第3話 32歳女性の場合

32歳女性の場合


自殺をしてしまう人のほとんどが、頭がいい人である。頭の回転の速い人はどんなに忙しくてもある程度頭の中で余裕がある。考えることができると、今の自分の現状や未来に絶望してしまう可能性が出てくる。それに、頭に体がついて来れなくなり、体を壊してしまう人も多い。頭の中を埋めてくれる人や物事を人は探す必要がある。暇は死への第一歩である。


天界はしっかりと休息を取ることが許されている。どんなに業務が忙しくても申請すれば休みをもらえる。地上でいうところの有給みたいなもの。さらに土日休日はお休みなので、かなりホワイトな企業だと思う。今日は土曜日で自分も休み。基本的に自分は仕事場でゆっくり過ごすのが好きなのだが・・・。


「伯斗さん!!せっかくの休日なのに仕事場に篭っていたらもったいないです!!外行きましょう外!!」


「俺はこうしているのが好きなんだ。1人で行ってこいよ。」


「1人なんて寂しいじゃないですか。」


「友達でも連れて行けばいいだろ。学校の同級生とかいるだろ。今日はどの部署も休みなんだから誘えばくるだろ。」


「私は伯斗さんと行きたいんです!!仕方ないですね。」


しおりは自分の腕を強引に掴んで外まで引っ張った。しおりがここにきてからもう随分経つ。だんだん仕事に慣れてきたのはいいが、少しお節介というか、しおりはわかっていないだろうが最近、距離が近い。性格もわかってきたので、こうなったら諦めるしかない。


「わかった。行くから。着替えだけさせてくれ。」


「そう言って逃げる気ですよね。なら、目の前で着替えてください。」


「はぁ?」


流石にそれは恥ずかしい。


「私は気にしないので。」


「しおりがしなくても俺がする。逃げないから着替えくらい1人でさせてくれ。」


「仕方ないですね。間をとって後ろを向くというところで妥協します。」


どこが間なのかはわからないが、見られないならそれでいい。背中にしおりの気配を感じながら自分は外用の服に着替えた。


着替え終えた自分は、後ろ向きのしおりに着替えたことを報告する。


「言われた通り着替えたぞ。」


全身真っ黒の自分の服装にしおりは、


「伯斗さんって着るものないんですか?いっつも同じ服着てますけど。」


服に関して興味を持ったことはない。極論、暖が取れて、隠せるところを隠せればそれでいい。ただ、明るい色は自分に似合わないので黒い服しか持ってない。それと、仕事着と外用、室内用だけは分けてる。理由は、スイッチが入るのと、失礼がないようにだ。


「別に興味ないからこれでいいかなって。別に変ではないだろ。流石に外に出るときに仕事着では休みって感じしないし、部屋着だと誰にみられてるかわからないからな。」


「変ってことはないですけど、なんか死神みたいですね。顔も少し怖いですし。そんなんじゃ、誰も近寄れませんよ。」


「いいさ。基本1人が好きだから。早くいこうか。時間もったいないだろ。」


しおりは何か閃いたみたいで、わかりやすく手を叩いた。


「わかりました。今日は伯斗さんの服買いに行きましょう。」


しおりの提案に自分は露骨に嫌な顔をする。ファッションに興味がない人にはわかってもらえるだろうが、服を買うときに1番めんどくさいのは試着だ。試着が嫌だから同じものを何着も買う。なんでメーカーごとにサイズが違うのか、ものすごく不満だ。


「ほら嫌な顔しないで、出かけますよ。」


しおりは自分と手を繋いで街に駆け出していった。


天界の裁判官にはそれぞれ移動車と運転手が着くようになっている。偉いとかそういうことではなくて、シンプルに危険が伴うことがあるからだ。裁判結果に納得のいかない親族が裁判官を襲ったという事件が何度も起きて、仕方なく裁判官の移動にはライフルで傷一つつかない車を用意するということになった。少しオーバーなものに感じるが、実は便利で日常的にかなり使わせてもらっている。


「きょうはどこまでいきましょうか?」


「服屋さんにいきたいのでショッピングモールまでよろしくお願いします。」


自分に断りもなくしおりは運転手に行き先を伝える。


「服屋ですか?珍しいですね。」


「伯斗さん、こんな服しか持ってなかったんっで私が色々と選んであげようかなって。」


「そうでしたか。では、いきますか。シートベルトしっかり閉めてくださいね。」


運転手は車を走らせた。


車の中から見える景色は下の世界と何も変わらない。唯一違うのは若い人がほとんどだということだ。それもまだ高校生くらいの人が多い。思い出の深かった姿で天界では過ごすのでほとんどの人が若い姿で天界での生活を送る。人間は18歳までで、体感する人生の半分を終えるらしい。感動するもの、心が動くもの、初めてするものがなくなると時の流れが早くなる。歳をとるごとに1年が早くなるのはそのためらしい。


1時間後。


「到着しました。」


どうやらショッピングモールに着いたらしい。隣でしおりは寝息を立てていた。


「おい、起きろ。ついたぞ。」


自分に起こされて目を擦りながら目を開ける。


「ありがとうございます。さあ、伯斗さんいきましょう。」


しおりはドアを開けて外に出る。


「では私はここで待ってますので。」


「ああ。よろしく頼む。」


自分も外に出ると、馬鹿でかいショッピングモールが出てきた。


「何度見ても慣れないな。この大きさ。」


自分たちが住んでいるところはいわゆる都会なところ。人が多く住んで、1番活気があるところ。裁判官は好きなところに住むことができるが、基本的に都市部に多くの人が住んでいる。理由は簡単で、便利なのと警備隊の質が良く安全だからだ。


「本当に大きいですよね。ここ。」


自分たちの目の前に立っている建物の大きさは富士山1個分くらいある。誰がこんなに大きくしろと言ったのかわからないが、下から見ると上の方は全く見えないくらい大きかった。入っている店も何万と数があり、回るだけで2年くらいかかりそうな感じだ。中にはなかなか怪しい店も入っているのだが、そこまで警備が回っていないことが問題になっている。


「見惚れてる場合じゃありませんでした。早く買いに行きましょう。」


しおりは足早に建物の中にはいっていく。自分も乗り気ではないが仕方なく中にはいった。


建物の中にはたくさんの人で溢れかえっていた。最近、地上で流行っている食べ物が天界店を建てたとかなんかで、行列ができていた。なんか奇妙な色のしたスイーツだった。


「あっ!あれ。私も食べたかったんですよね。」


「しおりもああいうの興味あるんだな。」


「流行とかはちゃんとチェックしてますよ。これでも女の子ですから。伯斗さんはこういうの興味ないんですか?」


「流行り廃りを追ってたらキリがないからな。それに流されているのも嫌だ。好きならそれを追い求めたいかな。」


「伯斗さんってすこし、棘あること言いますよね。」


「別に、流行っているものが好きな人を否定しているわけじゃないが、夏の虫みたいにあんなに集まってでも、同調しなきゃいけないのかと思うね。」


「ほら、やっぱり。一言余計ですね。」


「もういいだろ。早く買い物するぞ。」


自分は当てもなくショッピングモールのなかを歩き出した。しおりは『もー』と言いながらついてきた。


「で、今日はどこにいくんだ?」


「確か、服屋さんは12階からだったはずなので、まずは上に行きますか。」


しおりに誘われるがまま、エレベーターに乗ると、すごい人数が入ってきた。人に押されて自然に2人の距離が近くなる。


「あっ!」


しおりが人に押されて、体制を崩すと自分は仕方なくしおりの肩を持って自分の体に密着させた。


「狭いから我慢しろよ。変なことされたら言えよ。」


「今は伯斗さんに変なことされてます。」


自分はため息をついた。エレベーター内ではいろんな人が会話をしていて、少しうるさいくらいだったが体を通じてしおりの心音が聞こえてくる。少し早かった。


人も少なくなってきて、しおりを抱える意味もなくなってきた。自分は腕をしおりから離した。


「もう離れて大丈夫だぞ。」


「もう少しだけ。もう少しだけ、私のこと抱えていてください。」


要望の意味がわからなかったが、目をうるっとさせてお願いするしおりのことを少しだけ可愛いと思ってしまった。彼女はビジネスパートナーでこんな感情を持ってはいけない。そういえば、今まで1人だったからこういった経験はなかった。


「もうすぐ着くからそれはダメだな。何かあったのなら後で聞くから、そろそろ着くぞ。」


「そういうことじゃないのに。」


しおりは聴こえるか聞こえないかの声で囁いた。何か言ったのは聞こえたが何を言っていたのかはわからなかった。


「ん?」


首を傾げて、自分が少し聞き返すと、


「大丈夫です。行きましょう。」


しおりは自分から離れて、扉が空いたエレベーターから出て行った。


服屋さんが並ぶ階には、さっき見た流行のスイーツの店ほどではないがある程度の人がいた。その誰もが必ず、2人1組で手を繋いでいた。カップル感丸出しで、過剰にイチャイチャするカップルもあった。


「こんな光景、子供には見せられないな。」


「そうですね。若い体を手に入れた人が、新しい恋始めてるんですよ。地上での組み合わせになることはあまりありませんから。それで舞い上がっているんじゃないですか?最近、ニュースにもなってましたし。」


「結婚とか付き合うってそんなに嫌なことなのか?生きていた時の俺は結婚したこともなければ、お付き合いもなかったから、わからない。」


「そうなんですか?」


少し驚いた感じでしおりが自分に詰めてきた。


「生きてた頃はそんな余裕がなかっただけだ。もともとそんなに興味もなかったし。でも、仕事上いろんな人の人生を見るとこういうのもいいのかもしれないと思うだけだ。」


「そんなことも思うんですね。少し意外でした。」


「ずっと1人だったからな。寂しくなることも少なくなかったから、羨ましいのかもしれないな。さて、この雰囲気は少し苦手だからさっさと買い物済ませて、帰りたいのだが。」


「わかってますよ。行くところの目星はついてます。ついてきてください。」


濃いピンク色の雰囲気の中を押しのけて並んで歩いた。


しおりが目星をつけていた店に着いた。意外にもシックな感じの店だった。もっと、ピンクとか着させれるのかと思ったがこのお店なら大丈夫かもしれない。


「いらっしゃいませ。って、しおりじゃない。」


「久しぶりー。」


なるほど、友人の店に自分を連れてきたのか。


「どうも、初めまして。しおりとはどういう関係なんですか?」


「ただ職場が一緒で上司だよ。」


「じゃあ、裁判官さんだ。」


明るく話しかけられた。しおりの友人は社交的な人が多いのかな。


「今日は伯斗さんの服買いに来たの。この人、普段着これくらいしか持ってないらしいから」


「確かに、少し地味かな。せっかく顔はいいのに勿体無いって感じ。」


「そうなんだよ。せっかくかっこいいのにもったいなくて。」


しおりの友人は自分をマジマジと見ながら、しおりと会話を続ける。


「じゃあ、私たちでコーディネートしてあげよっか。」


「そうだね。2人がかりの方がいいかも。」


ここから数時間は地獄だった。脱いでは着て、脱いでは着てを何回も繰り返した。一生分着替えをしたんじゃないかと思った。これだから、服を買うのはいやだ。2人は着せ替え人形で遊んでいるみたいに楽しんでいた。


「もうそろそろ勘弁してくれ。」


弱りきった自分を見て、2人は楽しそうだった。


「伯斗さんがそんなに弱ったの初めて見ましたよ。本当にいやなんですね。」


「それで色々着たけど、いいのあったか?」


2人は目を見合わせて答えた。


「それがどれも似合ってるので、どれでもいいかなって。」


今までの時間はなんだったんだ、と言いかけたが、真剣に悩んでいるしおりの顔を見て、それはやめた。


「なら、しおりがいいなって思ったやつ全部買うから。それで勘弁してくれ。」


実際のところ、あまり散財しない自分はそこそこ持っている。値札を見てもそこまで高い店ではないから大丈夫だろう。


「そう言われちゃうと悩むな。」


そう言いながらしおりは次々と服をカゴに入れていった。


約束通りしおりがいいと思ったものは全て買い、会計を済ませた。会計を済ませて、店を後にする時にしおりの友人から、「ちゃんとあの子のこと見ていてくださいね。離さないでください。」言葉の意味はわからなかったが自分は「もちろん。」と答えて店を後にした。


「何言われたんですか?」


「いや、ちゃんとしおりのこと見ておけとか、離すなよとか。」


自分が答えるとしおりの顔は真剣な面持ちになった。


「それで何て答えたんですか?」


さっきより声が小さくなったがギリギリ聞き取れたので、


「もちろんとは答えたけど・・・。」


「そうですか。よかった。」


しおりは嬉しそうに顔を明るくさせた。


「じゃあ、買い物も終わったんでご飯食べましょ。もちろん伯斗さんの奢りで。」


「わかったよ。服選んでくれたお礼も兼ねてな。」


自分たちはご飯屋さんが集まる階に行き、ご飯を済ませた。


2日後。


休日明けの出勤は天界でも地上でも辛い。今回の休日はいつもと違って外に出て買い物をしたので幾分疲れが残っている。やっぱり休みはしっかり休むに限る。


「おはようございます。」


今日も元気なしおりが出勤してきた。早速、今日の分の資料をもらう。


「今日は女性ですか?」


「そうみたいだな。今まで女性は苦手で少し憂鬱だったけど、しおりがいればなんとかなるかもな。なかなか心を開いてもらえなくてなかなか本題に入れなかったんだ。」


生きていた時も、あまり女性と関わる機会がなかったので、いまいち何を言っていいのかわからなかった。


「伯斗さん女性にはかなり鈍そうですもんね。」


しおりから失礼な発言が聞こえたがここはスルーしておく。


「早く迎えに行くぞ。」


「はい。わかりました。」


自分たちのいつも通りの業務がはじまった。


呼びに行った女性は少し緊張した面持ちで不安そうに自分ことを見ていた。女性のその顔に自分はどんな顔をして迎え入れればわからなかったのでその人のことをずっと見てしまった。


「大丈夫ですよ。緊張しないでください。この人少し口下手で雰囲気は怖い方ですけど、中身は見た目よりはだいぶ優しい方ですよ。」


しおりの一言にすこしだけ緊張が解けたのか、しおりには笑顔を見せていた。


その女性の名前は、黒木薫。年齢は32歳で、独身。I T系の会社で事務をしていて、兄弟が下に妹が1人いた。


「できる範囲でお答えください。無理に発言することはありません。自殺を思い立った経緯を教えていただけますか?」


彼女は沈黙したままでなかなか答えてくれなかった。


「言いにくいことなら私に言っていただけたら、私が伝えますので。」


しおりが近くによると、彼女はしおりに小声で質問の答えを言った。しおり伝いに聞いたのは失恋だった。婚約まで行った彼が他の女性との間に子供を授かってしまったため、婚約破棄。浮気をされてたことに絶望して自殺をしてしまったらしい。


「そうでしたか。ありがとうございます。辛い経験を話していただいて。では、時間もないので判決にいきましょうか。」


いつも通りの流れでスムーズに判決を彼女に言い渡す。


「あなたに1日差し上げます。その1日で自殺をしたことを後悔してください。」


しおりは彼女を立たせて、機械の中で寝かせた。


「では、また1日後にお会いしましょう。」


強い光は彼女を包んだ。


私が意識を取り戻したのは見知らぬ部屋のベッドの上だった。確かさっきまで裁判を受けていて、変な機械の中に入れられて。そんなことを考えていると扉がノックされた。


「目が覚めましたか?」


白衣を着た少し歳のとった男性が部屋に入ってきた。


「すいませんが勝手に財布の中を確認させていただきました。黒木薫様でよろしかったですか?」


「はい。」


「記憶がないみたいなので状況を説明しますね。あんたがここに運ばれてきたのは昨晩の深夜3時ごろでした。お連れ様が倒れたということで救急車が呼ばれて、眠っている間に検査をしました。急性のアルコール中毒でした。昨日かなり飲んだんじゃないですか?」


断片的な記憶だがだんだん思い出してきた。確か、彼の浮気が発覚して、同居していた家を出たのはいいものの行く宛がなくて会社の後輩の宗介に連れられて、やけ酒をしたんだった。


「先輩起きましたか?」


少し甲高い声の後輩が目を覚ました自分に駆け寄ってきた。昨日出社したままの姿で、手には温かいココアを持っていた。


「さっき状況を説明しました。何も問題はなさそうなのですぐにでも退院していいですよ。お金も後日払っていただいて結構です。」


「ありがとうございました。」


白衣の医師は病室から出て行った。


「宗介くんが救急車呼んでくれたの?」


「はい。めちゃくちゃな量飲んでいるので心配してたんですけど、案の定倒れてしまって、意識もなかったんで急いで呼びました。」


「ありがとね。助かった。」


「いいえ、いつも先輩には助けてもらってばかりだったのでこのくらい。かなり傷心していたみたいだったので、飲みに誘ったのは僕でしたし。」


「昨日の私、変なこと言ってなかった?」


「言ってましたよ。私を捨ててあんな女に手を出すなんてとか、あんな女のどこがいいのかわからないとか。もう、お店の中で結構なボリュームで話していたんで先輩を抑えるのに必死でしたよ。」


酔った勢いとはいえ少し恥ずかしい。


「ごめんね。」


「いいえ。僕も思いましたもん。先輩という方がいながら他所で子供作るなんてって。」


「もしかして、私、そこまで言ってた?」


「はい。大きな声で。」


酔った勢いで自分が発した愚行に、恥ずかしさがさらに込み上げてくる。宗介くんから目を話して正面を向くと時計とカレンダーが見えた。


「今日って何曜日だっけ?」


「木曜日ですけど。」


「早く会社行かないと。」


時刻は9時。行ったところで遅刻は免れられない。


「大丈夫ですよ。会社には休むっていておきましたから。部長も仕方ないから今週はもう来なくていいって言ってくれましたし、僕も特別に先輩のお世話ならと、休みいただけました。」


「もしかして、会社にも話しちゃったの?」


「はい。いけませんでしたか?」


宗介くんは素直でいいのだけども、少しだけデリカシーがないところが玉に瑕。そんな宗介くんにため息が出た。


「あと、先輩、帰る家ないですよね?次の家が見つかるまでうちに来てください。一人暮らしには少し広いので先輩1人くらいなら何にも問題ないですよ。」


急な展開だったが、その言葉に甘えるしかなかった。家がないのは少しまずい。


「そう?なら少しだけお世話になります。」


行く宛もできたので私は、退院の準備を宗介くんと一緒にした。


病院を出ると、宗介くんはすでにタクシーを呼んでいてくれていたみたいでそのタクシーに乗ってすぐに宗介くんの家に向かった。途中、大型スーパーに寄ってもらって、必要最低限のものを揃えた。下着とか。同じのを何日も着るのは嫌だった。後輩とはいえ、男性の家に行くのだから少しくらいそういうことも意識しなかったわけではない。身だしなみだけは気をつけないと。


買い物を終えて、タクシーに戻ると宗介くんは眠ってしまっていた。


「彼氏さん相当、疲れてるみたいでしたよ。」


「彼氏じゃないですよ。ただの会社の後輩です。」


「そうですか?さっきこの方がそうだと、言ってましたけど。」


「はあ?」


気持ちよく寝ている宗介くんには申し訳ないが、彼が案内しないと彼の家になんかつかない。寝ている彼の頬をつねる。若いからか絹みたいに綺麗で、牛乳のように白く、低反発枕みたいに柔らかかった。でも、スキンケアはあまりしていないようだった。少し腹が立って、強めにつねる。


「痛いじゃないですか。」


「運転手さんに変なこと言った罰です。宗介くんが案内にしないと家わからないんだから。」


「お連れさんも起きたみたいなんで出発しますか。」


「よろしくお願いします。」


少し強めにつねってしまった彼の頬は、下の白さの影響か、赤くなってしまっていた。彼はつねられてた頬をさすりながら、運転手さんと笑顔で話している。なんだろう。綺麗なものを汚してしまった感じがして罪悪感を覚えた。


スーパーから彼の家はそこまで遠くなく、ものの数分でついた。運転手さんと別れて、彼の住んでいるところを見上げると思合わず口が開いてしまった。そこには会社員では到底手に入れることのできない大きな建物があった。


「ここの最上階です。最上階は壁をぶち抜いているので自分しか住んでいないのでかなり広いですよ。」


さらっととんでもないことを言われた気がする。最上階で壁をぶち抜いている?衝撃的すぎて開いた口が塞がらなかった。人間って本当に驚くとこうなるんだ。


「先輩面白い顔してますよ。」


驚いている自分の顔を見て彼は笑っていた。


「宗介くんてなんなの?」


「お酒飲みすぎて忘れましたか?あなたの後輩ですよ。」


そんなこと聞いているわけではない。自分が真剣な質問をしているときにふざけて返答されるとこんなに腹が立つものなのかと感じた。


「あと、親が不動産経営していて、ここら辺の一体のマンションを持っていることぐらいですかね。」


私が聞きたいことはさらっと流すように彼の口から聞くことができた。


「玄関にいるのも、邪魔なので早くうちに入りましょうか。」


聞きたいことはまだあったが、仕方なく彼の言葉に従った。


高層マンションということもあって、エレベーターに乗る時間が異様に長い。うちの会社でもこんな長いことエレベーターには乗らない。マンションで自分の部屋に戻る感じなので、エレベーター内で2人っきりの時間が続いた。その中では何も話さなかった。


最上階に着くと3つほどの扉が見えた。本来なら3家族分を補える部屋があったのだろうが、壁がぶち抜いてあるということだったので、二つの扉は意味を成していないのかもしれない。当然のようにオートロックで、カードキーと指紋認証、虹彩認証で鍵を開けていた。


「入ってください。」


彼の言葉に従い、部屋に入る。無駄にでかい玄関と人が住めそうな広さのあるウォークインクローゼットが迎えてくれた。しかし、せっかくこんなに大きな収納があるのにそこにあるのは靴が5足くらいだった。


「僕、靴にはあまり興味がないんですけど、こんな大きさの靴箱どうしようかと思って困ってるんですよ。」


彼が言った言葉に理解が遅れた。


「靴以外を入れればいいんじゃないの?」


私が不意に言ったその一言に彼は目を輝かせながら、


「それだ。」


と、まるでそんなんこと考えたこともないみたいな感じで言った。


「普通こんな大きかったら、他にも水とかのストック置くもんじゃないの?」


「そうなんですか?僕、父親からこの部屋をもらった時に下駄箱って言われたので靴以外おいてはいけないのかと思ってました。」


馬鹿なのか、純粋なのか、少し抜けているのか、世間知らずなのか。おそらく最後のやつだと思うが、そんな彼の一言にため息が出た。


彼の世間知らずさは、実はもともと知っていた。初めて彼と会ったのは、彼が入社して、私が彼の教育係になったときだ。礼儀正しいし、敬語も完璧、清潔感もあってとても好印象だった。彼のことをおや?と思い始めたのは、入社して3日目のこと。私は彼が昼食に桃の缶詰を食べようとしているところを目撃した。昼食に桃の缶詰?と思うところもあったのだが、桃の缶詰がめちゃくちゃ好きなのかなと自分を納得させていた。自分のデスクに戻ると20分経っても彼は戻ってこなかった。何しているのかなと心配になった私は最後に彼の姿を確認した給湯室を見にいった。結果的に彼はそこにはいたのだが、買ったままの状態の、桃の缶詰の前で腕を組んで立っていた。「どうしたの?」と聞くと「開け方がわからない」とかえってきた。最近の子はそうなのかなと、仕方なく自分が開けてあげると驚いた顔でお礼を言ってきた。それだけではなく、電話のかけ方が分からなかったり、ファミレスのピンポンで感動したり。一般的な人が日常生活で必ず体験するようなことを知らなかった。今回、彼の家に来て確信した。この子、本物だって。


私は、外仕事もこなせるようにはいていた低いヒールを脱いで、いよいよ彼の部屋に入っていった。リビングまでにはいくつも部屋があって、お風呂場だったり、トイレだったりを紹介されて、おそらく1番広いであろうリビングに案内された。私の勝手なイメージだが、男の1人暮らし、部屋はてっきり汚いものだと思っていた。彼の部屋は物が少なく、綺麗だった。


「きれいにしてるのね。」


「僕あまり物を持たない人間なんで、必要最低限生きるためのものがあればいいと思っている人なので。」


本当に必要最低限なものしかなかった。ある家具といえばテーブルに4脚の椅子、ソファーにテレビくらい。少し寂しい感じもした。ぼやっとしていると足元に何かぶつかる感じがした。それはこの広い部屋を担うにはあまりにも小さいロボット掃除機だった。


「君1人でこの部屋掃除してるの?大変だね。」


私が話しかけるとロボット掃除機はそっぽを向いて、自分の仕事に戻った。


「先輩って面白いですね。反応が変えてくるはずもないのにロボット掃除機に話しかけるなんて。」


「そうかな?小さい頃からよくぬいぐるみに話しかけていたから、そういう癖がついているのかもね。たとえ、反応がなかったとしても頑張っている姿を見たら応援したくなるじゃない。それに付喪神っていう風習も日本にもあるしね。ものでも健気に頑張る姿は愛おしいと思うけどな。」


「そうなんですか?なら、僕も頑張ったら先輩は愛おしいと思ってくれますか?」


「なんでそうなるのよ。宗介くんは十分愛おしいと思うけど。この会社に入ってきて初めて教育係を担当させてもらった人だし、時々見せる世間知らずなところもほっとけない感じで可愛いかなって思ったりはするけど?」


「可愛いは嫌なんです。」


そういうと彼は私の肩をもって強引に唇を奪ってきた。いきなりのことで頭がショートした。抵抗しない私を見てゆっくり唇を離した彼は、


「可愛いは嫌なんです。こう見えても僕も男です。好きな人にはかっこいいって思われたいし、誰よりも愛おしいと思って欲しい。先輩には彼氏がいてその人と婚約したって聞いた時は、諦めてました。でも、彼氏さんが浮気をして先輩が悲しんでいるときに、怒りと共にチャンスだて思ったんです。」


熱暴走した機械みたいに時間をおけば頭がショートしたのも治るわけで、私は彼の言葉を静かに聞いていた。私に言葉を投げかけてくれている彼は、少し男らしくもあって、わがままな子供のようにも見えた。


「さっきはいきなりすいませんでした。少し頭冷やしてきますね。」


「待ってよ。まだ返事してないじゃない。」


「えっ?」


振り向く彼の唇に私は自分の答えをのせた。


自分より少し身長があって、元婚約者より華奢な体は優しく私を包み込んでくれた。失恋からの出来心だったのかもしれない。傷心で少しでも心を癒すためにした行動だったかもしれない。でも、そうだったとしても、今は彼から目をはなすことができなかった。


「飲むもの持ってきますね。」


そう言って彼は私から離れていった。自分から離れていく彼を見ていると寂しさがこみ上げてきた。私は彼の後を追って冷蔵庫の中を物色する彼の背中に腕を回す。


「意外でした。先輩って甘えたちゃんなんですね。」


「悪い?」


「いいえ。可愛いですよ。いつもピシってしている先輩とギャップがあって。」


私はいまだに先輩呼びの彼に少しむかっときた。


「いい加減先輩呼びやめてよ。」


「やっぱり名前で呼ばれたいものなんですか?薫?」


いきなり呼び捨ての名前呼びにドキッとした。少女漫画でよくありそうな言葉を選んでしまった。少し憧れていた状況ではあったが、こういうことができる人なんだと少し残念な気もした。


「宗介くんは昔相当モテたでしょ?女の子手玉に取るのうまそうだし。」


「薫も君付けはやめてよ。まだ、子供扱いされてるみたいで嫌だ。」


「お子ちゃまにはくんでいいのよ。で、どうなの?モテてきたでしょ?」


彼はわかりやすく頬を膨らませてそっぽを向いた。少し怒らせてしまたかな?


「ごめんよ。宗介。」


申し訳なく、彼の名前を呼ぶ。すると、彼は物色するのをやめてお腹のあたりにある私の手を握ってきた。


「初めてですよ。」


「え?」


小声であまり聞こえなかった。


「先輩が初めてです。人のこと好きになったことがなかったので。さっきも自分の初めてでしたし、家に女性がきたのも、女性と2人っきりになるのも初めてです。」


顔を赤くして、私の質問に答えてくれた。私に撮ってみれば少し衝撃的な答えだった。顔は可愛らしいが整ってる。いわゆる犬系のイケメンって感じで、性格は優しいし、運動はわからないが、決して頭は悪くない。高スペックな男性って感じだ。


「実は・・・。」


彼が話し始めようとすると冷蔵庫の開けっ放し防止のブザーがなる。話の腰をおられた彼は冷蔵庫の中からミネラルウォーターだけを取り出して、用意してあった2つのコップに注いだ。


コップをテレビ前のテーブルにおいて隣り合わせになってソファーに座る。


「さっきの話の続きが聞きたいな。」


私がそういうと、彼はコップに注いだミネラルウォーターを口に運んでさっきの話の続きをしだした。


「実はうちの父親がよく違う女性を連れてくるような人で、その人たちが毎回同じように僕に当たってきたんです。そこから女性が怖くなって、学校でも学校の外でも女性を避けるようになったんです。うちお金持ちなんで、うちに来る人が全員父親の財産目当ての人だけでした。そこから、自分によってくる女性はみんな財産目当てだって思うようになって、女性が好きになれなくなったんです。」


いわゆる女性恐怖症なのかな。まあ、昔から女は美貌、男は権力とはよく言ったもので、権力やお金の持っている男はモテる。それ目当てで近寄ってくる女も少なからずいるだろう。とはいえ、彼の父親はとことん女を見る目がなかったみたいで、その被害が彼に降りかかってきたみたいだ。


「なんで私は大丈夫なの?」


「薫は僕のこと知らなかったし、今まで敏感に女性に反応していたから、ある程度どういう人かわかるんです。この人なら大丈夫だな、お金目当てじゃなくて自分のこと見てくれる人だなって。」


「そうなんだ。」


恐怖を感じるからこそ、その存在のことをよく見ることができる。彼は知らず知らずにそういうことができてしまっていたのかもしれない。


「僕の家に先輩を呼ぶのが怖かったんです。もしかしたら、自分のことを見る目が変わってしまうかもしれないって。でも、薫は変わらなかったから。」


彼の手を見ると少しだけ震えているのがわかった。たとえ、自分の目で確かめても不安な部分が拭えていないのだろう。彼が少し子供っぽい雰囲気を持っているところも今までの話を聞いていて、説明がつく。1人で苦しんでたんだ。誰にも明かさずに。そんな彼が愛おしくなって、震える手を取り、自分の胸に抱き寄せた。


「そうか。ありがとう。話してくれて。大丈夫だから。これからは私もいるから。」


彼は自分の腰に手を回して、強く私を抱き寄せた。初めて女性から感じる安心感だったのかもしれない。自分が着ているワイシャツが湿っていくのを感じた。


10分くらいたっただろうか。彼は泣き切ったのか、私の胸から顔を離した。


「すいません。カッコ悪い姿見せちゃいました。」


「そんなこと気にしないで。私も、昨日宗介に弱い部分見せたからお互い様。辛いなら泣けばいいし、面白かったら笑えばいい。感情を出せるって素晴らしいことよ。それに私は、そんな宗介が好きになったんだから。」


宗介はその言葉を聞くと、赤い目を擦りながら、照れているのか、私から目を逸らして立ち上がり、コップを持って冷蔵庫に向かった。そんな彼のことを可愛いなと思いながら、自分もコップに注がれているミネラルウォーターを口にした。


キッチンから戻ってきた彼が話しかけてきた。


「この後買い物行きませんか?さっきの買い物じゃここで一緒に暮らすなら全然足りないと思うので。」


「本当にここに住まわせてもらっていいの?」


「遠慮なんてしないでください。恋人がいま家がないならここで一緒に暮らすっていう選択肢しかないと思いますよ。」


「付き合ってからいきなり同棲か。まあ、宗介ならいいかな。お互い知ってる仲だし。それにしばらくはここでお世話になる予定だったしね。でも、本格的にここで暮らすってなったら、布団とかも買わなきゃいけなくなるから、相当な荷物になると思うんだけど、移動手段はどうするの?」


「それは問題ないですよ。僕結構大きめの車持ってますし、流石にベッドとかは入らないので、寝るときは一緒じゃだめですか?」


チワワみたいな目で私のことを見つめてきた。そんな目を見て断れるわけがなく、


「仕方ないけど、まだそういうことは禁止ね。」


「そういうことってなんですか?」


年頃の男がそういうことを知らないわけがないと思っていたが、彼の頭の上にははっきりと?が見えた。嘘でしょ。本当に知らないかもしれないと彼の表情を見て思った。


「宗介もいい歳なんだから、女性に興味持ったりしてこなかったの?」


「だからさっき言ったじゃないですか。女性は僕にとっては恐怖の対象でしかなかったんで、女性のことを好きになるのが初めてだって。」


「それでも・・・。」


「ああ、わかりました。言いたいこと。でも、今はそういうことはしませんよ。真剣に、純粋に、薫といたいんで。」


彼の言葉に嘘はなかったと思う。そういう関係じゃなくて、ずっと一緒にいたいと心の底から言っていると感じた。その言葉が純粋に嬉しかった。


「この話はもうおしまいにしましょう。さっさと買い物行かないと帰る頃には真っ暗になってるかもしれないですし。」


「そうだね。」


彼は一つの部屋に私を連れて行った。ここが私だけの部屋らしい。見られたくないものや、私物はここにおいていいらしい。足りなかたら隣も使っていいということだったが、前の彼氏と住んでいた時の自分の部屋よりもかなり広かったので問題なかった。私たちはそれぞれ自室で着替えを済ませて、駐車場にある彼の車でさっき行った大型スーパーではなく、少し離れたアウトレットのような商業施設に向かった。


今日は平日とはいえども、かなりの人がそこにごった返ししていた。大学生らしい若いカップルだったり、文化祭の買い出し中の制服姿の高校生くらいの人、ため息をつきながらおそらく営業が失敗した感じの若いスーツ姿の社会人もいた。


「大変そうですね。」


彼はその社会人を見てつぶやく。


「同じような仕事してるから余計にそう感じるかもね。」


営業の仕事は事務的なものよりも顕著に成績で差が出てしまう。商談成功の数が目に見えてわかってしまうからだ。私も、新人の頃は全く相手にしてもらえなかった。老舗の年齢のいった老害には女だからと言って、話すら聞いてもらえなかったこともある。そうした輩にはとことんしつこく付き纏った。私の経験上、こういった人間はめんどくさがりが多いので最終的には契約をもらえた。その老舗は後々その人の問題行動が出て業績が悪化して、時代に潰された。まあ、私としては契約を取れたことで社内での評価も上がって、担当が変わって合わなくて良くなったので別に気にしてない。そういえば、宗介は入社してすぐに何個も契約を取ってきていた。


「宗介は最初から優秀だったから。」


「そんなことないですよ。僕だって、新人の時は緊張して出してくれたお茶も何度もこぼしてましたから。ガラスの扉に頭をぶつけて笑われてこともありましたよ。」


彼の営業成績がいいのは、おそらく愛嬌だと思う。人のテリトリーに入っていくのがうまく、入ってこられても嫌な感じが一切しない。持って生まれた性格のあれば女性が怖いということもあってオドオドしてしまう。そういうところも可愛く思えてしまうのだと思う。あと、できないけどその仕事に対して真剣に向き合って、いろんな職業に興味津々なのも、彼の大きな武器。よく一緒に営業先を回るのだが、彼と行く時だけはみんな笑顔で送ってくださる。


人混みをかき分けながら、生活に必要なものを買い揃えていく。手持ちがあまりないのでできるだけリーズナブルに抑えたい。女性の買い物の中で高くなるのは大体、服と化粧品。ここをどれだけ安く抑えるかで勝負がきまる。いつもならブランドものの化粧品を使っているのだが、この前百円ショップでいい化粧品があるとテレビで紹介していたので化粧品は全て百均で済ませた。これは明日、つけてからのお楽しみ。服は某有名なメーカーが安くて質の良いのがあるのでそこで一式揃えた。下着くらいは良いのをつけたいので、宗介の好みも聞きたかったが一緒に入るのを拒否されたので彼が好きそうなのを想像して選んだ。


一通り買い物を終えると、


「そうだ。僕も買いたい物があったんで買って来ますね。」


「それなら付き合うよ。」


「いいえ。荷物も多いですし、ここで待っててください。」


そういうと彼は、小走りでどこかへ行ってしまった。突然一人取り残される形になったので、少し寂しい。


「あれ?薫じゃない?」


私が俯いていると、聞きたくもない、最悪のやつの声がした。


聞き覚えのある、私を捨てた男が私の目の前にいた。


彼の名前は石田蓮。元々は大学の同じゼミで一緒に研究をしていた。その時彼は同じゼミの女と付き合っていたため、何も進展はなかったのだが、大学を卒業して4年、久しぶりにゼミのみんなで集まろうということでみんなと集まった。そこには彼も彼の彼女だった女もいた。大学卒業時には別れていたという話は聞いていたので、二人の距離は離れていた。その飲み会が思いのほか盛り上がってしまって、お酒をたらふく飲んだ私は、泥酔。その時に私の介抱してくれたのが目の前にいるこいつだった。顔はかっこいいので、少し私自身気にはなっていた。でも、その当時は他に女がいたのでなんとも思わなかった。私はお酒の勢いでこいつと関係を持ってそのまま付き合うことになった。お互い仕事はうまくいっていて、なおかつ職場も近かったので、結婚のことも考えて同棲するようになった。ただ、この男、前の彼女である同じゼミの女との関係は続いていて、今回その女に妊娠が発覚して私が捨てられるという流れになった。その女は、顔は可愛いので周りからはベストカップルと言われていたが、ゼミ内での評判は最悪で、わがままいい放題の女王さま気分。自分の仕事は全て男の方がしていた。だからこそ、この女に盗られたことが屈辱でならなかった。そんな二人が私の目の前にいる。


「あれ?薫じゃない?どうしたのここで?」


女の方が話しかけてくる。俯いているので表情はわからないが、馬鹿にしたような口調なのはわかる。関わりたくないので、無視していると、


「ちょっと、無視とか態度悪くない?せっかく話しかけてあげたのに。」


誰もそんなこと頼んでない。むしろここからさっさと消えてほしい。


「そうか。私に蓮のこととられて話したくないんだ。」


女は嫌みたらしく、周りに聞こえるように話していた。隣でやめろよとは言ってるものの、本気で止める気のない私を捨てた男。いい歳になっても、このわがまま娘は変わっていなかった。それはこいつも一緒。


「いい加減顔上げろよ。」


痺れを切らした、女の方が私の顎を掴んだ時にその腕を掴んだ手が見えた。


「いい加減してもらえますか?警察呼びますよ?」


その手は宗介のものだった。


弱々しく少しずつ私は顔を上げた。


「大丈夫だった?びっくりしたよ。知らない人に絡まれてんだもん。」


彼は優しく私に微笑みかける。彼の腕には筋肉の筋が出ていた。私の前では笑ってくれているが、心の中ではグツグツ煮えたぎるものがあるみたいだ。


「ちょっと、邪魔しないでもらえますか?私たちの問題なので。」


「そうですかね?自分には嫌がらせをしているようにしか見えませんでしたし、あんな大きな声で話していたら周りの方々もいい思いはしないでしょう。それに彼女の顔を見たら放っておけるわけないじゃないですか。後ろにいる男性の方も止める気は全くないようですし。」


「あんた関係でもあるの?部外者が黙ってなさいよ。」


「関係は大有りですよ。自分は薫さんの後輩で、今はどこかの誰かに追い出された彼女を家に向かい入れてるんですから。」


宗介は後ろにいる蓮に向けて睨みつけるように視線を向けた。その視線を感じると蓮は視線を逸らして、腕組みをした。


「もう関わらないでもらえますか?あなた方がいると迷惑極まりない。せっかく新しく歩みを進めようとしている先輩の邪魔でしかないので。」


「随分この女の肩を持つじゃない。もしかして、そういう関係なの?」


「そうですね。悪いですか?」


「なかなかやるわね、この女。やってること変わらないじゃない。」


「そうでしょうか?後ろにいる顔だけの男を奪うために妊娠したと嘘ついてまで奪ったあなたほどではないと思いますよ。それに薫さんはずっと一途に後ろのトンデモ男のこと思ってましたよ。昨日までは。」


宗介の口から出た驚きの一言に私と蓮は戸惑った。女の顔は急に青ざめた。


「おい、どういうことだよ。」


蓮はこの女のことを問いただす。女は何も言わずに宗介の腕を振り解いて、逃げるように去っていった。


「よかったです。薫に怪我がなくて。」


「さっき言ってたことって本当なの?」


「ああ、妊娠していないってことですか?おそらくですけど、あの気の変わりようおそらくそうだと思いますよ。血圧も妊娠しているわりには低すぎですし、話を聞く限り妊娠初期にしては体温も低いですから。大学で学んだことが役に立ちましたよ。家の事情で途中、学部を変えたので、医師免許はないですけどね。触ったら体温と血圧ぐらいは経験上わかりますよ。」


「そうなんだ。」


「おい。お前どういうことだよ。」


戸惑っている様子の蓮が話しかけてきた。


「言った通りですよ。帰って彼女に確認してみてください。偽装くらいいくらでもできますから。あんたを奪ってから子供を作ろうとか、もし子供ができなかったら流産したとでもいうつもりだったんでしょうから。さっさとどっか行ってください。邪魔ですから。」


蓮は膝から崩れ落ちた。すると、私に向けて、


「なあ、あいつの嘘だったんだ。やり直さないか?」


周りにはギャラリーも相当いる。よくこんなことが言えるな。


「あんた何言ってるのか・・・。」


私は宗介の言葉を遮り、彼の前に行った。


「やり直してく・・・。」


乾いた音が大きく響いた。


蓮の言った言葉は私を激しく怒らせた。自分勝手な発言に、行動。自分が被害者だと言わんばかりの顔。何もかも、私を腹立たせるには十分すぎた。いけないこととは分かっていたけど、勝手に体が動いて蓮の顔を思いっきり平手打ちしていた。


「馬鹿なの?被害者面して。消えてよ、私の前からすぐに。2度と私に関わらないで。」


平手打ちをしたあと、私はその場で泣き崩れてしまった。多くの人が見ているなか、そんなこと気にすることもなく。泣き崩れた私を優しく包んでくれたのはやっぱり宗介だった。私は彼の胸を借りて、人目を気にせず大きな声で泣いた。強がりのダムはここで崩れてしまった。


気づくと私は、車の中で眠ってしまっていた。時間的にはまだ夕方。さっきからまだ時間はたっていない。車の中は私一人だった。


「寂しいな。宗介・・・。」


小さな声で彼の名前を囁くと、私の目の前にある扉が開いた。


「あ、起きましたか?」


彼だった。私は求めていた人が目の前にいるので思わず抱き締めた。すると、彼は全てを受け止め、察したように私の頭に手を置き、優しく抱き締めてくれた。


「寂しい想いさせてしまいましたかね?ごめんなさい。あのあと警備の人に色々と聞かれて。」


「許さない。寂しかったからしばらくこのまま。」


自分でも、ここまで人に甘えたことは記憶にはない。ただ、辛く、悲しかったことの後で、自然に彼のことを求めていた。私は腕に力を入れてさらに、彼を自分に寄せた。


「はい。気が済むまでこのままでいましょう。いつまでも付き合います。」


彼とのこの時間は全てが洗い流されるようだった。


しばらくして、私は彼から離れた。車内には彼が運んできてくれたのだろう。私が買った荷物が置いてあった。


「ごめんね。一人で運ばせちゃって。」

 

「いいえ。見ていた方に手伝っていただいたんですよ。結構大きな声だったんで、色々聞かれてたみたいでしたが、みなさん優しい言葉をかけてくれました。」


家に帰る最中の車の中で聞いたが、「大切にしてやれよ」とか「ビンタが気持ちよかった」とか。色々と言葉をかけられていたみたいだ。


「そっか。感謝だね。」


「そんなに世の中、捨てたもんじゃないですね。結構な粗大ゴミもいますが、それが見えなくなるぐらい素晴らしい人もいますね。」


初めて彼の口から強めの言葉が出た気がした。


「そうだ。夕飯はどうする?もうそろそろいい時間じゃない?」


「なら、薫の手料理が食べたい。」


少年のように答える彼は私に過度な期待をしているように思えた。


「いいけど、簡単な家庭料理しかできないよ。」


「何言ってるんですか?それがいいんです。」


少し失礼な発言にも聞こえたが、まあいいか。


「じゃあ、何が食べたいの?」


「ハンバーグで。」


これも即答だった。少し手間がかかるが、時間もあるし、手伝って貰えば問題ないと思う。


「わかった。少し大変だから、手伝ってね。なら、早速食材を買いに行こうか。」


「はい。」


宗介は表情を明るくして、自分の手を引いて車から出て行った。ここまでテンションが上がる理由が最初はわからなかった。そうか。彼は家庭の味を知らないんだ。


食品売り場で買い物をする。ハンバーグの詳しい作り方はよくわかっていないので、レシピアプリを開きながら必要なものをカゴに入れていった。途中でお酒をカゴに入れようとしたら、彼に止められた。今日1日でいろいろなことがありすぎて、自分が急性アルコール中毒で倒れたことを忘れていた。代わりに炭酸水を3本ほど買って会計を済ませた。


車内では、夕方のニュースが流れていた。国際関係のこと、芸能人の不倫と明るいニュースはなかった。


家に着くと早速、料理の準備をした。幸い、料理道具は一式揃っていた。使った形跡はなかったけど。買ってきたものをテーブルに広げて、長い髪を後ろで束ねる。そうすると、彼の目線を感じた。


「何、見てるの?」


「知らないんですか?多くの男性は、髪の長い女性が髪を束ねる姿が好きなんですよ。」


「多くの男性はって、宗介はどうなのよ?」


「僕ですか?わかりませんけど、薫は魅力的でしたよ。こう言うところがいいのかなって今感じてるところです。」


「ふーん。」


態度や顔では平然を装っているが、少し嬉しかった。


料理を始めたが、宗介は全く戦力にならなかった。包丁を持ったことがないと言うのと、目玉焼きを上に乗せようと卵を割るのを頼んだら力一杯キッチンの角にぶつけてぐちゃぐちゃになったりと大変だった。結果的には私一人で作ることになって、彼は料理する私の顔をずっとみていた。作り辛いったらありゃしない。


色々とトラブルはあったが1時間経たないうちに料理は完成して、ちょうど炊いていたご飯も炊き上がった。我ながらかなり上手にできたと思う。料理をテーブルに置いて手を合わせて食材に感謝をした。彼は器用にナイフとフォークを使い口にハンバーグを運んだ。こう言うところで彼の育ちの良さが見える。


「おいしい。」


彼は感動したように、リアクションを取った。


「そんなに?嬉しい。」


「本当に美味しいです。今までで1番。」


流石にそれは言い過ぎだろうと思ったが、彼の目にはなぜか涙が。


「なんで泣いてんの?」


私は焦って、ティッシュで彼の顔を拭く。


「いや、初めてだったんで。人の温もりを感じる料理を食べたのが。羨ましかったんです。運動会とかでもみんなでお母さんが作ったご飯を食べているのとか、隣の家から聞こえる食卓の声とか。」


「そっか。なら、いっぱい食べてね。まだ、おかわりあるから。」


「本当ですか?」


結局彼は2人前をぺろりと平らげた。


食器を洗いながら私は買い物中に気になっていたことを彼にぶつけた。


「そういえば、一人で買い物してたけど何買ってきたの?」


「そうだった。」


そういうと彼は買ってきたものの中から、小さな小包を出した。


「せっかく、薫と付き合えたんで何か記念が欲しくて。はい。プレゼントです。一応、おそろいです。」


彼からその小包をもらい、その中を確認した。


「指輪はサイズがわからなかったので、イヤリングを。ほら、今、僕もしてます。そんなに見せびらかすものでもないので、小さめですけど。きっと似合うだろうって。気に入ってもらえましたか?」


彼の左耳には、小さなダイヤモンドがついているシンプルなイヤリングが輝いてた。私は彼と同じイヤリングを取り出して、自分の右耳につけた。


「どう?想像通り似合ってる?」


「はい。とても。」


彼の顔はにこやかでとても明るかった。


「初めて女性にプレゼントをあげるので、どれがいいか迷いましたけど、喜んでもらえて嬉しいです。」


「そうね。ありがと。大切にする。」


彼が私のことを考えて買ってきてくれたことが素直に嬉しかった。それに初めて恋人ができた時みたいで懐かしい感じもした。


彼との時間はとても愛おしく、辛かったことが何もなかったような感じがした。嫌なことが頭の中から消え去って、ただ目の前にある現実だけが私のことを包んでくれた。


本当に思う人の隣にいると時間は早く過ぎ、胸は高ならずに安らかだった。お互いに入浴を済ませると、T Vを見ながらお互いに身を寄せた。


「色々ありがとう。宗介に、私は救われた。」


男性特有の少しがっちりした肩に頭を乗せた。これが私なりの精一杯の甘えだった。彼の首元からはシャンプーの匂いと彼本来の匂いが混じって、安心するいい匂いがした。彼は何も言わずに、精一杯甘える私の頭に手を乗せた。彼の手は温かく、しっかりトリートメントをした私の髪の毛を梳かすに撫でた。私の意識は徐々に薄くなっていった。今日は感情がかなり動いたから、疲れたのかもしれない。もしくは、安心して自分の思ってくれている人の匂いに心が落ち着き、眠くなってきたのかもしれない。消えてゆく、意識の中で私は、精一杯心をこめて彼に一言言った。


「大好きだよ。」


自分が確認に来た時には、すでに薫さんの姿はなかった。


「間に合いませんでしたね。」


「仕方ないよ。でも、彼女にとってはいいことだったかもしれない。幸せのまま、何も感じることもなく、消えたのが。」


「切なかったですね。」


「そうだな。」


「ここでの、世界って、現実の情報をもとに世界を作るんですよね?」


「そうだけど?」


「宗介さんは実際どうだったんですかね?」


「彼は彼女のことを本気で思ってたよ。彼女の葬儀で誰よりも泣いてたし、お墓参りの時も、そう言っていた。」


「なら、尚更切ないです。」


「そうだろ。だから自殺はダメなんだ。どんなに絶望で黒く塗られたとしても、その上からまた違う色を塗ることができる。塗ってくれる人がいる。でも、そのことにはなかなか気づくことはできない。人の感情も、心の中も読めるものじゃないから。だから、大切な人ほど、思っている人ほど、正直な気持ちを伝えることが必要なんだ。失わないために。その人を繋げるための楔になるために。」


「そうですね。でも、正直、薫さんが羨ましかったです。そんなに自分のこと思ってくれている人がいるなんて。」


「人間は求められると答えたくなる。彼は彼女を求めることを行動で示した。彼女は求められたからそれに答えた。でも、いつの間にか自分も求めてた。好きっていう感情はそんなもんだと思うよ。」


「恋愛経験もないのによく言えますね。」


「まあ、見てきたからな。切ないものを何度も。」


「伯斗さんは、人を好きになるとかないんですか?」


「わからない。でも、しおりのことは自分の中では特別だよ。初めてできた、自分にとって大切な人だから。」


あまり考えずに口から言葉が出てしまった。言った自分が恥ずかしくなって、しおりの方を見れない。


「嬉しいです。私も、そうですから。」


彼女の口から出た意外な言葉に思わず振り向いた。目があった。血液が体をのぼり、かっかするのがわかった。しおりは目を背けることはなく、何か決心したみたいに目に力を入れて、少し自分を睨んでいるように見えた。


「薫さんを見て私決めました。自分の気持ちには正直になるって。好きです。私を伯斗さんの支えにしてください。」


その言葉とともに、限界を迎えた世界は幕を下ろした。


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