第29話 新しい日常と新しい予感


 ちひろの問題が解決してから一週間が経過した。


 あれ以来、純子からの目立った攻撃は受けておらず、澪亜は高校生活で初めて平穏な日々を過ごしていた。


 ちひろと毎朝一緒に登校し、こんなにも世界は輝いて楽しいのかと、幸せな気持ちだった。


 澪亜がニコニコと笑っているとスキルが自動発動する。


「最近、教室の空気がいいですね?」「私、家より教室のほうが癒やされますわ」「私もです」


 休み時間、そんなクラスメイトたちの世間話が聞こえてくる。


「澪亜さんのおかげですかね?」


 隣の席にいるちひろのつぶやきに、澪亜が小首をかしげた。


「何がですか?」

「くっ、澪亜さんがまぶしい――」


 ビームライトを浴びた大泥棒のように、ちひろが目を細めた。

 ちひろは素がだいぶ出ている気がする。

 これも聖女の魅力値のせいであろうか。


「あら? まぶしいならカーテンを閉めてまいりましょうか?」


 ちょうど窓を背にしているので、澪亜は後ろを見た。


「いえ、いえ、大丈夫です。それより、田中にいたずらはされていませんか?」


 顔を戻し、澪亜が笑顔でうなずいた。


「はい。特に何も受けておりません。ちひろさんにアドバイスをいただいて、上履きや教科書を毎日持ち帰るようにしております」

「面倒かもしれないけどそれがいいです。性根が腐っていますから、上履きにいたずらをするぐらいは平気でしてくるはずです」


(アイテムボックスがあるから持ち帰るのは簡単だしね)


 澪亜は異世界スキル様様だなと思う。


 それと同時に、田中純子がそんなことをしてくるのか疑問でもあったが、過去に何度か教科書を真っ二つにされたことを思い出して、十分にあり得るなと考え直した。


「ちょっと、見て、あの子よ」

「あまり押さないでちょうだい」

「あんな可愛い子学校にいたの?」


 開いているドアから、別のクラスの生徒たちが教室を覗いている。


 一週間で澪亜の噂が広まって、こうして他クラス、他学年から様子を見に来る生徒が後を絶たなかった。


(ああ、習字を見に来たんだね。もっと近くで見てもいいのに……)


 先日、担任の教師からクラスのスローガン『清く正しく美しく』を書いてほしいと頼まれ、澪亜が筆を取り、書きあげた習字が教室の後ろに貼ってある。


 流麗な筆致に国語と漢文担当の教師もうなるほどだ。


(会心の出来だったね。おばあさま仕込みの書道だから誇らしいよ)


 澪亜は満足げにうなずいた。

 生徒たちが習字を見に来ているのだろうとすっかり思い込んでいた。


「勘違いしてる……勘違いしてる……でも言えない……澪亜さんを見に来てるなんて言ったらダメ……私のハートがバーストするわ……」


 隣にいるちひろが、種明かしをできないマジシャンのごとく嘆いている。


 澪亜に真実を言ったら「そ、そんな?!」と顔を真っ赤にして恥ずかしがるに違いない。間近で澪亜の恥じらい姿を見たら、今度こそ心臓が止まるかもしれないと自衛本能が働いた。


「胸キュンは寿命を縮める気がするわね……」

「ちひろさん、あちらの方たちに、もっとお近くでご覧になってもいいですよと伝えるべきでしょうか?」


 澪亜がスローガンからちひろへと視線を戻した。


「いえ、その必要はないかと思います。皆さんも他クラスにお邪魔するのを憚っているようですよ?」

「まあ――そうですね。私ったら自分の習字を披露したいからって……恥ずかしいです」


 澪亜が頬を赤くして、お上品に手で口を隠した。


 ちひろは内心「ああ、ああああ」と叫びながら、どうにかにやける口を笑みに変えた。


「とてもお上手に書けたのですから、誰かに見てもらいたくなるのは当然のことです。私は剣道をやっているのですが、勝った試合はみんなに見てほしかったな、と思いますよ?」


 澪亜は手を口から離して、ちひろを見つめた。


「まあ、ちひろさん……そうなのですね? よかった……私だけじゃなくって……」

「誰しもが褒めてほしいと思っています。それは皆同じでしょう」


 近くで話を聞いていたクラスメイトがうんうんとうなずいている。


「ちひろさん、お上手とお褒めいただきありがとうございます」


 なんの気負いもなく、澪亜が自然に微笑みを浮かべた。

 鳶色の瞳が幸せそうに弧を描き、ちひろは心が満ち足りた。


「それから、剣道をやってらしたんですね? そういえばスキル……いえ、とても素敵なことだと思います。大和撫子であるちひろさんにぴったりの種目ですね」


(……スキルに〈剣道〉って項目があったことを言いそうになっちゃった……)


「いえいえ、大和撫子とは澪亜さんを表する言葉ですよ」

「そんな。私は髪がこんな色ですから、黒髪のちひろさんにこそふさわしいです」


 澪亜はうらやましそうにちひろの黒髪を見つめた。

 目立つ亜麻色の髪のせいで、何度かいじめられたものだ。


 しばらくそんな他愛もない会話をしていると、教室の前方で静かにしていた田中純子が大きな声を出した。


「あーあ、読モの仕事、面倒だなぁ」


 教室全体に聞こえるよう言ったので、クラスメイトが視線を向けた。

 純子は口角を上げた。


「先月号も結構大きく載っててさぁ〜、見る?」


 鞄からファッション誌を取り出して、教卓に広げた。

 取り巻き連中が「ホント!」「素敵」「最新の服ですわ」と取り囲む。


 前の席にいた女子生徒も覗き込んだ。


「まあ、丸々一ページが田中さんですか?」


 ファッションの話にはどの生徒も弱い。

 気になったクラスメイトが次々と教卓へと足を運ぶ。


「……」


 純子はメイクで整えた顔をにんまりとさせ、澪亜を見た。

 澪亜に話題が集中することが耐え難かったらしく、自分へ注目を集めようという魂胆のようだ。


「まあ、読者モデルですって。すごいですね?」


 かく言う澪亜はまったく頓着していない。


「親の七光りですよ」


 ちひろは苦い顔つきて、教卓を眺めた。


 父親のコネで読者モデル枠に自分をねじ込んだのは明白であった。他のモデルと比べても、少し見劣りするのだ。背の高さが唯一のアドバンテージだとちひろは分析している。


 純子が教卓を背に、澪亜へ近づいてきた。


「どこかの没落令嬢には手の届かない世界でしょうけどね? ああ、もしほしいんだったら雑誌あげましょうか。最後のページだけ」


 澪亜を見下ろしてケラケラと笑う。


(もう田中さんに何を言われても平気だよ。邪悪探知が反応するだけ……)


「最後のページが重要なのでしょうか?」


 純粋な疑問を澪亜はちひろにぶつけてみる。


「重要ではありません。冗談で澪亜さんを小馬鹿にしたいだけです」

「なるほど……そうなのですね? 一つ、理解できました」

「おい、勝手にしゃべってんじゃねえぞ」


 純子が睨みをきかせてくる。


「はぁ〜、面倒くさいですね」


 ちひろがそうつぶやき、純子と数回やり取りをする。

 純子は反応の鈍い澪亜たちが気に食わないのか、さっさと教卓へと戻っていった。


「言いたいこと言えるって気持ちいいわ」


 純子を撃退したちひろは満足そうだ。


(読者モデルか……私とは縁のない世界だね)


 そんなことを思い、澪亜はファッション誌を囲んでいるクラスメイトを眺めた。




      ◯




 都内某所、タワービルの最上階では連日会議が行われていた。


 日本向けにリリースするファッションブランドの戦略について、とある事項で行き詰まっていた。


「人気ファッション誌“ティーンズ”への掲載が決まりました。特集も組まれます。何度も言っておりますよ。これがいかに重要かわかっていますか……?」

「でも、モデルがいないのよ」


 洒落たタイトスーツの男性と、フランス人らしき女性が話し合っている。


 彼らはフランスの人気デザイナーが手がける、十代と二十代をターゲットにした姉妹ブランドを展開するチームの仲間であった。


 二十代はモデルが見つかったのだが、十代のモデルがいないようだ。


「デザイナージョゼフが作った“PIKALEE”ブランドのイメージに合う少女を探してください。ティーンズの専属モデルに着せるだけでなく、それとは別にブランドの看板になる女の子がほしいのです」


 フランス人らしき女性が切れ長の目を細めた。


「反応がよければその子を日本専属の我が社ブランド広告塔にしたい。私は何度も言っているはずです」

「ブリジット……そう言われましても、もう何人も面接をしたじゃないですか……」


 スーツの男性はハンカチで額を押さえた。

 どうやら追い詰められた際の癖らしい。


 会議室の大きなテーブルにはモデルたちの写真が貼られたポートフォリオが数百枚あり、さらにタブレットには他候補者のデータが大量に入っている。会議室にいる面々が、タブレットを操作して、ピックアップ作業を続けていた。


「有名モデルから無名モデルまで、すべて網羅したと言ってもいいんですよ? もうこの辺りで決めていただかないと……制作が悲鳴を上げていますよ……」

「いないのだから仕方がないでしょう?」


 ブリジットと呼ばれた女性は断固として首を縦に振らない。


「いっそ公募でもしたほうがよかったのでは?」

「そんな時間はないです」


 ぴしゃりと言われ、スーツの男性は肩を落とした。


「ですよね……」


 すると、停滞する会議室の空気を切り裂くように、ドアがノックなしに開けられた。


 流暢なフランス語が会議室に響く。


『いやぁ、ごめんね。スカイツリーからの景色が見事で時間がかかってしまったよ』


 部屋に入ってきた青年が言った。

 年齢は二十代半ば、ジーパンに白シャツというシンプルな服装だ。

 足が定規で引いたようにまっすぐで長く、金髪を爽やかに分けている。


『ちょっとジョゼフ。何日間どこをほっつき歩いていたの? 今の状況わかってる?』

『オーララ、愛しのブリジット、会えて嬉しいよ』


 ジョゼフはスカイツリー土産のキーホルダーをブリジットへ握らせ、そのまま手を取って甲にキスを落とした。


 ブリジットは口がにんまりしてしまい、あわてて元に戻した。


『ジョゼフ。私たちには時間がないの。あなたが求めるモデルがいないのよ?』


 ジョゼフは話を聞いているのかいないのか、愛おしそうにブリジットと手を撫で、ゆっくりと顔を上げた。


 イケメンのフランス人がやると様になる動作だ。

 スーツの男性は助けが来たと笑みを浮かべた。


『ジョゼフさん、そろそろモデルを決めてください。デザイナーのあなたがイエスと言えばイエスなのです。ブリジットも納得するでしょう』


 日本人である彼がフランス語で言う。

 悲痛な面持ちの彼を見て、ジョゼフが爽やかに笑った。


『ああ、モデルなら見つかったよ』

『――え?』

『――どういうこと?』


 男性とブリジットが食いついた。

 ジョゼフは上機嫌に両手で二人の勢いを押し留め、おもむろに口を開いた。


『この僕が一秒で恋に落ちて、十秒で手の届かない女性だと思った……そんな少女さ』


 まるで尊い思い出に浸るかのように、ジョゼフが窓の外を見た。

 二人は開いた口が塞がらない。


 デザイナーのジョゼフは一見すると社交的に見えるが、非常に頑固者でこだわりが強い。


 人間関係も自分が認めた者以外は一切内側へ入れない徹底ぶりだ。


 そんなジョゼフにここまで言わせる少女とはどんな人物なのか、ブリジットとスーツの男性は興味をそそられた。


『明日、僕が彼女を迎えに行くよ。ノブナガ氏、ポルシェ借りていい?』

『別に構いませんけど……』


 スーツの男性――ノブナガがうなずいた。


『オーケーしてくれると嬉しいんだけどね。ああ、本当にいい子だよ。僕が人生で出逢った中で一番純粋な女性さ』


 ジョゼフはそう言いつつ、ノブナガのポケットへ手を突っ込んでポルシェのキーを抜き、会議室のドアを開けた。


『ということだから、みんなは次の作業に移ってくれ』


 ウインクを一つし、ジョゼフは部屋から出ていった。


「……」

「……」


 ブリジットとノブナガが目を合わせる。


「……ジョゼフは気分屋だけど、自分でやると言った仕事は必ずやります」

「そうですね。ジョゼフさんが中途半端な仕事をしたことは今まで一度もない」


 二人はモデルの件はジョゼフに任せ、会議を次のフェーズへと移行させた。


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