第25話 不可解な陛下
アリスたちがジケル侯爵領館に到着してから、兵糧も順調に到着していった。そのお陰で騎士たちの士気も高まり、どんどんと食事もしてくれているのが、アリスはなによりも嬉しいと思っていた。
しかし、ジケル侯爵領館に来てから2週間、アリスは奇妙なことに惑わされていた。それはとても個人的なことであったため、最初は気のせいと思うようにしていたが、どうもそれでは片付けることができなくなってきた。
それで、アリスは兄であるマクシミリアンに相談することにした。
「お兄様。お忙しい時にお時間とっていただき、ありがとうございます。」
「いや。アリスのおかげで台所事情が持ち直したから、時間に少しは余裕が出たよ。ありがとう。それで、相談とは?」
談話室に2人きりであるため、マクシミリアンは砕けた言葉を使った。それも、いつ以来だろうとアリスは感動さえ覚えてしまう。
「はい、その……。大変言い辛いことなのですが、陛下のことで……。」
「陛下のこと?」
「ええ。……陛下はこの戦いに出られている間、何か悪い物でもお食べになったのですか?まるでお人が変わったようですから……。」
「ぶふっ。」
アリスからのまさかの質問に、マクシミリアンは飲みかけた紅茶を吹き出しそうになったのをなんとか堪えた。
「ま、まあ!お兄様!大丈夫ですか?」
それに驚いたアリスは、慌ててセリアを呼ぼうとしたが、マクシミリアンはそれを手で制した。
「大丈夫だ。いや、驚いたというか、面白いからというか。」
「面白い?」
「いや、失言だった。アリスにとっては、真剣な相談だ。」
「はい。陛下のあの態度は、とても心配なのです。わたくしと顔を合わせなかった20日ほどの間に、一体何があったのかお聞かせ願えますか?そうでないと、わたくし陛下のことが心配です。」
アリスが領館に到着してからというものの、ヴィクトルはアリスにべったりなのだ。毎日同衾するのは当たり前であるし、食事だって昼食だけではなく、朝食も晩餐も一緒にとっている。
領館に到着したばかりの頃なんかは、アリスの腕の傷をそれは、それは心配し、セリアが包帯を変える度にその場に同席していた。さらには、時間さえあればアリスの隣にくっついては、アリスを膝の上に乗せたがったり、抱きしめたがったりする。
これまでは、そんなことは絶対にありえなかったのだ。だからこそ、アリスはとても困惑していた。“まさかルージュの代わりにされているのでは”と不安すら覚えている。
そのヴィクトルの行動に、マクシミリアンも思い当たる節があった。
「そうだなあ……。結論から言えば、陛下は別にお人が変わったわけではないのだ。」
「ええっ?!お兄様には、どう見えてらっしゃるのですか?!」
「アリスがそう思うのも、無理はないのだが……。そうだなあ。陛下は言葉が足りないお方だからなあ。」
マクシミリアンは、どうしたものかと腕組をしながら考えている。アリスの顔へとちらりと目をやると、真剣な眼差しでコバルトブルーの双眸をマクシミリアンに向けていた。
「……アリスは、今でも陛下を慕っているか?」
「へっ?!」
言葉を発するよりも先に、アリスは紅潮する。それだけで、答えは出ているようなものだった。しかし、マクシミリアンはあえて、アリスへ言葉にするよう視線で促した。
「……はい。お慕いしております。ずっと前から。」
「そうか。」
マクシミリアンは、満面の笑みをアリスに向けた。
「……お兄様、ご存知だったのですか?まさか、ドリアーヌから聞いたなんてことは……。」
「まさか。ドリアーヌがアリスの秘密を漏らすはずがないよ。ただ……。バルバラ様とご結婚されたときに、アリスが一人で泣いていたのを知っていただけさ。」
「……お兄様は、なんでもお見通しなのですね。」
「妹と弟のことになれば、誰よりもお見通しさ。アリス、大丈夫だ。陛下のことをお慕いする気持ちさえ信じていれば。」
「分かりました。お兄様がそう仰せられるのであれば、待ちます。」
「ありがとう。」
アリスが笑顔で頷くと、マクシミリアンも笑みを返した。
「……それで、話は変わるのですが。もう1つご相談させていただいてもよろしいでしょうか。」
「ああ。どうした?」
「実はこれ、わたくしの腕に突き刺さった矢なのですが……。」
ソファーの傍らに置いていた矢筒から出して見せたのは、アリスを襲った矢だった。マクシミリアンは目を大きく見開き、手を差し出してそれを受け取る。
「これが?」
「通常よりも鋭利な刃先になっております。……実はそれ、明らかにわたくしを目掛けて放たれました。」
「それは、レルカン国の残党に、アリスがこちらへ向かっていることがバレていたというのか?」
森でアリス一行を襲ったのは、レルカン国の残党だった。砦での戦をかいくぐってパストゥール王国に入って来ていた者たちがいたらしい。それが、彼らだったそうで、森に忍び込んでいたところ、そこにアリスたちがたまたま出くわしたということだった。
「……いえ。その矢を放ったのは、レルカン国の残党ではございませんでいた。」
「……矢を放った人物を見たのか?」
「はい。はっきりと。この騒ぎに乗じて、わたくしを亡き者にしようとしていたのは明白でした。」
「……そうか。これは、証拠として預かっても?」
「ええ。お願い致します。」
「それにしても……。この矢に毒が仕込まれていなくてよかったな。」
「いえ。仕込まれておりました。」
飄々として答えたアリスに、マクシミリアンは「は?!」と大きな声を出した。
「領館に到着した次の日にわたくし伏せったじゃありませんか。」
「あれは怪我の影響かとてっきり。」
領館に到着してから3日間、アリスは熱にうなされた。アリスもセリアも、皆に余計な心配をかけてはいけないからと、怪我の影響と旅の疲れということにした。
「手当をしたセリアが言うには、少量の毒が付着して化膿したそうです。幼い頃から毒には慣らされているので、床に伏せったくらいで済みましたが。」
「このことを陛下は?」
「ご存知ありません。しかし、その矢をお兄様から陛下へとお渡しされるときに、お話していただいたらよろしいかと。」
「……私から話していいのか?」
「わたくしからお話するとなると、緊張してしまいますわ。」
アリスは、ぽっと頬を赤らめた。マクシミリアンは、我が妹にこんな表情をさせるのがヴィクトルであるのかと思うと、少し複雑な気持ちになった。
「……分かった。私から陛下に話をしておこう。」
「ありがとうございます、お兄様。」
「……アリスは、あの茶缶のときと同じ者がこれを差し向けてきたと思うか?」
「……分かりません。しかし、同じ毒かと思われます。」
「なに?!」
アリスがまだ入城して間もない頃、毒入りの茶缶がアリスの元へと届いていた。アリスは幸いにも、その茶を飲む前に匂いで気付き事なきを得ていた。今回もその矢を匂ったところ、微かにではあるが、そのときと同じ香りがしていた。
「……香りで判断するところによると、といった感じです。ですから、お兄様の方できちんと調べていただいたら分かるのではないかと。あの茶缶もまだ、お手元に持ってらしてでしょ。」
「ああ。まだ持っている。しかし、同じ毒となれば……。同じ者が差し向けてきたと考えるのが妥当だな。」
「わたくしもそのように思います。」
「して、この矢は誰に?」
とうとうそれを聞かれるのか、とアリスは思った。誰がこの矢をアリス目掛けて放ったのか。
「……我がパストゥール王国所属の騎士にあります。」
「……やはりか。」
マクシミリアンは、大方の見当がついていたらしく、驚くことはなかった。“レルカン国の残党ではなかった”とアリスが言った時点で、確定したようなものだったからである。
「どちらだ?」
「領館へと報告に行った方です。レルカン国の残党と共謀しているのかまでは分かりませんが……。」
「偶然か共謀か……。しかし、今回のレルカン国の残党の戦は、ブレソール殿下の失態によるものだ。」
「元々、いつかは火種を起こす気で居て、今回を好機ととらえたかもしれませんわ。」
「……その可能性は無きにしも非ずだな。そうなると、サブレ王国は利用されたにすぎないかもしれない。」
「だとしても、ブレソール殿下の失態が取り消されるものでもありませんけれどね。」
「それはそうだ。付け入る隙を与えたのは、ブレソール殿下だからな。……そうなると、色々な線から探る必要があるな。」
「できそうですか?」
「できないわけがないだろう。」
口端をあげて妖しく笑うマクシミリアンの表情を見ると、アリスはいつも「ああこの人を敵に回したくない。」と思うのだ。
「それならばお兄様に任せておけば安心ですわね。」
「ああ任せておけ。」
そんな話をしている最中だった。
「王妃殿下、マクシミリアン様。お話し中失礼いたします!」
2人のいる談話室に1人の騎士が飛び込んできた。談話室の外もなにやら急に騒がしくなっている。
「なにかあったのかしら?」
「は!今しがた、サブレ王国からの早馬が到着しまして、サブレ王国側のレルカン国の残党との戦いに勝利されたと!」
「まあ!」
「なんと!」
アリスもマクシミリアンも歓びの声をあげた。ブレソールがきっかけとなって起こった辺境での戦ではあったが、サブレが勝ったとなるとパストゥール王国にも勝機が見えてくる。
マクシミリアンは即座にソファーから腰を上げ、先ほどまでとは打って変わり騎士の顔つきへと佇まいを変える。
「マクシミリアン、頼みましたよ。」
「はい。王妃殿下の仰せのままに。」
先ほどまで兄と妹として会話をしていた2人は、瞬く間に王妃と家臣になった。そして、マクシミリアンと騎士はアリスに礼をとると、談話室から早々と出て行った。
その後は、早かった。ヴィクトルが騎士たちに緊急招集をかけると、その日のうちに砦へと奇襲攻撃をしかけた。傍から見れば、好機を逃さなかっただけに見える戦い方だった。しかし、すべてを首尾よく運んでいるところを見ると、サブレが勝ったと情報が入れば奇襲を仕掛ける予定だったのではとアリスは考えていた。
2ヶ月近くにも及んだレルカン国の残党との戦いは、たった一夜にしてすべて一掃することができた。レルカン国の残党に占拠されていた砦も、無事に取り戻すことができたのだ。
「おかえりなさいませ、陛下。」
ジケル侯爵領館へとヴィクトルが戻ってきたのは、昼過ぎになってからだった。アリスはヴィクトルの妻らしく、その帰りを恭しく出迎えた。
「アリス……!」
「へ、陛下?!」
昨日、兄のマクシミリアンに相談した通り、やはりヴィクトルは変だった。出迎えたアリスに抱き付き、そのまま横向きにしてアリスを抱えている。いわゆる、お姫様抱っこなるものを皆の前でしているのだ。
アリスはあまりの羞恥に、顔から火が出そうになっている。
「私を待っていてくれたのか!」
「へ、陛下!あの、おろしてくださいませ!」
「貴女の顔を見るだけで疲れが吹き飛ぶな。昨夜は貴女と共に眠れなかったから、気が狂うかと思ったよ。」
「へ、陛下!」
勘弁してくださいと言わんばかりのアリスを無視して、ヴィクトルは彼女を抱きかかえたままにずんずんと領館の中を歩く。
「ど、どこに行くのですか?」
「うむ。今日は天気がいいからな。このまま庭に行こう。」
「しかし、戦いの後処理は。」
「それは大丈夫だ。マクシミリアンがやってくれている。それよりも、私たちにはもっと大事なことがあるだろう。」
いつもなら、ヴィクトルの後には大勢の騎士や侍従が着いてくるものだが、今に限っては誰もついてこない。アリスの侍女であるセリアさえもだ。
ジケル領館の庭にある東屋に到着すると、ヴィクトルはそこにそっとアリスを降ろして座らせた。そして、自身もその隣へと腰をおろし、アリスにぴったりと密着する。やはり、人が変わったようなヴィクトルの行動に、アリスはどぎまぎせずにはいられない。
「へ、陛下。このたびの戦い、お疲れ様でした。」
「ああ。思ったよりも長引いて貴女にもここまで来てもらい、申し訳なかった。」
「そんな。わたくしは、どんなときもわたくしにできることをするまでですわ。」
アリスの言葉にヴィクトルは優しく目を緩ませる。
「しかし……姉上が着いていながら、こんな怪我ませさせて……。私は、貴方がこちらに向かって城を出発するという報せを受けてから貴女と顔を合わせるまで、本当に生きた心地がしなかった。」
ヴィクトルはアリスの怪我をした腕を一撫でし、そのままその手をアリスの頬へとやる。そっと触れるその手に、アリスは何とも言えない気持ちになった。
「貴女が死んでしまったら、私はきっと廃人のようになってしまうだろう。」
そこでアリスは純粋に疑問が浮かぶ。ヴィクトルの寵愛を受けているのは、ルージュのはずだ。「王妃になれるものが居なくなったら大変だからなのかしら。」とも思ったが、それにしてもそれだと廃人になるほどではないとも思う。
アリスがヴィクトルの瞳を見つめ返すと、彼は切なげにアリスを見つめていた。吸い込まれそうな琥珀色の双眸に、彼の切ない気持ちがアリスに伝わってくる。
「……何故ですか?陛下はルージュを愛してらっしゃるのではないですか?同衾だって……ルージュとしてらっしゃるのでしょう?」
「?!」
アリスの質問に、ヴィクトルは目を大きく見開いて、声も出ないほどに驚いた。
「なぜ私がルージュを愛さなければならないのだ?!」
「ええっ?!」
ヴィクトルの言葉に、今度はアリスが驚く。三側妃を選んだのは他の誰でもないヴィクトルである。まさか適当に選んだとでもいうのだろうか。
「ルージュは仮にも側妃ですわ。それに、ルージュもそしてジョーヌも体調を崩しておられます。確証のない話は好きではないですが……皆、側妃2人が陛下の御子を身籠ったと噂しておりますわ。」
「……貴女はそれを信じているのか?」
「信じるほど証拠を持っておりませんが……流行り病でもなく持病でもないのに会えないということは、とは思っております。」
「貴女は、私が側妃を好いていると?」
「……でなければ、町娘を側妃にあげる理由が分かりませんわ。もちろん、側妃を着けて欲しいという政務官方々のご要望に応えられたまでというのも理解しておりますが、誰を選ぶのかは陛下が決められたのでしょう?」
「それはそうだが……。……結論から言うと、ルージュもジョーヌも私の御子を身籠ってなどおらぬ。」
「そうなのですか?」
「ああ。そもそも同衾しておらぬからな。」
「えっ?!」
「えっ?!」
「……。」
「……。」
アリスが驚いたことにヴィクトルは驚き、2人で大きく目を見開いたまま見つめ合う。
「……。」
「……。」
「で、でも。ルージュにルビーのネックレスを贈られたのでしょ?」
ルージュは大きなルビーのネックレスを着けていた。それは、ブノワ侯爵から聞いたところによると、ヴィクトルから贈られたものらしい。それで失恋したと思って居るのにと、尋ねずにはいられない。
「ルージュに、というか……。そうだなあ。」
「わたくし、それで陛下に失恋したと思って……。」
「えっ?!」
「えっ?!」
今度は、ヴィクトルが大きな声を出してアリスもそれに呼応する。そしてまた、大きく見開いた視線を合わせる。
「……。」
「……。」
「失恋したって……。フィリップに失恋したのではないのか?」
「ええ?!フィリップ?!」
「……ジェラルダン公爵家の晩餐会のときに、失恋がどうとかフィリップと話をしていただろ。私はてっきり、貴女はフィリップに失恋したものだと……。」
「ええっ?!フィリップとしていた話を聞いていたのですか?!恥ずかしいですわ……。」
真っ赤にさせた頬を両手で覆った。そのアリスの両手に、ヴィクトルは手を重ねる。ゆっくりと重なった両手は、アリスの膝の上に落とされる。そして、ヴィクトルの大きな手はアリスの両手を優しく包んだ。
「では貴女は、私のことを好いていてくれたのだな。」
「……っ。」
甘く、優しい琥珀色の瞳に、アリスはもうとろけそうになる。
「……ですから、お慕いしておりますと伝えましたわ。」
「そうだったな……。つまらないヤキモチを妬いてすまなかった。」
ゆっくりとヴィクトルの視線が近づいてくる。
「……わたくしも。勘違いして申し訳ありませんでした。他の女性を触った手で触って欲しくなかったのです。ですが、もう二度と勘違いしないように、陛下のお気持ちを教えてくださいますか?」
とうに羞恥心など超えている。しかし、アリスを捉えて離さない彼の視線から、逃れることはできない。とうとう、お互いの息のかかる距離まで、琥珀色の双眸とコバルトブルーの双眸は近づいた。
「初めて会ったときから、アリスのことを愛しているよ。」
「……わたくしも。初めて会ったときから、ヴィクトル様のことをお慕いしております。」
そして、愛の言葉を紡ぐそれは、ゆっくりと重なり合った。
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