コウノトリはまだか編

第1話 新婚夫婦

 月日は早いもので、アリスがヴィクトルの元へと輿入れしてから1年が経った。先日行われた国王陛下夫妻の結婚記念式では、王城のバルコニーで迎えた民の声援に、ヴィクトルもアリスもいつまでも応え続けた。民の溢れんばかりの歓声を耳にして、2人ともさらなる王国の発展を誓ったのも記憶に新しい。


 塵1つない真っ赤な絨毯の敷かれた廊下を、アリスはいつもより足音を大きくさせながら歩いていた。面には微笑みを携えており、そんなアリスの些細な心の変化に気付いているのは、アリスの身の回りの世話をする侍女たちだけだ。


 アリスは政務官方々との会議を終えたばかりで、奥へと下がっているところだ。アリスとすれ違う人々は、彼女が通り過ぎるまで頭を垂れている。アリスはその者たちへの敬意を忘れない。しかし、どうしても先ほどの会議を思い出せば出すほど、足音も大きくなるし、鼻息も荒くなるのだった。


「この王国の中でバルサン公爵閣下を言い負かすことができる方はいらっしゃるのかしら。」


 王宮のアリスの居室に着きソファーに腰をおろすと、アリスの口からはついそんな言葉が漏れた。ここには信頼のおける侍女以外は誰も居ない。だからこそ出たアリスの本心だった。


「セリア知ってる?陛下も閣下に言い負かされたお話。」

「陛下にもアリス様にもご遠慮されないのは、この国でバルサン公爵だけではないでしょうか。」

「まったくその通りなのよ。」


 空いた宰相の席に着いたのは、エミール=バルサンだった。3代前の王弟殿下の系譜で、年齢は32歳と若いながらもその能力の高さに、宰相へと抜擢された人物だ。年上の大臣もあっさりと手中に収めており、宰相の席についてから3ヶ月ほどで政務を握った。


 もちろん、最終的な判断を下すのはヴィクトルではあるが、それまでの宰相の承認の過程をエミールが正確にやってのけているのだ。だから生半可な提案では、宰相の承認をもらうことはできない。それが例えアリスであったとしても、だ。


 現在アリスは、オラール侯爵領の再建を任されている。雇用を生み出すために、そして潰してしまった農場分の食料を確保するために、アリスは日々試行錯誤をしていた。そのためにもここで、国営のファームを作りたいと申し出ているところだ。


 ところがこの国営ファームの建設にあたって、エミールからの待ったがかかった状態なのだ。国営ファームの必要性をもっと具体的に提案することはもちろんのこと、他の生産業との兼ね合いをどうするのか等、エミールから日々詰められている状態なのだ。


「しかし、バルサン公爵の仰せになることは、正論ばかりなのでしょう?」


 セリアの問いに、アリスは悔しくも首を縦に振るしかなかった。アリスとて、ただの思い付きで国営ファームを提案しているわけではない。そして農業研究者の1人として、その必要性を説明しているつもりだ。しかし、エミールは中々納得をしてくれない。


「農業の大切さも、閣下は分かってくださっているの。でもだからこそ、オラール侯爵領にある宿屋街はどうするのかということであったり、なぜオラール侯爵領に国営ファームが必要なのかということであったりをもっと詰める必要があるのよ。私が管轄している領地だからといって、好き勝手していいわけじゃないのよね。」


 現在、オラール侯爵領の主はいない。国に帰属しているためアリスが管轄しているだけであって、領主というわけではない。さらに言えば、新しい領主の選任はアリスに任されている。だからこそ、国営ファームの必要性を問われているのだ。


 アリスはふっと一息吐きながら、テーブルにセットされたチョコレートへと手を伸ばす。甘い口どけに脳までとろけて、疲れが抜き取られる感覚になる。チョコレートの甘さが残るうちに、温かい紅茶を流し込むと、甘さと渋さのマリアージュが心地よく感じられる。鼻から抜ける柑橘のような酸味のある香りも最高だ。


「ミシェル様からいただいたチョコレートは、いつ食べても美味しいわ。」


 サブレ王国に居る義姉は、定期的にアリスへチョコレートを送り届ける。サブレ王国は体制を立て直している途中とあって、ミシェルは王城を離れられない身となっていた。


 アリスも王妃という立場がある以上、よっぽどのことがない限りは王城を離れるわけにはいかない。そういうわけで、ミシェルとアリスは手紙や贈り物を届け合うことで交流を深めていたのだ。


 アリスはもう1つ、チョコレートを摘まむ。今度はすぐに口には入れず、それをじっと見つめた。こんなに美味しいものを食べられるのも、小作人たちが農業を守ってくれているからなのよね、と彼女は思った。すると、先ほどよりも鼻息を荒くし、それを勢いよく口に入れる。


「私にできることなら、絶対にやり遂げなきゃいけないわね。」


 エミールに滅多打ちにされて少ししょげていたアリスだったが、チョコレートを食べて思い直すことができた。アリスの侍女たちは、アリスのことを誰よりも分かっている。彼女の夫であるヴィクトルよりも、アリスの心の機微を読み取ることができるであろう。


「この後の予定はどうだったかしら?」

「お夕食までは何も。」

「そう。じゃあ、それまで書斎にこもるわ。」

「承知いたしました。」


 チョコレートと一緒に出されていたスコーンもしっかり食べ終えると、アリスは書斎へと向かった。エミールを納得させる作戦を練るためだ。また一から農業の論文を読み直すだけではなく、交通の要所であるオラール侯爵領のことを学び直すことにした。






 執務室でヴィクトルが書類を片付けていると、少し強めにその扉をノックする音が響いた。このノックの仕方は彼だと気づいたヴィクトルは、執務机から顔をあげずに「入れ」と返事をした。


 ヴィクトルの返事からすぐに扉が開かれ「お忙しいところ恐れ入ります。」と見なくても姿勢を正しているような声色がする。ヴィクトルがゆっくりと頭をあげると、そこには思った通り、エミールの姿があった。


 エミールは王族の系譜であるだけあって、目鼻立ちがはっきりした端正な顔立ちをしている。エミールの母は南の小国から公爵家に輿入れしたこともあり、エミールの顔立ちにはアグレッシブさを感じる。


 身長はヴィクトルと変わらないが、少しだけヴィクトルの方が大きく見える。それは、彼が日頃から剣の鍛錬を欠かさず、騎士と変わらない体つきをしているからだった。一方のエミールは文官として政務官として働いてきたため、多少の剣の心得はあっても得意なのは座学だ。


「どうした。」

「本日も王妃殿下より国営ファームのご提案がございました。」

「ああ。今日も閣下と喧嘩をすると言っていたな。」

「喧嘩なんてそんな……。」


 誰にでも言いたいことは言うエミールの恐縮した姿に、ヴィクトルは声をあげて笑った。言いたいことは言うが、エミールはヴィクトルにもアリスにも常に敬意を持っているのである。


「して、どうだった?」

「本日も却下を申し上げました。」


 エミールの答えに、ヴィクトルはさらに声をあげて笑った。アリスの提案書については、ヴィクトルも目を通している。普通の宰相閣下であれば、今の時点でOKを出しても問題のない内容だ。


「閣下はどこに疑問を感じているのだ?」

「以前から申している通り、ファーム建設は良い案だと思っております。わたくしが指摘しておりました、他の産業への影響やそこに生じる雇用についても、よく考えてらっしゃるかと思います。宿屋街についてはもう一歩でありますが……。ただどうしても、国営である必要性が伝わってこないのです。国営にするとなると、民よりいただいた税によって賄われることになります。であるならば、その必要性を明確にしないと税の正しい使い方とは言えないと思うのです。ただの箱物になってします。」

「そうだな。私もそう思う。閣下はどうするのが最善だと考えているのだ?」

「先に領主を選任するのが良いかと。いつまでもあのような交通の要所の領主を空席にする方が、民の生活も不安定になってしまいます。」

「それも一理あるな。」

「陛下はどうお考えで?」

「私は民が幸せになるのであれば、どちらでもいい。」

「またそんなことを仰せになられる。」


 エミールは眉を寄せた。しかしそれが、ヴィクトルの本心だった。どのような形をとったとしても、民が幸せになればそれで良いと思っているのだ。


「陛下は本当にこの国が良ければ良いというお方ですね。」

「いや。私は妻にメロメロなだけだ。」

「それはぜひ、わたくしではなく王妃殿下にお聞かせください。」

「寝台でよく言い聞かせることにするよ。」


 甘い物が苦手なエミールは、砂糖を口の中いっぱいに詰められたような胸やけを感じた。


「それはそうと、陛下も陛下の為すべきことをお願い致しますね。まだ、ラクール王国との交渉についての提案書に目を通されてないのではないですか?」


 エミールの指摘はヴィクトルの笑顔を引き攣らせるには十分だった。ラクール王国はパストゥール王国の北方に位置する国で、冬は厳しい寒さとなる。隣接国ゆえにどちらかといえば友好に接している国だ。


 しかしここのところ、ラクール王国に不穏な動きを感じている。昨年の大寒波でラクール王国は大打撃を受けているのだ。もし彼らが投げやりになってこちらに戦でも仕掛けてくるようなことがあれば、パストゥール王国にとっても大きな問題だ。これはヴィクトルにとって、頭の痛い話であった。だから少しだけ問題を考えるための時間が欲しかったのだ。


「……隣接国とはいえ、こちらも無償で支援するわけにはいかない。」

「だからこそ、マリー殿下との婚姻を向こうは提案してきているのでしょう。」


 エミールの言う通り、実はラクール王国の第2王子のところに、王妹殿下であるマリーに輿入れしてもらえないかという依頼があったのだ。そうすれば、パストゥール王国がラクール王国を助ける理由ができる。


「しかしマリーは……。」

「ですからまずは、あちらの第2王子にこちらへ留学という名目で来ていただき、そこから婚姻に頼らない交渉をしてもらってはどうかと提案書に記しております。」

「それもなあ……。あちらの第2王子は非常に優秀であると聞いているが、こちらの国の技術を盗まれるのも……。」


 そもそも、マリーの輿入れの相手に第2王子というのも気に食わない。こちらの援助が条件にも関わらず、自分たちの都合の良い条件だけをふっかけてきているのも、ヴィクトルにとって鼻持ちならないことだった。


「では無償で物資をお送りすれば良いではないですか。こちらに何かあったときに、あちらへの貸しになりますよ。」


 ヴィクトルは、エミールのという言葉に「うーん。」と唸り声を上げる。果たして貸しを作って、こちらに利となる国であるのかというと、それはNOに近い「ちょっとよく分からない」だ。民に納めてもらった貴重な税をちょっとよく分からないことに使うことはできない。


「……とりあえず、第2王子に来てもらうか……。」

「ではそのようにこちらで書状を作成させていただきます。」

「ああ。頼んだ。」


 エミールの前に、結局ヴィクトルが折れることになった。この男が宰相に着いてからというものの、前任者とは違った意味でヴィクトルの思い通りになったことは少ない。優秀な宰相はありがたいものの、彼を納得させるのは大仕事の1つだと感じている。






 夜になると、アリスはヴィクトルと晩餐をとった。お互いに忙しいこともあって、王城を出ていない限りは、一緒に食事をとるようにしている。


「今日はバルサン公爵との会議だったのだろう。どうだった?」


 結果は知っているものの、ヴィクトルはあえてアリスにそう尋ねた。アリスもヴィクトルが知っているだろうとは思っているものの、自分が思ったことを知って欲しいと思っているため、特にそこに触れずに今日あったことを伝える。


「閣下を口説き落とすには本当に大変ですわ。農政大臣の承諾があっても、必ず閣下で止まりますの。」

「彼は穴を見つけるのが得意だからなあ。私が許可を出したとしても、待ったがかかるだろうな。」

「まあ。最終手段はヴィクトル様を色仕掛けしようと考えておりましたのに。」

「だから私の意見も通らないのだろうな。」


 アリスとヴィクトルはそんな冗談を交わせるほど、エミールのことを好意的に思っている。アリスはクスクスと笑いながら、今日のメインディッシュである鴨肉の赤ワイン煮込みを口に運んだ。


「今日の鴨肉もうまいな。ジビエは処理が大変だろうに、臭みがないとはすごい。」

「お褒めに預かり光栄ですわ。ジビエに見識のある料理番を新しく雇ったのです。まだ見習いなのですが、ジビエの腕前は一流なので、味付けはシェフが行うことを条件として、その者にジビエの処理をしてもらったのです。今までと格段にお味が違いますよね。」

「ああ。ジビエは処理で味が決まるとは聞いていたが、こうも違うとは面白いな。」

「ええ。」


 食事のメニューを決めるのもアリスの仕事だ。だからヴィクトルが満足そうに食事を口に運ぶのは、見ていて高揚する。また明日も美味しいものを食べてもらおうと、アリスの満足に繋がる。


 喜ぶのはアリスだけではない。料理を作ったシェフはもちろんのこと、「陛下にもっと美味しいものを食べてもらおう」と誰かが動くことは、雇用や経済に繋がり国の発展につながるのだ。


 2人はデザートまでしっかり楽しんでから、今日の晩餐を終えた。ヴィクトルは晩餐室から王妃の居室までアリスをエスコートする。これも彼らの日課である。


 明かりの灯された燭台が並ぶ廊下を、ヴィクトルと2人で歩く時間がアリスは好きだ。正確に言えば2人きりではないのだが、デートをしているような気持ちになれるのだ。


思えば新婚旅行に出かけはしたものの、それ以来2人でどこかに出かけたことは一度もない。だからこそ、この日課の時間やヴィクトルと庭園を散歩する時間は、アリスにとって貴重なひと時なのだ。


 晩餐室からアリスの居室までは、そう遠くない。いつもあっという間に過ぎ去るのが、アリスは名残惜しく思う。しかしそう思っているのは、アリスだけではない。ヴィクトルは握ったアリスの手を自らの方に引き寄せると、優しく彼女の身体を懐に入れた。


「また寝台で。」


 アリスの耳元で彼はそう囁くと、リップ音を立てて耳に唇を寄せた。一瞬でアリスの身体が熱を帯びる。唇を寄せられたその場所は、じんじんと赤く染まる。


「そんな顔をされたら、寝台まで待てなくなる。」

「ヴィクトル様……。」


 これから寝台に入る準備をしなければならないというのに、アリスもヴィクトルと片時も離れたくないと思ってしまう。潤んだアリスの瞳には、ヴィクトルしか映っていない。ヴィクトルの頭の中では理性のぐらつく音がした。


「マクシミリアン!」


 傍で控えている家臣の名前をヴィクトルが呼ぶ。


「この後はなにかあっただろうか。」

「いえ。後はお休みになるだけです。」

「そうか。」


 この後の予定はヴィクトル自身も分かってはいたものの、あえてそれを口に出すことで暗に人払いを示している。それを察知したヴィクトルの侍従やアリスの侍女は、主の意のままに動く。


「ではわたくしはここで下がらせていただきます。」

「ああ。今日も一日御苦労だった。」


 ヴィクトルはマクシミリアンが下がったのを確認すると、アリスの身体を横抱きにして抱き上げた。そして、アリスの侍女によって開かれた扉の中へと入っていく。通常ならアリス以外の人物は、居間までしか通してもらえないものだが、アリスの侍女たちは寝室のドアも開けて待っていた。


 夫の腕の中に居るアリスはというと、恥ずかしくて顔を上げられない状態だ。兄のマクシミリアンに目撃されずによかったようなものの、侍女もアリスにとって親しい者たちだ。


その者たちに自分と夫のイチャイチャを見られるという羞恥心は持ち合わせており、ただヴィクトルの胸の中に火照った顔を埋める。だからヴィクトルが侍女たちに「御苦労、下がって良い」と挨拶しているのを聞くだけだった。


 寝室の扉が閉まるのを確認してから、ヴィクトルはそっと寝台にアリスの身体を下ろした。そして、跪いて丁寧にアリスの靴を脱がせる。白い艶のある足の甲が現れると、ヴィクトルはそこに愛おしそうに口づけをした。


 普段、自分でも触れることのない部分に柔らかい感触が走り、アリスの身体はその刺激に震える。アリスの反応に満足気に口端を緩ませたヴィクトルは、自分も靴を脱ぎアリスの身体を寝台に倒しながら自分もあがる。


 そうすると、アリスはヴィクトルを見上げる形になり、さらに心臓が激しく蠢く。もう何度もこの瞬間を迎えたことがあるというのに、一向に慣れる気配はない。それどころか日増しにアリスはヴィクトルに恋をしていた。


「……アリス、愛している。」


 息のかかる距離でそう囁かれれば、アリスの瞳はさらに潤む。


「……ヴィクトル様、もうわたくしの心臓ははちきれそうです。」

「ああ、私もだ。」


 アリスが瞼を閉じると、それが合図かのように唇を寄せ合った。何度も角度を変えては、お互いの愛を伝えるかのように唇が重なり合う。時折漏れるアリスの吐息は、ヴィクトルを頂点へと昂らせていく。


 お互いが接吻に夢中になる間に、ヴィクトルは慣れた手つきで複雑なアリスのドレスを脱がせた。晩餐の後に我慢をできずにこうして寝台へ直行するのは、これが一度目ではないのだ。もちろん、初めの頃は手間取っていたものの、それも1年も過ぎれば造作もないことだった。


 衣が擦れる音も、2人にとって刺激になる。火照ったアリスの肌が露になると、ヴィクトルは大事そうにそこにも唇を寄せた。途端にアリスの身体は跳ね上がる。最後に残っていたヴィクトルの理性の欠片が崩れ落ちた瞬間だった。


「アリス、いいかい?」


 ヴィクトルの問いかけに、アリスは小さく「はい。」と言いながら、指を咥えて首をたてに振った。ヴィクトルは、いつまでも恥じらいを持つ彼女が愛おしくて仕方がない。


 長い夜の始まりの合図とばかりに、ヴィクトルは今日で一番の深いキスをアリスにお見舞いした。


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