第7話 マリー殿下
側妃への突撃訪問をマリーが納めてくれたということで、アリスは御礼を込めて彼女をお茶会に招待した。するとマリーは快く受けてくれ、天気も良いためアリスの畑のある庭園の東屋で行うことになった。
マリーの提案で、コラリーもお誘いすることになった。なぜなら、コラリーは明後日には南の城に戻ってしまうからだ。親子水入らずの方が良いのではとアリスは思ったものの、自分も嫁になったのだからと思い直して、お茶会を主宰することにした。
「コラリー殿下、マリー殿下、本日はお越しいただき、ありがとうございます。」
アリスの心臓は早馬のようだった。初めて主宰するお茶会が、王母殿下と王妹殿下を招いてのものだなんて、この国でアリスくらいだろう。
「お招きいただきありがとうございます、王妃殿下。」
淑女の礼をとったコラリーの後ろで、マリーも同じく礼をとる。今日も扇をしっかりと携えながら。
「今日は無礼講にしてもよろしいでしょうか。この顔ぶれの中では、娘として姉としてありたいのです。」
お茶会の初めに、アリスはこう切り出すことを決めていた。いくらこの中での位はアリスが一番高いとはいえ、元々の王族でもなんでもない。他の者たちが居る前では絶対にできないが、コラリーとマリーの前ではただの嫁でいたかったのだ。
「素敵な提案ですわ。ね?マリー。」
コラリーがマリーに同意を求めると、彼女は微笑みながら頷いた。アリスは「よかった」とほっと胸を撫でおろす。コラリーとマリーに着席をすすめると、アリスのお茶会の開始だ。
「あら。この茶葉はブラシェール侯爵領のものですね。」
アリス自慢の茶葉に真っ先に気付いてくれたのは、コラリーだった。さすが王妃経験者である。ちょっとすすっただけで、産地が分かるらしい。アリスも人より効き茶ができると思っているが、コラリーには敵わないかもしれない。
「お義母様、当たりでございます。でもこれ、早摘みするにはまだ早い時期ですから、よく熟成させたものをお出ししましたの。よくお分かりになりましたね。すごいですわ。」
アリスでさえブラシェール侯爵領で採れた熟成茶は、そんなにお目にかかることはない。ほとんどが発酵させたら出荷してしまうからだ。熟成させるには職人技が必要となるため、侯爵家にすら毎年少しの量しか入ってこない。
「わたくしの大好きなお茶の1つですの。毎年季節のご挨拶に、ブラシェール侯爵家からいただいておりますのよ。」
「そうでしたか。お義母様の好きなものの1つに数えてくださって誇らしいですわ。」
アリスがマリーを見やると、彼女も美味しそうに紅茶に口をつけてくれていた。
「マリー様はいかがでしょうか。お口に合いますでしょうか。」
きっとにこやかな返事が返ってくるはずだと思い、マリーにも声をかける。マリーはじっとアリスの目を見つめた後、扇を口元にそよがせて彼女の脇にいる侍女に言づけた。
「僭越ながら、代理で申し上げます。マリー殿下は“大変おいしゅうございます。また機会があればぜひ飲みたいわ”と仰っております。」
大方、こうなる展開を予想していたものの、依然としてアリスと直接会話をしてくれない姿勢に胸の奥がチクリと痛む。マリーから敵意を感じられないものの、好かれているとも思えない。しかしアリスは、それを表情には出さず、マリーに褒めてもらえたことを喜んでみせた。
「まあ。光栄にございますわ。わたくしもこの茶葉が一番のお気に入りなんですの。」
するとまた、マリーが侍女に言づける。
「“わたくしもですわ、お義姉様”と仰っております。」
“お義姉様”なんだかそのフレーズは、からかわれているような感じがした。どういうつもりでと思うものの、アリスはおくびにも出さない。出してしまえば、マリーとの仲が険悪になるのは明白だからだ。
「そんな風に言っていただけて、とても嬉しいですわ。それに、オラール侯爵の件もありがとうございました。まさか、後宮に突撃されるとは思いもよらず。」
「まあ、そんなことがありましたの。」
コラリーはアランの後宮突撃事件を知らなかったらしく、驚いた声を出した。
「側妃の方々のことが気になるお気持ちは分かるのですが、皆様が一切表に出るおつもりがないことをどうもお分かりいただけないようで。」
「ひょっとしたら隙を見て、側妃のどなたかに取り入って、執権を握ろうという魂胆かもしれませんわね。」
「いわゆる摂関政治ですか。でも、お年を考えると難しいのではないですか。」
今からヴィクトルの子供が生まれたとしても、ヴィクトルが健在の間は摂関政治などできようはずもない。側妃を手玉にとったとしても、彼女たちにはなんの発言権もないのだから、執権を握るところまでいかないはずだとアリスは考えた。
「……御子が生まれた後に、陛下を暗殺するか。はたまた、側妃を暗殺して自分の娘をそこにねじ込むか。陛下のお気に入りの側妃に取り入って、側妃の発言権を高めるか。さらには、アリス様のお命も狙われるか。色々な可能性が考えられますわね。」
コラリーの口からはすらすらと不穏な言葉が並べたてられた。さすが王妃経験者である。現状で考えられる最悪のことまで予想できるものをすぐに分かるのだ。
「そうですわね……。でも、オラール侯爵だってそれがどんなに簡単なことではないかよく分かっておられるのではないかと思うのです。それに、彼が持てる最大の力も。そう考えると、誰か黒幕が居ると考えるのが自然ではないかと思っておりますの。」
「黒幕ですか。」
そんな話をしていると、マリーが何かを侍女に言づけた。
「“わたくしもお義姉様の意見に賛成ですわ。彼を諫めたときに少々気になったことがございますの”と仰っております。」
「気になることですか?」
アリスが聞き返すと、またマリーが何かを侍女に言づける。
「“ええ。なぜかオラール侯爵は赤の側妃に陛下が御執心だということありきでお尋ねになられていました”と仰っております。」
どくんとアリスの胸の奥が騒ぐ。ヴィクトルがルージュに執心していることありきでアランが話をしたのは、騎士たちの目撃情報からだろう。
「そ、そうでしたか……。その噂が広まらなければいいのですが……。」
「上手に笑えているかしら」とアリスは思う。こと、ヴィクトルの想い人の話になると、アリスは心が弱くなってしまう。王妃なのだから動揺してはいけないと分かっているのに、失恋したてだからなのか、ざわざわと掻き立てられてしまうのだ。
「“お義姉様も赤の側妃に陛下がご執心と思ってらっしゃるのですか”と仰っております。」
すると、マリーはアリスの心を抉るような質問をしてきた。この場合、なんと答えるのが正解であるのかと、アリスは必死に回答を探す。「マリー殿下だってご存知のはずなのに」と、意地悪をされているのかとも思ってしまう。
「……陛下のお心は陛下だけのものですわ。わたくしはその陛下のお心に従うまでです。」
アリスは無難に答えた。ここで王妃であるアリスが、ルージュへのヴィクトルの執心を認めているとなると、それはそれで大変なことになる。また、マリーの侍女が着いていることを知っているアリスが、ヴィクトルの心を知らないと答えるのもそれはそれで王妃としての聡明さが問われる。
だからアリスは、知っているかどうかの質問には答えず、ヴィクトルに従うことだけを示した。それにそれはアリスの本心である。恋するアリスはヴィクトルが他の女性と仲良くなるのは嫉妬ものであるが、王妃のアリスは御子の誕生がどれだけ必要かを分かっている。
「まあそうですわね。所詮側妃は側妃。王妃たるアリス様はどんと構えていればよろしいと思いますわ。」
「お義母様。ありがとうございます。」
義理の母からの応援は、アリスにとって心強いものだ。嫁のことを認めない姑も居るものだが、コラリーからはその様子が感じられない。アリスにとってはそれがとてもありがたかった。
「なにか困ったことがあれば、何でも相談くださいな。王妃としての矜持だけは腐るほどもっておりますから。」
「ありがとうございます。心強いですわ。しょっちゅう南の城まで早馬を走らせるかもしれません。」
「陛下と夫婦喧嘩になったら、いつでも家出していらしてくださいな。わたくしもシャルル様と喧嘩したときに、南の城まで家出しましたのよ。最初は近くの離宮に籠城しようかと思いましたけど、段々怒りが膨らんでお義母様に言いつけに南の城まで行きましたの。焦ったシャルル様の御顔は今でも忘れませんわ。」
コラリーはまるで楽しい思い出話をするかのように、楽しそうに話をした。
「お二人にそんなことがあったなんて信じられません。」
「あの時はさすがのわたくしの堪忍袋の緒が切れましたの。幼子3人抱えて南の城まで行きましたわ。陛下は覚えてらっしゃるのではないかしら。今度、あの子に聞いてみてくださいまし。」
「“わたくしも幼かったですが覚えております”とマリー殿下が仰っております。」
「まあ。マリー様が覚えてらっしゃるということは、それほどシャルル殿下にとって窮地だったということですね。」
「お灸をすえたのです。シャルル様が南の城にわたくし達を迎えにいらしたときには、お義母様とお義父様にこってり絞ってもらいましたの。もし陛下と何かあれば、わたくしが絞る準備はいつもしておりますからね。遠慮なくおいでまし。」
「まあ、お義母様ったら。」
「“その時はお母様に絞ってもらう前に、わたくしがお兄様のことをぎっちぎちに絞って差し上げますわ”と仰っております。」
「マリー様まで。こんなに味方が居てくださるだけで十分ですわ。きっと、陛下と喧嘩になることもないでしょうし。」
ふと、アリスは睫毛を伏せた。コラリーのシャルルとのエピソードは、夫婦にとって窮地のエピソードかもしれないが、アリスにとっては羨ましいと思ったからだ。なぜならそれは、二人が心から結ばれた夫婦ゆえのエピソードであるからだ。
しかし、アリスとヴィクトルは違う。「どれだけ私が陛下を慕っていても一方的なものだから」とアリスは思った。陛下の心を掴めない王妃であることを、アリスはコラリーとマリーに申し訳ない気持ちで一杯だった。
3人のお茶会が終わり、アリスは執務室に戻って書類仕事をしていた。王妃がこんなに忙しいものなのかと、改めてコラリーを尊敬する。すると、女官のエミリーが執務室にやってきた。
エミリーはいつもアリスの代わりに、王城全体の視察に云ってくれているので、クロエやオレリアのようにアリスのところに留まることはないが、報告事項を持ってやってきてくれる。だから、エミリーがやってきたということは、何かアリスに報告しなければならないことがあるということだ。
「なにかあったのかしら。」
机から顔をあげて彼女に問うと、エミリーは少し困ったような顔をした。
「こちら、コラリー殿下とマリー殿下からの手紙です。」
「え?あ、ああ。ありがとう。」
おそらく、お茶会の御礼の手紙だろう。まさかその手紙をエミリーが持ってくるとは思わず、アリスは拍子抜けした。
「これだけ……じゃ、ないわよね。」
「……わたくしの口からは大変申し上げにくいのですが……。」
「どうしたの?」
「先ほど、青冷めた顔で侍女のローズから申し出がありまして。王妃殿下に直接申し上げて良いものかどうかという相談だったのですが。内容的に、お耳に入れておいた方がいいのではないかと思いまして……。」
「あまり、よくない話ね?」
「はい。」
「どんな話かしら。」
「実は、わたくしは違うと思いたいのですが。オラール侯爵令嬢であるローズの言葉を全く無視するのも危険かと思っておりまして……。」
「ええ。」
エミリーの前置きが長く、歯切れが悪いということは、彼女にとって口にするのも憚られる内容なのであることを、アリスは察知した。ローズが関連するということは、オラール侯爵関係であることは明白だ。
「現時点でなにか証拠があるわけでもございませんので、ローズには他言せぬよう言い含めておりますが……。ローズが考えるには、マリー殿下がオラール侯爵となにか関わっているのではないかと申しておりまして。」
「……どうしてローズはそう思ったのかしら?」
「ローズが侍女として王城入りする直前くらいの出来事だったそうなのですが、マリー殿下とオラール侯爵が何かやりとりをなさっていたようで。そのときは気に留めなかったそうなのですが、ここ最近もしかしてと思うようになったと。」
「なるほど。でも、手紙の内容は読んでないのよね?」
「そのようです。」
マリーと宰相であるアランが、手紙のやりとりをすることは不思議なことではない。そのため、不穏なやりとりをしていたと断定するには、あまりにも弱い証拠である。
「……先の後宮でのマリー殿下がオラール侯爵を収められた件ですが……。その直前にオラール侯爵からローズの元に確認の手紙があったそうなのです。」
「確認?」
「はい。“赤の側妃の侍女はマリー殿下のものか”と。」
「!」
「なぜ閣下がそれを?!」とアリスは叫びたかった。そのことを知っているのは、ヴィクトル、マリー、そしてアリス以外に居ない。一体どこから漏れたのかと考えると、アランと通じているものが居るということは明白だ。
「……断定はできませんが……。可能性もゼロではないかと思いまして。」
ただ、仮にそうだとして、とアリスは思う。なんのためにマリーがアリスを陥れる必要があるのか、と。確かに好かれている気配はない。ただそれだけで、マリーになんのメリットがあるというのだろうか。
アリスはふうっと息をつきながら、頬杖をついた。
「ローズの話を聞いてみましょうか。呼んでくれる?」
「承知いたしました。」
エミリーは一旦下がると、ローズを連れて戻ってきた。
「さて、エミリーから話は聞いたわ。二人とも、勇気を出して話をしてくれてありがとう。だけど、完全にマリー殿下を疑うには疑問を持つことが多いの。それで、ローズの話も聞いておきたいわ。なぜ、オラール侯爵は、赤の側妃がマリー殿下の側妃であることをご存知だったのかしら。ローズはどう思う?」
「……それは、わたくしには分かりかねます。しかし……こんなことを申し上げたくはないのですが、マリー殿下が侯爵にお伝えしていれば、知りえた話ではないかと。」
「それは、そうかもしれないわね。だけど、動機が見えないのよね。ローズはマリー殿下の動機をどう考える?」
「マリー殿下は王妃殿下を嫌悪されていることは確かですわ。」
「命を狙うほど?」
「……そこまでは、分かりません。しかし、社交界では有名な話です。」
「有名な話?」
「“マリー殿下がご結婚されないのは、ヴィクトル陛下を慕われているからだ”と。」
「まさか!」
アリスはつい大きな声が出てしまった。
「……そのようなこと、真実かどうかも分からないのに……。」
「社交界だけではなく、高等教育でも有名な話でした。王妃殿下はマリー殿下より先にご卒業されているからご存知ないかもしれませんが、マリー殿下の後輩にあたるわたくしたちにとっては、有名な伝説も残っております。」
「伝説?」
「はい。外国語の課題でいかにヴィクトル陛下が素晴らしいかスピーチされたそうです。しめくくりに、“私は彼を愛している”と言われたのは、後輩ならば誰もが存じ上げております。」
「それは、家族としてってことではないの?」
「“親愛”の方ではなく“熱愛”の方だったと。」
「まあ……。……でも、そのことと私を排除すること、どのように関係するのかしら。」
「陛下の妻という存在が嫌いなのではないでしょうか。……バルバラ王妃も公式には病死とされていますが、もしかしたら「ローズ!!!」
アリスは、それ以上は言わせなかった。確たる証拠もないのに、憶測ばかりで答えを出すのは危険だ。もしこのすべてが濡れ衣だとしたら、大変なことになってしまう。
「そういうことを言うものではありません。」
「しかし、マリー殿下が側妃を手籠めにしてしまえば、王妃殿下の立場は劣勢になるのですよ?!」
「なぜ?」
「後宮の運営をマリー殿下がしてしまえば良いからです。側妃の方々がマリー殿下派になってしまえば、王妃殿下の地位が脅かされてしまいます。」
「わたくしの地位は、その程度で揺るぐようなものではありません。」
王妃としての矜持を述べたアリスだったが、頭の中では計算していた。側妃がマリーに心酔すれば、アリスに逆風が吹くのはローズの言う通りであろう。
「……わたくしは……アリス様に王妃殿下で居て欲しいのです……。アリス王妃殿下ほど、王妃に相応しい方は居ないと思っております……。」
ローズはぽろぽろと涙を流しながら、言った。家来にとって、主人の立場が悪くなることほど、辛いものはないことをアリスもよく分かっている。アリスは椅子から立ち上がり、ローズの傍に立ち、彼女の涙をぬぐった。
「泣かないでいいのよ、ローズ。大丈夫。あなたが思っているよりも私は強いし、マリー殿下のことだってまだそうと決まったわけじゃない。だから、心配しないで。ただ、ちゃんと頭には入れておくわ。もし何かまた気づいたことがあれば、何でも言ってちょうだい。……貴女にはつらい思いをさせてしまうわね。だって、オラール侯爵は実のお父様なんですもの。」
「……アリス王妃殿下の侍女になったときから、わたくしは貴女様に命を捧げると決めております。家は関係ありません。」
「ありがとう。でもダメよ。貴女は私の元から飛び立って、ちゃんと結婚するのですからね。ローズだけではなく、エミリーもよ。」
「……わたくしは婚約者がおりますので。」
「分かっているわ。私のせいでその結婚が遅れるようなことがあってはならないわ。」
「ありがとうございます。」
エミリーの肩に手を乗せて言った。一人ももれなく幸せになってほしい、それがアリスの願いである。
アリスは今日も一人で夫婦の寝室へと足を運ぶ。恐らく、ヴィクトルが来ることはない。しかし、万が一に備えてのことであろう。侍女たちは男性を喜ばせるようなネグリジェをアリスに着せる。
ただ、寝室に入っても手持無沙汰であるので、アリスは最近、本を持ち込むようになった。それを寝室の窓際にあるテーブルセットに腰掛けて読む。月明りに照らされて丁度良いのだ。さらに言えば、そこからは庭園が見える。昼間とは違った姿を見せてくれる庭園を眺めるのも、一興だとアリスはそれなりに愉しめるようになった。
今日寝室に持ち込んだ書物は、冒険ファンタジーものだ。魔王に襲われた国を1人の勇者が救う物語だ。一節によると、パストゥール王国の建国の話を子供向けに描いたものともされている。アリスの幼い頃から愛着のある作品の1つだ。
本の内容は頭の中に入っているため、没頭して読むというよりも月明りに輝く庭園を眺めながら本も愉しむというのが、この寝室でのアリスのスタイルだ。ふと、庭園に目を落とすと人影があることに気付いた。「こんな時間に誰だろう?」と、不審者であれば見つかってはならないため、相手から見えないようにさっとカーテンに隠れて様子を伺う。
この寝室は2階にあるため、上階からその人影を見下ろす形になる。よく見てみると、その人影は1人ではない。しかし、不審者でもないことはすぐに分かった。
「え?ヴィクトル陛下……?」
アリスの口からは思わず、その人影の名前がこぼれた。一瞬、この部屋を見上げるために庭園にも出たのだろうかと甘い考えが浮かんだが、それはすぐさま消し去った。なぜ、そんな甘い期待を抱いてしまったのだろうと、なんて愚かであるのかと。
その光景を1秒でも長く見ていたくないのに、アリスは目が離せない。なぜなら、あんなに満面の笑顔を誰かに向けているヴィクトルの姿を、アリスは初めて見たからだ。「私には向けてくれない笑顔を彼女には見せるのね」と思うと、胸の奥深くをナイフで抉られたようだった。
月明かりに照らされて庭園を歩くヴィクトルと赤いフードを被った彼女は、それは、それは、仲睦まじかった。きっと、アリスが見ているなんて、誰も気が付いていないだろう。
「私たちしか見られない庭園を彼女にも見せて差し上げたかったのね……。」
アリスとヴィクトルの居室から見られる庭園は、警備のこともあって騎士と王族くらいしか足を踏み入れられない。側妃ともなると、そもそも離宮の部屋から出られないし、侍女をつけていたとしても1人で王宮に足を踏み入れることすら難しいだろう。
「とても優しくて残酷な方だわ……。」
なぜ王妃である自分が目撃するかもしれないことを、少しも考えてくれなかったのだろうかと思うと、自分は何のためにここに居るのかとすら思えてくる。
「陛下にとって私はどういう存在なのかしら……。」
アリスのコバルトブルーの瞳からはとめどなく涙が溢れ、それを拭ってくれる人などいなかった。
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