちは、まるでドラゴンでも見たかのように目を見開く。


 アリスはそういう異様な視線に気づいてはいたものの、居ても立っても居られずに足を速くした。なりふり構って居られなかった。アリスが足を進めれば進めるほど、弾んだ声は大きく聞こえてくる。


 王城の馬車乗り場に到着すると、そこは大勢の人々で溢れていた。多くの騎士や侍女たちが忙しく動いているだけではなく、泥だらけになった面々が安堵したように座り込んでいた。ある者は子供を抱きかかえ、ある者は無事でよかったと抱き合っている。


「王妃殿下!」


 アリスが姿を現したことに気付いた子供の一人がそう声をあげた瞬間、一斉にその場に居た者たちの視線がアリスへと向けられた。そして、その場に居た人々はアリスに向かって傅く。コバルトブルーの瞳は、今にも洪水が溢れそうだ。


「……チコリー村の皆さん。よくぞご無事で。」


 そこに居た大勢の人々は、チコリー村の村人たちだった。アリスの前にゆっくりと、チコリー村の村長が歩を進めて、深く傅いた。


「王妃殿下直々のお出迎え、大変光栄に思います。」

「村長、顔をあげてくださいまし。よく生きて王城まできてくださいました。」


 アリスは傅いた村長の前で身をかがめながら右手をとると、それをそっと両手で包んだ。


「皆さん、大変だったでしょう。どうやってここまで?」

「ラクール王国の御一行様が助けてくださったのです。」

「え?ラクール王国の?」


 アリスは大きな瞳をさらに大きくさせて、じっくりと瞬きをした。まさかそこで、ラクール王国の一行が出てくるとは、思いもよらなかったからだ。


「アリス!」


 すると、背中から愛しい声がアリスの名を呼んだ。澄み切った空の下で、なんと爽快な声だろうとアリスは思う。振り向いたアリスは淑女の礼をとる。


「アリス。」

「陛下。」


 ヴィクトルはアリスに駆け寄り、その手をとった。そして、手の甲に口づけを落とす。


「チコリー村の皆、無事だったのですね。」

「ああ。ラクール王国の一行もだ。多少の怪我人は出たが、死人は出ていない。それもこれもラクール王国の一行のおかげだ。」


 ヴィクトルが振り返ると、そこには結わえた銀髪を靡かせる貴公子が立っていた。誰に名前を聞かぬとも、その者が誰なのか明白である。ヴィクトルが握っているアリスの手を軽く挙げながら騎士の礼をとり、アリスはそれに合わせて淑女の礼をとる。


「こちら、わたくしの妻のアリス=パストゥールだ。」

「この度は、我が王国のチコリー村の村人を助けていただき、心から感謝いたします。」


 アリスたちの敬礼に、銀髪の貴公子も騎士の礼をとった。


「とんでもございません。ラクール王国からやって参りました、レイモン=ラクールにございます。これから半年間お世話になります。」

「こんなところではなんだから、また後で謁見の間に。その前に、湯浴みでもされるといい。たくさんの湯を準備している。」

「陛下のご厚意、感謝申し上げます。」


 ラクール王国の一行も随分と雨に濡れ、道なき道を歩いたのか、全員泥だらけだ。ヴィクトルの口ぶりからすると、チコリー村の村人も含めてすでに湯殿の準備をさせているようだ。さすが陛下だわ、とアリスは思った。


「ではアリス、行こうか。」

「はい。」


 ヴィクトルはアリスの手を握ったまま、王城の中へと歩を進める。ヴィクトルとアリスの背中には、「パストゥール王国万歳!国王陛下万歳!王妃殿下万歳!」というチコリー村の村人たちの弾む声が聞こえてきた。


「それで、どうしてラクール王国の一行がチコリー村の村人たちを?」


 アリスはなにがどうしてそうなったのかまだ掴めていなかったため、ヴィクトルがアリスを王妃室まで送っている中、尋ねた。


普段なら時間をとって話すレベルの内容ではあるが、災害の対応やラクール王国の一行の対応で、この後にそんな時間はとれないだろう。だからアリスは思いきって、歩きながら話を聞くことにした。


「どうやら、ラクール王国の一行は思ったよりも早く旅の行程を進めることができて、雨が降り始めたばかりの頃合いでフラン川を越えることができたらしい。」

「まあ、そうでしたか。」

「しかし、雨脚があまり良くなかったことから、道中のチコリー村に滞在させてもらったそうだ。その時に、フラン川の氾濫が起きたようでな。氾濫する前に避難した方が良いことをレイモン殿下が村長に進言してくれ、それで事なきを得たようだ。村長もラクール王国の一行が居なかったら、全員を高台に避難させることはできなかったと言っていた。」

「ラクール王国の一行は救世主だったのですね。」

「そうだな。」


 夫婦二人のひと時は短く、あっという間に王妃室へと到着してしまう。


「また準備が整った頃合いで迎えにくる。」


 この後はひとまず謁見の間で正式にラクール王国の一行を出迎えなければならない。


「かしこまりました。」

「では後で。」

「はい。」


 ヴィクトルは外套を翻して、彼の居室へと歩を進めた。その後ろから侍従がヴィクトルを追いかける。アリスはその背中が見えなくなるまで見送った。


「セリア。謁見の準備を。」

「承知いたしました。」

「そうだ。」

「なにか?」


 アリスはヴィクトルの目の下のクマが気になった。昨夜、彼が眠れていないことは、誰よりも彼女がよく分かっている。


「熱い湯で温めた布を持ってきてくれないかしら。後は、ローズマリーティーを準備して。」

「ローズマリーといいますと、ジェラルダン公爵ご夫人からいただいた?」

「ええ。お茶会のときにお土産でいただいたでしょう。お疲れの陛下にぴったりだと思うの。温めた布も陛下の目の下のクマを和らげてくれると思うわ。」

「承知いたしました。すぐに準備いたします。」

「お願いね。」


 ヴィクトルのことを思うと、「ジェラルダン公爵夫人のお茶会でローズマリーをいただいてよかったわ」と思った。ローズマリーはジェラルダン公爵領の名産なのだ。


 おそらくヴィクトルはアリスよりも早く準備を整え、王妃の居室の居間でお茶でも飲みながら待つことになる。その間だけでも、少し疲れがとれるようにとのアリスの愛情であった。


 セリアがヴィクトルのもてなしの準備をする間、アリスはアンナ、シュゼット、ソフィに着替えを手伝ってもらった。そうして着替えをしている間、「お兄様やクロード殿下にもなにか疲れのとれるものを差し入れしなければいけないわね」と考えていた。

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