第4話 成婚

 長かったようで短かった3ヶ月が過ぎ去り、天候の良い春の日のある日、アリスは王城内にある教会へと静かに歩を進めていた。これからアリスとヴィクトルの成婚の儀が行われるのだ。


 成婚の儀が終わった後には、王妃即位の儀もある。それらすべてが終わった後に、王城に集まってくれている民に顔を出すことになっている。


 今日は王城だけではなく、城下町も賑わっている。後妻なので前回よりも慎ましくというヴィクトルの意向によって他国の王族の出席はないが、それでも各国の使者の出席や贈り物の数々でごった返しているのだ。


 天候にも恵まれ、花々も咲き香っている。その姿はまるで、新しい王妃の誕生を天も地も寿いでいるかのようだ。自然を愛するアリスにとって、それはこのうえない歓びだった。


 真っ白なドレスに身を包み、長いベールがアリスの存在を象徴する。アリスのあまりにも神秘的な姿に、すれ違う家臣たちは感嘆の息を漏らしていた。


 教会に到着すると、ヴィクトルと対面した。ヴィクトルもアリスと同じように、白い衣装に身を包んでいる。アリスと大きく異なるのは、それがパストゥール王国騎士団の最高司令官たる制服であることと、国王陛下の勲章であるリボンを身につけていることだ。


 ヴィクトルの琥珀色の双眸がじっとアリスを見つめる。この世にはヴィクトルしか存在しないかのごとく、アリスも彼をじっと見つめる。こんなにまじまじとヴィクトルを見つめたのは、これが初めてかもしれない。


 なんと表現していいか分からない感情が、アリスの胸の奥を独占する。この人こそがパストゥール王国の王であり、私の王なのだ、とアリスは思った。


 ヴィクトルに手をとられながら、アリスは教会へと入場した。






 成婚の儀も王妃即位の儀も緊張をしすぎたせいか、アリスはあまり覚えていない。ステンドグラスからそそぐ光があまりにも綺麗で、それをじっと眺めていたことだけは覚えている。


「疲れたか。」


 控えの間でヴィクトルと共に休憩をとっていると、彼から声をかけられた。その声にはっとして、王妃即位の儀まで無事に終わったことに気付く。


「……い、いえ。緊張して。なんだか現実じゃないような気がして。」

「すべて現実だ。貴女は私の妻となり、この国の国母となったのだ。」

「そうですね。……陛下、言い忘れていたことを今言ってもいいですか。」

「なんだ?」

「本日の衣装、とてもお似合いです。」


 アリスがそう言ってほほ笑むと、ヴィクトルは一瞬狐につままれたような顔をした。まさかアリスからそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。


「そうか。」


 それだけ返事をすると、ヴィクトルはむっと口を噤んで腕組をして押し黙ってしまった。アリスに褒められてもヴィクトルは嬉しくはないであろうということも分かっていた。しかし、言いたかったのだ。


「……。」

「……。」

「……。」

「……。」


 控えの間にはアリスとヴィクトルしか居ないため、妙な緊張感のまま静寂になる。ヴィクトルが閉ざしてしまったので、アリスから開くわけにはいかない。アリスは初日から失敗してしまったと感じた。


 今後は、心を通わせることはできなくても、意思の疎通ができる程度の間柄にはならなければならないと思った。


「お時間です。」


 臣下然としたマクシミリアンが、時間の知らせにやってきた。国王陛下の御前に居る兄の姿を見るのは、アリスにとって今日が初めてだった。


 2人の関係性は、空気感ですぐに分かった。王家の腹心の家臣は決してただの肩書などではなく、その通りにマクシミリアンが務めていた。その姿を見て、アリスも王妃を肩書にするのではなく、その通りに務めていこうと改めて決意をした。


「行こう。」

「はい。」


 ヴィクトルの手をとり、謁見ができる王城のバルコニーへと向かう。外の様子を見る前から、多くの人が集まっているのが分かる。たくさんの歓声や鳴り物の音が聞こえるからだ。


 国王陛下夫妻の入場を示す楽器の音に合わせてバルコニーに一歩足を踏み入れた瞬間、その歓声はどっとさらに大きいものへと変わる。そして、どこからともなく「ヴィクトル陛下万歳!」「アリス王妃殿下万歳!」「パストゥール王国万歳!」との掛け声が飛び出す。


 すべて、今日からアリスが守っていかなければならない国の姿がそこにあった。いや、パストゥール王国は広い。もっともっと大きなところに、守るべき国の姿がある。


 アリスの瞳からは、自然と涙がこぼれた。


 一瞬、会場は動揺が走りそうになるものの、アリスがとびきりの笑顔で手を振り続けていることから、歓びの涙であると解釈された。のちに、このときのアリスの涙は、「幸福のダイヤモンド」として語り継がれるようになった。






 夜には、国王夫妻の誕生を祝う舞踏会が行われた。これがヴィクトルと共に主宰する初めての舞踏会だ。始まりの合図としてヴィクトルとアリスがダンスを披露すると、場内は拍手喝采となった。


1回だけダンスをすると、ヴィクトルとアリスは用意された席に着いた。なぜなら、貴族方々が行列をつくって、ヴィクトルとアリスのもとに挨拶へとやってくるからだ。椅子に着席しているものの、皆からよく見える位置であるため、ひとときも笑顔を崩してはならない。


 婚約披露のときにも思ったものだが、王族の方々は普段からこのようなプレッシャーを浴びながら舞踏会を行っていると思うと、「よくやるな」という一言に尽きる。しかしアリスも、今日からやっていかなければいけないのだ。


 挨拶にはもちろん、ブラシェール侯爵夫妻もやってきた。イヴォンとベランジェールの姿を目にすると、アリスは一瞬気が抜けそうになる。しかしもう、ここでは親子ではない。侯爵夫妻と王妃なのだ。


「この度は国王陛下ご夫妻の御婚礼に接し、お祝い申し上げます。」

「ああ。ありがたく受け取る。」


 イヴォンもベランジェールも、うやうやしく頭を下げている。アリスを王城へと見送ったあの日、2人とも泣きながらアリスを抱きしめて送り出してくれた。その日の姿がアリスにとっては昨日のことのように思い出され、瞳がつい弛んだ。


 するとすかさず、後ろに控えていたセリアが、そっとアリスにハンカチーフを握らせる。扇を開いて、誰にも見られないように瞳の弛みを、ハンカチで抑える。もう、大丈夫だ。


「……アリスからは何かないか。」


 誰からの挨拶も、ヴィクトルが一言応えるだけで済んでいたが、彼なりの計らいであろう。アリスにも言葉を求めてきた。


「……お祝いの言葉、感謝申し上げます。」


 アリスにはそう答えるのが精いっぱいだったが、父と母は分かってくれたであろう。2人供「ありがたきお言葉」と答えると、またうやうやしく礼をとって挨拶の列から抜けていった。


 貴族からの挨拶が終わると、ヴィクトルは各々ダンスを楽しむ様子に満足気な笑みを漏らし、「そろそろ抜けるか」とアリスに合図を送る。ここから先は、帰宅しても良いしダンスを楽しんでも良いという一つの区切りになる。


 アリスがそれに頷くと、ヴィクトルは椅子から立って宣言をした。


「ここからは皆でダンスを楽しんでくれ。今日は私たちを祝ってくれて感謝する。」


 国王陛下の言葉に一瞬音楽が鳴りやみ、ヴィクトルとアリス以外の者はその場で跪く。そのまま2人が退室をすると、背中から音楽が鳴り始めるのが聞こえた。


「このまま謁見の間へと行くが、大丈夫か?」

「はい。」


 通常であれば成婚の儀の日の1日のスケジュールはここで終了となるが、2人にはあと1つだけ予定があった。それは、内々に進めたいものであったため、皆が騒いでいる間に行ってしまおうということになったのだ。


 謁見の間に入ると、3人の女性がすでに参上していた。ヴィクトルに導かれてアリスが王妃の椅子に座ると、ヴィクトルは玉座へと腰掛ける。


「面をあげよ。」


 アリスがこの王城にやってきたときと同じ言葉を、ヴィクトルが3人の女性に対して発する。しかし3人とも同じフードを被っており、顔を伺うことができない。アリスは事前に聞かされていたからこそ驚かなかったものの、もし聞いていなければ「なんと無礼な」と思ったに違いない。


 国王夫妻の御前に参上しているこの3人は、側妃となる3人だ。しかし3人ともただの町娘であるというのである。


 側妃に身分の規程はない。国王が気に入った者であれば、誰でも側妃になれるのだ。今回は、無駄な権力争いの火種とならないようにということで、王都の町娘3人が側妃に抜擢された。


 町娘であること、そして御子が誕生すれば側妃を解任されることになっていることから、その名前も顔も国王以外には明かされないことになった。


「ではわたくしは、側妃の方々をどのように見分ければ良いのですか。」


 その話を聞いたとき、アリスは純粋な疑問を口にした。後宮を管轄するのはアリスの仕事だ。ところが、側妃すらも見分けがつかないとなると、支障をきたすのは当たり前だ。


 そこで、3人の側妃は色違いのフードつきマントを着用することになった。それぞれ、赤・緑・黄色だ。この色は、それぞれの側妃が使う部屋の扉の色に由来している。


「これから不便を強いるかもしれないが、なにかあれば遠慮なく申してくれ。」


 ヴィクトルが3人にそう告げると、側妃方々はうやうやしく頭を下げて応えた。それを確認すると、ヴィクトルは玉座から腰を上げる。これにて側妃との謁見は終了だ。


謁見の間を出るとヴィクトルは引き続きアリスの手をとって王宮の中を進んだ。そして、朝、出てきた居室とは異なり、王妃の居室へとエスコートされる。


「私の居室はこの隣の部屋だ。なにか不便なことがあれば、なんでも言ってくれ。」

「ありがとうございます。」

「ああ……。」

「……。」

「……。」

「……。」


 ヴィクトルが何かを言いたげにしていたため、アリスはじっと待った。しかし、ヴィクトルは視線を右往左往させた後、また唇を一文字にした。そして。


「では。」

「……おやすみなさいませ。」


 何も言わずにアリスに背中を向け、王の居室へと入って行った。あれは一体なんだったのだろうかと思ったものの、話さなければならないことであれば、じきに話してくれるだろうと思い直した。


 それに、アリスの心の中はそれどころではないと言った方が正しいかもしれない。結婚したばかりの二人がそれぞれの部屋に戻ったということは、お互いにこれからそういう準備に入らねばならないということなのだ。


 なんといっても初夜である。


 アリスが王妃の居室に足を踏み入れると、待ってましたとばかりに侍女たちがアリスを取り囲む。堅苦しいドレスを脱がされ、お化粧や髪の飾りも丁寧に落とされる。そして、程よい温度に保たれた湯の中へと導かれた。


 湯に体を預けている間、侍女たちはかいがいしくアリスの体を綺麗にしてくれるし、翌日に浮腫みが出ないようにマッサージもしてくれている。髪の毛は、最近貴族の中で流行っている髪の毛がツヤツヤになるオイルで、ケアをしてくれていた。


 自分の体がみるみるうちにツヤツヤモチモチになっていく様は、一人の女性としてとても嬉しい。しかしこれが、ただ単に自分のためだけではないことも頭の片隅で分かっているため、純粋に喜べないのがアリスの本心だった。


 入念な湯浴みが終わると、アリスは今まで見たことのないようなネグリジェが用意されていた。


「ほ、本当にこれを着るの?!」


 思わず狼狽えてしまったアリスにはお構いなしに、侍女たちはそれをアリスの体へとすべらせていく。肩丸出しで肩の紐のみで支えられているシルクのネグリジェ。胸元のリボンと裾にあしらわれたフリルが可愛いが、きちんと布感があるのは胸周りだけで、それ以外は透けている。


「こ、これ下が透けてるじゃない!」


 王妃以前に侯爵令嬢でもあったため、アリスは普段から背筋を伸ばして凛としているが、この時ばかりは内股になり、前傾姿勢をとった。


「そんなに騒がなくても、これを羽織りますから大丈夫ですよ。」


 セリアが上からナイトローブを着せてくれる。それで幾分か安心したものの、これから起きることを考えるとアリスの心はざわめいて仕方がない。


 寝室の前の次の間まで、セリアだけが着いてきてくれる。


「……セリア。私って本当に大丈夫かしら。陛下に拒否されたら、とても怖いわ。」


 初夜に何をするのか、王妃教育の最終段階でアリスはしっかりと学習していた。しかし、それがまさか、自分の身に起こるなど、考えたこともなかった。


「大丈夫ですよ。」

「でも、少しだけ痛いんでしょう?」


 実はセリアは、アリスの乳母でもあった。だから、初夜を経験した身でもある。


「……きっと、陛下はお優しいから大丈夫です。」


 アリスを宥めるようにセリアが微笑む。月明りに浮かぶセリアの微笑みは、アリスに幼い頃を思い出させる。眠れない夜に、何度もセリアがこうしてアリスの側に居てくれたのだ。


「……セリア。」


 ぎゅうっとセリアに抱き付いた。セリアもアリスの肩を抱きしめてくれる。


「おやすみなさい。」


 覚悟を決めたアリスは、意志を込めた声でそう言った。


「おやすみなさいませ、アリス様。」


 セリアは一礼をして下がる。そっと寝室の扉に手をかけ重く感じるそれを開くと、後宮で使った寝室とはまた雰囲気の異なった部屋がそこにあった。


 一言で言うと、王妃の寝室にしては質素だ。


 寝台はとても大きいが、それがあるだけといった様だ。ふと目をやると、後宮にはなかったものがそこにある。ヴィクトルの寝室との続き扉だ。


 アリス以外誰も居ないのに、わっと体が熱を帯びた。あそこから陛下が入ってくるのかと思うと、なんだか破廉恥なものを見たような気分になったのだ。しかし、夫婦になったのだから、当たり前のことであると気持ちを落ち着かせる。


 そろりと寝台に近づくと、アリスの好きな香りがする。セリアの計らいで、アリスが少しでも安心するようにと、寝台に匂い袋が仕込まれているのだ。さらに、サイドテーブルにはアリスの好きなマーガレットが活けられている。


 侍女たちの心遣いに、アリスはほっと温かくなった。皆がこんなにも心を尽くしてくれているのであれば、自分も頑張らねばならないと思う。


 寝台の布団の柔らかさを確かめた後、そこに座っていかにもな形で陛下を待つのはどうかと思い、部屋の中をぐるぐると探検する。存在主張の強い寝台の他には、窓辺にテーブルセットがある。


 月夜でも楽しみながら愛を語らうのか、はたまた早朝の小鳥の愛のさえずりをそこで共に聴くのか。椅子をひいてそこに座ると、庭園がよく見える。


 まさか、ヴィクトルの妻になれる日がくるなんてとアリスは思う。誰にも知られてはいけないと、自分の感情を抑えてきたアリスだったが、今日のこの瞬間くらいは、その気持ちを開放してあげてもいいだろうと、ヴィクトルに思いを馳せる。


 アリスが行き遅れになっていた理由。それはもちろん、アリスが農業研究にのめり込みすぎていたこともあったが、実はそれだけじゃなかった。


 アリスの初恋は、ヴィクトルなのだ。


 図書館で出会ったあの日、アリスはヴィクトルに恋をしてしまった。窓から差し込む太陽の光が、ヴィクトルの金色の髪の毛に反射してとても綺麗だった。琥珀色の瞳はアリスをとらえて離さず、あの時のことを思い浮かべると今でも胸の奥が締め付けられる。


しかし、その恋心に気付いた瞬間、失恋が決定した。バルバラがヴィクトルと結婚をすることは、ベランジェールの次にアリスがよく分かっていたからだ。


 叶うはずのない恋心を抱えたまま、アリスは社交界デビューしてしまった。ところが、良いなと思う殿方に出会えば出会うほど、アリスの心の中ではたった一度しかきちんと話したこともないヴィクトルの存在が大きくなっていった。


 高等教育を卒業する頃には結婚することを諦め、生涯にわたって研究者として生きていこうと決めていた。そんなときに降って湧いたのが、ヴィクトルの後妻になる話だったのだ。


 はたから見れば喜んでいい話かもしれない。しかしアリスは、悲しい気持ちでいっぱいだった。ヴィクトルがアリスを慕っているから申し込まれた話であれば、アリスも手放しで喜べただろう。


 だが今回のこの結婚は、王妃を必要としてのもの。そこにヴィクトルの意志は関係なく、王妃になれる令嬢がアリスしか居なかったゆえだ。恋をしているアリスにとって、それほど辛いものはない。


 それだったら、自分のことを愛してくれる人の方に嫁いだ方がいくらかマシであるし、なんなら結婚などしない方がアリスは自由に生きられる。


 さらに、少しでも早く御子を誕生させるために、側妃を3人も娶られた。御子さえ産まれれば良いというのは、バルバラへの愛の証なのかもしれない。そう思うと、アリスはもっと胸の奥が締め付けられた。


 決してこの恋心を誰にも知られてはいけないと思い直して、アリスはヴィクトルが入ってくるはずの扉を見つめる。


「それにしても陛下は遅いけれど、まだ湯浴みをされているのかしら。」


 誰も居ない寝室に、アリスの声だけが響く。


 その夜、アリスの前にヴィクトルが現れることはなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る