第21話 委員長へのお願い


 見知らぬ男子学生と挨拶をした澪亜は、女学院の校門をくぐった。


 家から学校に来るまでかなりの視線を浴びているのだが、澪亜の頭の中は、田中純子のいじめはきっとなくなる、委員長の桃井さんと話す、この二点しかない。


(挨拶して緊張がほぐれたよ。あの方には感謝しないとね)


 彼との挨拶で周囲を気にする余裕が生まれた澪亜は、女学院の校舎に向かって歩く純白の生徒たちを眺めた。


 夏休み明けともあっていつもと違った、浮足立った空気に包まれている。


 一人で歩く女子、グループで楽しげに登校する生徒など、実に様々だ。休み中、海外旅行に行ったのか、おみやげを配って歩いている子もいる。


(楽しそう……)


 学校に自分の友達はいない。

 そう思うと胸の奥がちくりと痛んだ。


(でも大丈夫。フォルテとゼファー、あとウサちゃんもいるものね)


 ウサちゃんのもふもふした白い毛を思い出し、澪亜はちょっと楽しい気持ちになれた。


「ちょっと、あの子だれ?」「転校生?」「あの髪の色……一年生にいた気がするけどあの子じゃないよね?」


 澪亜の存在に気づいた生徒は、その美しさに見惚れ「あんな子、学校にいたっけ」と囁き合っている。


 物思いに耽って歩いていた澪亜はそんな声に気づかず、下駄箱に靴を入れ、学生鞄へ手を入れた。


(アイテムボックスさん――)


 鞄の中でアイテムボックスから上履きを取り出し、丁寧に揃えて履いた。


(せっかくの能力だものね。使えるときに使わないと)


 澪亜は自分のクラスへと足を向け、廊下を歩く。

 始業チャイムの前なので、何人もの生徒が階段を上がり、話し声や挨拶の声がそこかしこから聞こえる。


 廊下のリノリウムが上履きとこすれる感触を足裏に感じながら、教室の前に到着した。


(大丈夫……いつも通りにしていれば一日は終わる。それに、痩せたから、田中さんの仕打ちもきっとなくなる)


 澪亜は立ち止まり、教室の部屋番号が書かれたプレートを見上げた。

 プレートには1―Aと刻印されていた。


(委員長の桃井さん……あとで話そう。田中さんに見られないところで……)


 澪亜はよしとうなずいて、父が言っていた「決めたことは最後までやり通す」という言葉を胸に、ガラリと教室のドアを開けた。


 教室は八割ほど埋まっていた。


 グループに分かれてクラスメイトが談笑してる。田中純子の姿はない。


 クラスメイトは誰か登校してきたな、と何気ない視線をドアへ向け、そこにいた澪亜を見て全員が口をつぐんだ。


 しん、と周囲が静かになる。


(あ、あれ? いつもと違う空気が……)


 だいたいのクラスメイトは事なかれ主義のため、澪亜に興味を示さない。

 理由は、田中純子のグループからの報復を恐れているからだ。


 下手に澪亜と関係を持つと、あとから何をされるかわからないため、保身で澪亜と距離を取っていた。澪亜にまめまめしく話しかけるのは委員長ぐらいだ。


 ちなみに、たちの悪いことに、田中純子の父親は顔が広く、広告関連会社の社長である。


 入学してすぐの頃、純子は歯向かってきた女子生徒の親を父親の権力で退職に追い込み、転校させたことがある。


 自分の望みは叶う。

 自分は特別な家に生まれた。


 そんな驕りが彼女の性格を一部歪ませるに至っているのは容易に想像ができる。


 十六歳の世間知らずな女子が増長するには、十分な環境であった。


(田中さんはいないし、ここはきちんと……)


「おはようございます」


 澪亜は勇気を出して一礼すると、クラスメイトが困惑した表情で「おはようございます」「ごきげんよう」などの返事を散発的に返してきた。


(よかった。挨拶できた)


 ホッとため息をついて、澪亜は真ん中の列の一番後ろである自分の席へついた。

 それにはクラスメイト全員がぎょっとした顔を作った。


「あそこ平等院さんの席よね……?」「あの可愛い子、クラスを勘違いしてるんじゃなくって?」「顔が小さいわ。胸が大きいわ」「転校生かしら」


 そんな声に気づかず、澪亜は緊張した面持ちで鞄を机のフックに引っ掛け、隣の席に座っている委員長――桃井ちひろへ顔を向けた。


「おはようございます、桃井さん」

「……」


 澪亜が教室から入ってきて、ここに座るまで、ずっと口を開けて見ていた桃井ちひろは、あまりの驚きに持っていたシャーペンをぽとりと落とした。


 シャーペンがころころと澪亜の足元まで転がる。


(桃井さん?)


 澪亜は拾い上げ、髪を指でかき上げると、そっと差し出した。


「落としましたよ?」

「……ええ、ありがとうございます」


 桃井ちひろは癖のない黒髪のロングヘアを何度か手で撫でつけて、シャーペンを受け取った。アーモンド型の瞳には驚愕と困惑が浮かんでいる。


 彼女は学級委員長を任命されるだけあり、成績優秀で、頼れる女子生徒だ。


 眉がきりりと真っ直ぐ伸びているところも、どこかストイックな印象を受ける。美人で頼りがいのある彼女が驚いている顔は、澪亜には新鮮で、ちょっと可愛いなと思った。


(田中さんがいない今ならお話ができる。ええっと、何から話せばいいんだろう……)


「あの、桃井さん?」


 澪亜が話しかけると、ようやく桃井が我に返った。

 彼女は真っ直ぐ伸びた眉毛をやや下げて、探るような声を出した。


「えっと……ひょっとして……平等院さん……?」

「はい。平等院です」

「……ッ! ……ッ!」


 桃井は夏休み前と今とで澪亜が変わりすぎていることに驚き、声にならない声を上げて澪亜の全身を眺めた。


 身体のパーツすべてが丸々としていて、田中グループに「マシュマロ子豚」とか呼ばれていた一学期とはまるで別人だ。


「ちょっと、色々あって痩せることができました……」


 澪亜が恥ずかしそうにうつむいた。

 桃井は自分の考えた理論が正しいと証明された数学学者のように何度もうなずいて、おもむろに口を開いた。


「平等院さん……おめでとうございます。よかったですね」

「はい……」


 桃井は澪亜が「ブス」「デブ」と純子たちに言われるたびに心を痛めており、彼女の努力が実ったことを自分のことのように称賛し、喜んだ。


「とんでもないことになるわよ……これは……」


 そして二言目には、これから巻き起こる嵐を予想して、言葉が漏れた。


「あの田中が平等院さんを見て何を言うか……」


(桃井さんに今までのお礼と、これからのことを言わないと……)


「あのぉ、桃井さん?」

「なんでしょう?」


 桃井が顔を上げた。


「これからは、私からもあなたに話しかけて、その……いいですか?」


 澪亜は気恥ずかしさから、上目遣いになってしまう。

 桃井はそれを見て、もともと澪亜が優しくて可愛い性格をしていると思っていたことにプラスして、美少女の上目遣い、さらには聖女の魅力値と〈癒やしの波動〉のコンボをまともに食らい、変な声が漏れそうになって両手を口で覆った。


「桃井さん、あの、ごめんなさい……いつも話しかけてくださったのに、急にこんなこと言い出して……。虫のいい提案だとわかっているのですが、どうしても、その……」

「ええ、ええ、大丈夫です。オーケーオーケー。落ち着いてください」

「は、はい」


 どちらかというと落ち着くのは桃井委員長である。


「もちろんです。私も平等院さんともっと話したかったんですよ?」

「本当ですか? 嬉しいっ!」


 パアアッと花が咲くような笑みを浮かべ、澪亜が両手をぽんと胸の前で合わせた。


 桃井は澪亜の満面の笑みを初めて見て、〈癒やしの波動〉〈癒やしの微笑み〉〈癒やしの眼差し〉のトリプルコンボを真正面から受けた。


「あッ――」


 桃井は澪亜の身体が発光している姿を幻視し、言いしれない多幸感が胸に広がった。


 コンマ数秒であるが、彼女の意識は飛んでいた。

 どうにか意識を引き戻すと、取り繕うように桃井委員長が咳払いをした。


「ごほん、おほん……でもどうしてでしょう? 前は話さないほうがいいと言っていたのに……」

「私、夏休みに勇気をもらったんです。私が桃井さんと仲良くしてはいけないとわかっているんですが、それでも、桃井さんの気持ちに応えないのはおかしいのではないかと思って」

「ふふっ……そういうことですか。私に気をつかわなくていいと、何度もお願いしたのは覚えていますか?」


 二人の関係性はかなり微妙である。


 桃井委員長は澪亜の性格が好ましくて友達になりたいと思っていた。

 しかし、田中純子がそれを許さなかった。


 桃井の父が経営する会社は、田中の父親が大口取引先なのだ。田中が取引をやめて悪い噂を流せば、ドミノ倒しに他会社も撤退し、収入が減る可能性が高い。赤字は免れないであろう。最悪、倒産の憂き目に合う。


 澪亜は純子から何度も「桃井委員長と仲良くするなら、お父さまに言ってあいつの親の会社を潰す」と言われていた。徹底的に澪亜を追い詰める作戦なのだろう。性根が悪い。


 それからというもの、桃井から話しかけられ、フォローしてもらったが、澪亜は彼女のためを思って最低限のかかわりで済ませていた。


「私、思ったんです。秘密の関係ならいいのではないかと……!」


 澪亜が声を小さくして、囁いた。


「田中さんに見つからないようにこっそりと……お話ができたら嬉しいです」

「秘密の……」


 桃井は澪亜から歩み寄ってくれたことが嬉しく、また、澪亜のいじめを粉砕できない自分の立場を苦々しく思った。すべての元凶は田中純子である。


 二人は黙り込んだ。


 それとなく話を聞いていたクラスメイトも談笑へと戻っていく。

 始業の一分前になり、ガラリと大きな音でクラスの扉が開いた。


「あーあ、ハワイから帰ってきて時差ボケ〜」


 そんなことを言いながら、背の高い女子生徒と、取り巻きの三人が入室する。


(田中さん……!)


 澪亜は彼女の姿を見て、全身が冷たくなった。

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