第22話 やめてください
田中純子が入ってきてすぐに、担任の教師がやってきてホームルームが始まった。
四十代の眼鏡をかけた女教師は、これから始まる新学期に鬱々としているのか覇気がない。
彼女も一人の女子生徒――田中純子を持て余していた。
「今日から新学期ですね。それでは点呼を取ります。荒巻さん――」
クラスメイトの点呼が続く。
澪亜の番になり、教師が名前を呼んだ。
「平等院さん――」
「はい」
教師が名簿表から顔を上げて、いじめられっ子である澪亜をちらりと確認する。
そこで彼女の動きが完全に止まった。
「……?」
視線の先にいたのは亜麻色の髪をした美人な生徒だ。
教師は名簿と澪亜へ視線を行ったり来たりさせ、もう一度呼ぶことにした。
「平等院さん」
「はい」
「……」
確かに、彼女の席に座る生徒が答えている。
よく見れば、亜麻色の髪、瞳の色が以前の太っていた彼女と一緒だ。
それに気づいて、「夏休み明けに雰囲気がガラリと変わる生徒がいるものよ」という先輩教師の言葉を思い出し、澪亜の努力を想像してうなずいた。
次の生徒へ点呼を移ろうとしたそのときだった。
「はあっ?」
不快感を丸出しにした、人を小バカにした声が前方の席から聞こえた。
窓際、一番前の席に座る田中純子だ。
「あなた誰?」
クラスがしんと静まり返った。
ホームルーム中であるのに、田中は振り返ってじっと澪亜を睨んでいる。
「なぜブタさんの席に座ってるのかしら?」
純子は整った顔立ちではあるが、凹凸の少ない顔のパーツを化粧で補強している。毎朝プロのメイクアップアーティストにナチュラルメイクをさせていた。メイクをしているにもかかわらず、増長した性格からか、全体的にキツい印象を受ける。背の高さも威圧感の補助になっていた。
教師の前では言葉づかいをそれなりにしているところが小狡い。
「あなた、平等院?」
澪亜は田中に呼ばれて、緊張から喉を鳴らした。
(田中さん……また、いじめられる……)
それでも、澪亜は彼女を見て、すぐに教師へと視線を戻した。
やはり聖女になったおかげだろうか。精神的な興奮が即座に収まってくれる。
よくよく考えれば、純子の存在は先日異世界で退治したデビルマーダーグリズリーに比べれば可愛いものだ。
(ふう……大丈夫。私には異世界がある。聖女にもなった。だから、大丈夫)
異世界の存在を思い出し、澪亜は背筋を伸ばした。
「田中さん。今はホームルーム中ですよ。次、古川さん――」
女教師は騒ぎになるのはたまらんと、点呼を再開する。
田中純子は乗り出していた身を椅子へ戻し、怒りを覚えているのか拳を握りしめていた。
◯
ホームルームが終わって教師が教室から出ていくと、田中純子が真っ先に澪亜の席に近づいてきた。
「おまえ……平等院澪亜か?」
「はい」
純子が睨み、取り巻き連中が後ろに集まってくる。
(あれ? なんか、平気かも?)
純子と相対した際に必ず感じていた絶望感や、みじめな気持ちが湧いてこない。
純子の存在が、なぜだか希薄に思えた。
感じるのはスキル〈邪悪探知〉による警告だ。本来、魔物や瘴気に反応するスキルが純子にも反応している。汚れた心が澪亜に向けられ、スキルが反応したのかもしれない。
「おまえ何したんだよ?」
「何とはなんでしょう?」
澪亜がこてりと首をかしげる。
「……」
桃井委員長が緊張した面持ちでやり取りを見つめ、クラスメイトも全員が注目していた。
純子は席に座っている澪亜の美しい相貌、サラサラの髪、くびれたウエスト、カモシカのような健康的で長い足を見て激昂した。
「てめえ何様のつもりなんだよ! まだご令嬢を気取ってるつもりかぁ?!」
噛み付くように純子が吼えた。
以前までデブで最底辺だと思い込んでいたクラスメイトがモデルとグラビアアイドルのいいとこ取りをしたスタイルになり、顔も自分より美しくなっている。そんな事実を認めたくなくて、純子の心にあった小さなプライドがざわついた。
「整形でもしたのか?! 何とか言え、おい!」
ガン、と澪亜は座っている椅子の脚を蹴られた。
教室から息を飲む声が聞こえる。桃井委員長が純子を睨んで、口を開こうとした。
だがその前に、澪亜が顔をひねった。
「いえ、ダイエットに成功しました。これでデブと言われずに済むかと思います。ご迷惑をおかけいたしました」
ぺこりと一礼する澪亜。
迷惑なのは間違いなく純子のほうである。太っていたことは何も悪くない。澪亜はいつでも素直で優しい女の子だった。
自分の剣幕にうろたえない澪亜の落ち着いた態度に、純子は顔を真っ赤にした。
「どんなに痩せようがおまえはブスなんだよ! 二度と学校に来んなって言ったの忘れたのか?!」
「田中さん。一生徒に生徒の登校を決める権利はありませんよ?」
「私が来るなって言ったら来んじゃねえ!」
澪亜の正論が気に食わなかったのか、純子は手を振り上げ、澪亜に平手打ちをしようと振り下ろした。
「な――ッ!」
澪亜の隣に座っていた桃井がとっさに立ち上がる。
それよりも早く、澪亜が魔法を使った。
(ほっぺたに結界魔法――!)
不可視の結界が澪亜の頬に展開される。
(レベルが上がったからかな? 動体視力がよくなっているみたい)
澪亜の目には純子の平手打ちが遅く見えた。
さすがの澪亜も暴力は許せる行為ではない。自衛ができるならしたいと常々思っていた。
やり返すなど思いもつかない澪亜にとって、結界防御は素晴らしかった。
――バィンッ
「きゃああっ!」
結界に平手打ちが触れた瞬間、純子は手を弾かれ、反動で横に一回転し、予期せぬ結界の威力にたたらを踏んですっ転んだ。
ドタンバタンと音を立てて壁際のロッカーにぶつかり、スカートの中を丸出しにしてひっくり返った。
「……」「……」「……」
取り巻き連中も突然のことに開いた口が塞がらない。
純白の誇り高い制服姿で、誰もしたことがないであろうポーズはひどく滑稽だった。
傍から見ると、平手打ちした純子が足をもつれさせて鈍臭く一回転し、すっ転んだようにしか見えない。
クラスにはお嬢さまのぽかんとする顔が並んでいる。
そして、純子の行動をよく思っていない生徒がほとんどだ。次第に皆の顔は笑いをこらえる表情へと変化していった。
「ぷ……ぷぷーっ……」
桃井委員長が爆笑をこらえているのか、口の端から空気を漏らしている。
彼女は校内きってのクールビューティーだが、大のお笑い好きであった。これは誰も知らない。今の状況は耐え難い笑いのシチュエーションらしい。
(まあ……ど、どうしましょう……)
桃井が腹筋崩壊の危機と戦っているとき、澪亜はとんでもないことをしてしまったと、おろおろしていた。
暴力はいけないが、スカートの中身丸出しでひっくり返すつもりは毛頭なかった。
(聖魔法――治癒)
小さなヒカリダマをこっそり飛ばし、純子を回復させる。
パッ、とヒカリダマが純子の丸いヒップに当たった。ヒカリダマはちょっとイヤそうだった。
ぴくりと動いた彼女を見て、フリーズしていた取り巻き連中が駆け寄った。
「純子さん!」「大丈夫?」「平気!?」
取り巻きに助け起こされ、純子が乱れた髪を直した。
「……マジなんなの!」
スカートも直し、純子が澪亜を睨む。
(また平手打ちが来る……結界魔法を……ああ、でもまた田中さんが倒れたら大変!)
澪亜はぎゅっと目を閉じた。
今度は桃井委員長がポケットからスマホを素早く取り出し、動画撮影ボタンを押した。
ポーン、という録画音が響く。
「暴力は犯罪です。さすがのあなたも動画を撮られては言い逃れできませんね?」
「……桃井……あんたわかってやってんの?」
手を止めて、純子が桃井を睨んだ。
眉間にしわを寄せるいじめっ子と、怜悧な委員長の視線がぶつかる。
「あんたんちの会社、パパがでっかい取引先なんだけどな〜。しかも他の会社もパパの言うことに逆らえないし〜」
純子が桃井に顔を近づけた。
純子は身長百七十cmだ。標準身長の桃井は見下される形になった。
「この意味わかんないんですかぁ?」
「私もどうかしていました。好きにしたらいいのではないですか? どうせパパの力がないと何もできないのでしょう?」
「あんた自分が何言ってるのかわかってんの?」
「ええ、わかっています。あなたが無様に一回転してひっくり返ったのもこの目で見ていました。運動神経が悪いのですか? パーソナルトレーニングジムをご紹介しましょうか? それともお笑い新喜劇のほうがよろしいですか?」
桃井委員長が眼光鋭く睨むと、純子が胸ぐらをつかんだ。
「あんたねぇ……!」
純子は耳まで顔を赤くしている。
今にも右手の拳が出そうであった。
(桃井さん……どうしましょう……!)
澪亜は今までの人生で一度もこんな状況になったことがなく、困惑して二人のやり取りを見つめる。
純子に呪い殺されそうな視線を浴びても桃井委員長は平然と見つめ返し、口を開いた。
「今日、平等院さんが勇気を持って私に話しかけてくださいました。だから私もその勇気に応えるまで。それに平等院さんはこんなにも痩せた――そんな努力を見て感化されない人間がいるのでしょうか? ああ、目の前にいましたね」
「――ッ!」
ナチュラルメイクで整えた顔を歪ませ、純子が右手を振り上げた。
クラスメイト全員が息を飲む。
(ダメ――)
澪亜は咄嗟に動いた。
自分が殴られるならまだしも、他人が殴られる姿は見たくない。
澪亜の長い腕が伸びる。
聖女レベル60の動体視力は飾りではない。一般女子生徒の拳に割り込むなど、わけなかった。
――バチッ
手と手がぶつかる音が響いた。
澪亜は右手で純子の拳を止めた。
衝撃を覚悟していた桃井が目を見開いて「平等院さん……?」とつぶやく。
まさか澪亜が邪魔してくるとは思わなかったのか、純子も止められた拳を見て驚愕し、目を細めた。
「……平等院。何様?」
「もうやめてください、田中さん」
澪亜が純子を見つめた。
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