第6話 王妃の仕事

 アリスは今日も、一人きりの寝台で目を覚ます。結婚してから一週間、ヴィクトルがアリスと同衾したことは一度もない。さすがのアリスもその事実に、毎日毎日傷ついてはいられない。


 寝台の傍にあるベルを鳴らして侍女を呼ぶと、イヴォンヌとアンナがやってきて、アリスの身支度を行った。アリスのネグリジェや寝台を見れば、彼女の旦那様に手をつけられていないことは一目瞭然だが、彼女たちは素知らぬ顔をして支度をすすめる。


 アリスの周りに居る侍女も女官も騎士も、この3ヶ月でアリスに従うようになったため、決してその事実を口外することはない。国王陛下夫妻が仲良くあることは、この国を平穏に保つためにも重要なことなのだ。


「さて今日もやらなくちゃね。」


 一週間もあれば、お祝いの挨拶の手紙や贈り物への返事をとうに終わらせることができた。ここからは、お茶会や夜会へのお誘いへの返事だ。王妃が出席するか否かで、その会の格式が決まる。


 しかし、アリス自身がまだお茶会や夜会を開いてさえも居ないのに、家臣のパーティーに出席するというのも外聞がよくない。さらに言うと、どの家のパーティーへ最初に出席するのかによって、これからの社交界の流れも決まってしまう。


 そういうわけで、アリスは自分が茶会や夜会を開催するまでは欠席をすると決めている。断り文句は「わたくしの開催する茶会にぜひいらして」だ。アリスに招待状を送ってきているのは、夫人方々なのでその一文で十分だ。彼女たちもアリスに本気で参加してほしいわけではなく、結婚のお祝いのついでの社交辞令なのだ。


 アリスの午前中の書類仕事はこれだけに留まらない。後宮の管理についての仕事もある。食事のメニューについても、アリスの許可がおりないと決まらないのだ。食事については、プロの料理人に任せた方が良いとアリスは思っているので、基本的には提出されたものに目を通して問題がなければGOを出している。


 その他は、侍女たちから修繕した方が良いもののリストや、三側妃からの要望リストをチェックして、本当に必要なものかどうかよく精査するのもアリスの仕事だ。王城は国民の税で賄われている。


 それゆえ、ただの贅沢であってはならないのだ。本当に必要なものを見極め、そこに経済を生み出す。それが、アリスの王妃の仕事の1つでもある。


「そろそろ昼食のお時間です。」


 アリスが書類と睨めっこをしていると、セリアが執務室にやってきて時刻を知らせてくれた。もうそんな時間かと思いながら、「ありがとう」と言い、机の上の書類を片付ける。今日の午前中の書類仕事はここまでだ。


 執務室を出て食事室へと足を踏み入れると、ヴィクトルが椅子に座って居た。


「お待たせしてすみません。」

「いや、私も今来たところだよ。」


 2人が結婚して一週間、こうして毎日昼食を一緒にとっている。アリスは最近、それが不思議でならない。最初の日は初夜のお詫びかと思っていたが、なぜか毎日「昼食を一緒に」と誘われ、こうして一緒に食事をするのが日課になってきているのだ。


 普通の夫婦であれば、それをキッカケに少しずつ歩み寄るものであろうが、一週間こうして毎日顔を合わせていても、アリスとヴィクトルの距離は中々詰まらなかった。なぜなら、アリスが詰めようとしなかったからだ。


 これ以上、ヴィクトルのことを知って好きになってしまえば、自分の心を保てるかどうかが分からなかったのだ。だから、この昼食時にヴィクトルから会話の投げかけがあったとしても、それが弾まないという妙な空気感での食事になっている。


「……。」

「……。」


 こうして、黙々とお互いが食事をとるのがスタンダードになっている。アリスはこれに、居心地の悪さを感じていた。ルージュのことを気にかけているはずなのに、アリスとなぜこうして毎日のように昼食を一緒にとるのか。


 それは、アリスにとっては明白だった。ヴィクトルの気持ちがどこにあろうと、国王は国王としての務めを果たさなければならない。その1つが、この昼食なのだ。さしずめ王妃のご機嫌伺いといったところだろうか。


アリスは反吐が出そうになる。好かれていないのならほおっておいてほしいというのが乙女心だが、こうして接触の機会も持たなければならない。国王と王妃が不仲だと噂されれば、それは国家の運営に関わってしまう。


 「陛下が悪いわけではないのだから」と自分に言い聞かせてはいるものの、恋する乙女心は完全には割り切れない。だから余計にアリスは、ヴィクトルと上手く話せない。誰か家臣でも居れば仲睦まじい演技をするのは簡単だろうが、2人きりの空間で何を離せばいいのか分からない。


 それに、ヴィクトルの方も特にアリスに話しかけることはない。ただ、黙々と食事をとっている。その様子がさらに、アリスの乙女心を落胆させるのだ。「やっぱり陛下は私と毎日時間を過ごしているという事実のみが欲しいのね」と。


「それで、貴女は今日、なにをして過ごすんだ?」


 食後のお茶になると、ヴィクトルは必ずこの質問をする。アリスからすると、「私のスケジュールを知っておきたいのね」という感覚でしかない。


「今日は午後から畑仕事をする予定です。最近手入れができておりませんでしたし、植え付けをしようと思っている野菜もあるので。」

「そうか。あまり無理のないように。」

「ありがとうございます。」


 にこっと笑顔で答えたものの、アリスは心の中でぷりぷりしていた。「“無理のないように”だなんて、きっと私が畑仕事をするなんてと思ってらっしゃるのだわ!」と。少女のときのようにアリスは素直に怒ることなどしない。それが王妃教育で培った力の1つだからだ。






 アリスとの昼食を終えて国王の執務室へ戻ると、ヴィクトルは机の上に上体をうつぶせた。


「……陛下。その姿勢はあまりよろしくないかと。」


 マクシミリアンから笑顔のまま注意が入る。だが、ヴィクトルは顔を上げようとはしない。


「……今日も可愛かったな。」

「我が妹が可愛いのは当たり前のことにございます。」

「いや。私の妻が可愛かったのだ。」

「陛下の妹であり、わたくしの妹にございます。なんなら、陛下よりもアリスの可愛いところなんてたくさん知っております。」


 マクシミリアンのその言葉にむっとして、ヴィクトルは顔を上げる。


「私の方がこれから、アリスと長い時間を過ごすんだ。お前に羨まれるほどにな。」

「だったらきちんと会話なさったらよいのに。毎回、毎回、アリスの顔を見るだけで満足してどうするのですか。」

「そ、それは。アリスが可愛すぎるからいけないのだ。」

「そんなことではアリスに愛想尽かされますよ。やっとのことでご結婚なされたのですから、もっと愛の言葉とか囁いたらどうですか。」

「な、なにを言う!アリスの気持ちも確かめぬままに私の気持ちをぶつけてしまったら、彼女が可哀想ではないか。」


 もっともらしいことを言うヴィクトルではあるが、単純に彼はアリスに拒絶されたらと思うと上手く接することができないだけなのだ。彼にとって、アリスが最初で最後の想い人だからである。


「アリスの兄であるわたくしに言う方が恥ずかしいと思いますけどね。」

「お前はアリスの兄ではあるが、私の腹心だろ。」


 ヴィクトルは偉そうに咳払いをする。


「……アリスとは、徐々に距離を縮めるのだ。」


 自信なさげなその声に、マクシミリアンは「徐々にってこの3ヶ月何をしてたんだか」と心の中で呟いた。






 畑用のドレスに着替えたアリスは、騎士とセリアとローズを従えて、アリスの畑へと向かう。3ヶ月前はミミズで怯えていたローズも、すっかり平気になった。なんならセリアと一緒に畑用のドレスに着替えて、アリスの畑仕事を手伝うほどだ。


 ローズのその姿に、アリスは頼もしく感じている。初めの頃はアランのせいで侍女たちとの関係もぎくしゃくしていたものの、ローズの努力によって今は一人前の侍女らしく仕事ができている。セリア曰く、まだまだ半人前とのことだが。


 畑に着くと、今日もフィリップがアリスの畑を警備してくれていた。


「ごきげんよう、フィリップ。今日もありがとう。」

「は。勿体なきお言葉。」


 クスクスと笑い合いながら挨拶を交わす。幼馴染の騎士様はアリスとの接し方を心得ていながらも、幼馴染としての関係も忘れていない。アリスはそれが心地よいと思った。


「久しぶりになっちゃったから、今日は草むしりからしなくちゃいけないわね。」


 水撒きはフィリップをはじめとする警備の騎士たちがやってくれているが、草むしりばかりはアリスが率先してやらないと、騎士には芽なのか雑草なのか区別がつかない。だからアリスの畑は、草が生え放題になっている。


「わたくしたちも手伝います。」

「どれが草か教えてくださいませ。」

「ありがとう。じゃあ、この芽以外の葉っぱをこうして根っこから抜いてほしいの。」


 アリスが見せた芽以外の葉っぱを、セリアもローズも抜いていく。判断に難しいものは、アリスに指示を仰ぎながら、3人で草むしりをした。黙々とやるのも大変なので、3人で他愛もない会話をしながら抜いていく。


 その光景を、王城で働く騎士や侍女たちが微笑ましく見ていたことを、アリスは知らない。


 草むしりがひと段落すると、アリスたちは庭園にある東屋でお茶にした。ちょうどよいタイミングで、ソフィとイヴォンヌが冷たいミントティーと採れたてのイチゴを持ってきてくれた。畑仕事をして疲れているセリアとローズは木陰で休み、ソフィとイヴォンヌが給仕をしてくれる。


 さらさらとそよぐ風が、アリスの頬を撫でる。ポニーテールにまとめている銀髪がきらきらと輝く。アリスの侍女たちは、その神々しい姿にほおっと溜息をもらした。こんなに綺麗なアリスを、国王陛下がほったらかしにするわけがないと誰もが心の中で思っていた。


「さあ、休憩が終わったら、執務室に帰って仕事ね。」


 お茶を済ませたアリスが立ちあがる前に、セリアとローズは畑仕事の片づけを済ませている。なんと体力のある王妃様だとフィリップは思うが顔には出さずに敬礼をする。


「ではフィリップ、この後も畑の警備をよろしくね。」

「は。仰せのままに。」


 畑を後にすると、アリスは居室で軽く湯浴みをした。畑仕事でかいた汗を流したかったのだ。セリアとローズも汗をかいているので、すぐに使用人たちの湯殿に行かせた。ブラシェール侯爵家に居た時は、セリアと一緒に湯浴みをしたものだが、ここではそういうわけにはいかない。


 さっぱりしたセリアは、執務室にお茶を届けるようにソフィに伝えてから、執務室へと入る。アリスが執務机に着いたのと同時くらいに、女官のクロエがやってきた。


「クロエ。どうかしたの?」

「……お耳に入れておいた方がいいかと思いまして。」

「なあに?」

「実は……。さきほど、後宮の女官から話があったのですが、オラール侯爵が後宮にいらっしゃる三側妃を、事前の訪問伺いもなくお尋ねになろうとされたそうで。」

「まあ。それで、どうしたの?」

「タイミングよく通りかかられたマリー殿下がその場を収められて、側妃の方々がオラール侯爵にお会いすることはなかったそうなのですが……。」

「そう……。それはちょっと、許せないお話ね。」


 側妃のことで、アランが何かしら動くであろうことは、アリスもなんとなく予感していた。しかしまさか、後宮に踏み込もうとするとは。これは、側妃だけでなくアリスまでも舐められている証だ。


「オラール侯爵を呼んで。」

「承知いたしました。」


 それから1時間後、アリスの執務室にアランがやってきた。念のため、アリスの騎士たちが部屋の中に控えている。アランは不機嫌さを隠さない。


「それで、オラール侯爵。わたくしに何か言うことは?」


 立場を弁えないアランに、アリスも上位者としての振る舞いを隠さない。普段は宰相閣下である彼に配慮して上からの物言いをすることはないが、今回は違う。しかし、アリスのその態度にも苛々したのか、アランはぎっとアリスを見据える。


「……王妃殿下に申し上げなければならないことなど、わたくしにはございませんが。」


 アリスに呼び出されたことがよっぽど腹立たしいのだろう。丁寧な言葉を使っていたとしても、王妃に対する敬意が微塵も感じられない。


「そうですか。では、わたくしから陛下へ進言いたしますわ。オラール侯爵は陛下の側妃を傷物にしようとしました、と。」

「戯言を!」

「どこがですの?あなたは陛下の妻の部屋に、無断で押し入ろうとしましたのよ。その意味がお分かりでないのかしら?」

「わたくしはただ、側妃にご挨拶申し上げたく!」

「事前に側妃は陛下とわたくし以外に接触されないと通達があったはずですわ。」

「ぐ……。」

「そのような方の部屋に挨拶に、ましてや事前の訪問伺いもなしに押し入ろうとするのは、野蛮な賊と同じですよ。」


 突撃訪問をすれば、側妃の顔を見られるとでも思ったのであろう。しかしそもそも、ただの宰相でしかない彼が後宮に足を踏み入れることすら越権行為に等しいものである。


「貴殿は身分が大事ですか?」

「……は。」

「ではその身分、大事にされてくださいまし。」

「……寛大なお言葉、感謝申し上げます。」


 アランは悔しそうにその言葉を吐いた。


「下がっていいわ。」

「……は。」


 アリスに一礼をすると、アランは執務室から出て行った。それを確認すると、アリスは長い息をふーっと吐いた。上から物を言うのは、彼女の性分ではないのだ。しかし、ここできちんと王妃としての態度を示さないと、後宮を守れない。


「アリス様、立派にございました。」


 傍で控えていたセリアが、アリスの背中を撫でる。アリスがどれほど緊張していたか、この場で最も正しく理解できるのは、付き合いの長いセリアだけだろう。


「ありがとう、セリア。それにしても、オラール侯爵は困りものだわ。」

「王宮の中でも幅をきかせているそうですからね。」

「オラール侯爵の手腕は、私も尊敬しているわ。でも彼は、自分を過信しすぎているのよ。」


 はたから見ると傲慢なように見えるアランだが、実はああ見えて細かい数字に強いため、何にどれだけお金を使えば無駄がないのかすぐに判断ができる。だから、家業の貿易商会も大繁盛しているし、この国の税収入も増加の一途を辿っている。それが、アランの中に自分が国を支えているという大きな自負となっているのだ。


「力をつけようとするのは悪いことじゃないわ。だけど、今が彼の持つことのできる最大の力であることを、彼は知らなければならない。だってこの国は、オラール国ではない。パストゥール王国なんですもの。」


 いくら宰相になっても、王妃の父親になっても。パストゥール王国の民が跪くのは、国王陛下ただ一人。その権力を、誰かが横取りしようとしてできるものでもない。その座を狙おうなんて、なんとおこがましいことであろうか。


 王妃教育がどれほど厳しいものかアリスはよく知っているが、それ以上に王位継承権のある者への帝王学は厳しさを増すとアリスは学んだ。権力を握るからこそ、民を疎かにしてはならないこと。パストゥール王国のためだけに生きなければならないことを、うんと幼い頃から骨の髄まで染み渡るまで、延々と教育される。


 それが分からないものは、王位継承順位に関わらず廃嫡させられることもあるという。それくらい、国王になるということは厳しく、持つ者ゆえの犠牲を強いられるものであるのだ。


「それが分からないお人ではないと思うのだけれど……。」


 イヴォンの話によると高等教育時代、イヴォンとアランはよきライバルだったそうだ。成績のよかった2人は常にトップ争いをしていて、卒業してからも良い相乗効果をもたらしていたらしい。


 ところが、元々伯爵家だったオラール家をアランが侯爵にした頃から、二人の関係は変わったとアリスは聞いている。


「あの茶缶を調べてもらう必要があるかもしれないわね……。」

「茶缶ですか?」

「ええ。ちょっとお兄様に調べものをしてもらおうかと思うの。」


 アリスはすぐに筆をとって、マクシミリアンに手紙を出した。


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