第1話 鏡の中は異世界だった


「きゃあ!」


 鏡に吸い込まれ、澪亜は地面に転がった。


(なに? なにが起きたの?)


 あわてて起き上がって鏡の存在を確認する。

 振り返ると、祖母の鏡がそこにはあった。


(鏡が壊れたわけじゃなくてよかった……おばあさまの大切なものだからね)


 ほっとため息をつくも、周囲を見回して澪亜は驚いた。


「ここ……どこでしょう。どこかの神殿かしら?」


 真っ白な大理石調の石に囲まれた部屋だ。

 子どもの頃にオランダやフランスで見学した教会に似ていた。神殿と呼ぶのがしっくりくる。


 部屋にはぽつんと鏡が置いてあるだけで、他には何もない。


(……違う世界にワープしちゃったのかな? そんなこと……あるわけないけど……現実に起きているし……)


 澪亜は小首をかしげる。


 奥に扉が見えたので、鏡を一度振り返って確認する。戻るか? と逡巡し、それは違う気がして足を出した。


(奥の部屋に……行ってみよう)


 普段の自分なら祖母に確認していただろう。だが、純子に蹴られて精神的な変化を求めていた澪亜は、扉を開けてみた。


「うわぁ……素敵な場所……」


 扉の向こうには、荘厳な礼拝堂が広がっていた。


 何十年も放置されていたのか草が半分壁を覆っているが、精緻なステンドグラスから淡い光がこぼれ落ちている。大きな鳥を象った白亜の像が真ん中に設置され、地面には見たことのない模様が彫られていた。


(ファンタジー映画の魔法陣みたい……)


 映画好きであった澪亜は、礼拝堂らしき場所に胸が躍った。

 裸足であったが、気にせずゆっくりと中心部へ向かってみる。


(あ……鳥の像の裏に木がある……果実がなってる?)


 像の裏側に果樹が栽培されていた。


 背丈は澪亜と同じ百六十cmほどで、プチトマトサイズの桃色をした小さな実がなっている。瑞々しい葉から、ぽたぽたと雫が落ちていた。


(不思議……葉っぱから、絶え間なく水滴が落ちてる)


 葉の雫は、白亜の石で彫られた水受けに落ちている。水受けには水が満ち満ちていた。


(飲んでみたいかも。果実も美味しそう)


 澪亜は桃色のプチトマトっぽい果実に手を伸ばし、ごめんなさいと一言断ってから、実をもいだ。


 思った以上に中身が詰まっているのか、重量感がある。


「食べちゃう……?」


 現実ではないどこかの世界。


 ここがもし夢の世界だったとしたら、いつもと違うことがしたい。

 そんな思いで、澪亜は果実を口に入れた。


「――!!」


 濃縮された甘みが口の中で弾けた。


 桃、ぶどう、苺の味が代るがわる口の中に広がっていく。決して味が混ざることなく、爽やかな香りが鼻孔を抜けていった。


「美味しい……美味しいよ……」


 澪亜は果実の甘みに涙が出てきた。


 この世界が自分を祝福してくれているように思え、ここにいてもいいんだよ、と語りかけているように感じる。たとえ自分の勘違いであっても今感じた気持ちは本物だった。


 しばらく甘さを堪能し、水汲み場から両手で水をすくって飲んでみる。

 これも美味しい。清涼感が身体全体を通過してくみたいだった。


(一個にしておこう。他に食べたい人がいるかもしれないもの)


 澪亜は果実には手を出さず、ありがとうと言った。

 微かに果実が揺れたような気がした。

 どういたしまして、と返された気分になって、澪亜は笑みがこぼれた。


(まだ何かあるかな?)


 もう少し周囲を探索してみることにし、礼拝堂の隅へと目を向けると、ピアノがあることに気づいた。


(ピアノだ)


 澪亜は嬉しくなって足早に近づき、鍵盤の蓋をゆっくりと開ける。

 指で押すと、ぽーんと音が響いた。


「古いけど音は鳴るみたい」


 澪亜はワンピースが汚れるのも構わず、袖でピアノを丁寧に拭いていく。

 ほこりまみれだったピアノが黒い光を取り戻した。


(よし……)


 椅子に座って、両手を鍵盤に添える。


 澪亜はピアニストである祖母の影響から、毎日かかさずピアノを弾いている。父と母が喜んでくれるため、ずっと練習していたのだ。腕前は音大を卒業できるレベルであった。


 今もボロ屋敷にピアノだけは置いてある。


 祖母とピアノ。


 この二つが、澪亜の心を現実世界につなぎとめていた。


 もしどちらもなかったら、とっくに学校を登校拒否し、世界に背を向けていたように思う。


(ピアノ……ここにあるなんて)


 パッと思い浮かんだ、シューマンのトロイメライを弾くことにした。


 一呼吸し、鍵盤に指をゆっくり走らせて旋律を奏でていく。


 湖畔で子どもがのんびり遊んでいるような、優しい音が礼拝堂に反響して、澪亜は懐かしい気持ちになった。子どもの頃に祖母の鞠江から何度も教えてもらった曲だ。目を閉じると、あのときの鞠江の楽しげな表情と、大きくて優しい鳶色の瞳が思い出される。


 曲が終わり、目を開けた。


「――ッ!」


 いつの間にか澪亜の目の前には、ふわふわと小さな光の珠が浮かんでいた。

 珠はいくつも浮いていて、楽しげに上下している。


『――もっと聴かせて』


 そんな声が脳内に響いて、澪亜は耳を覆った。


(今、頭の中で声がした?)


『――もっと弾いてみて。楽しい曲。嬉しい曲』


 さらに聞こえ、澪亜は目を見開いた。


「えっと……あなたたちが聴きたいの?」


 問いかけると、光の珠が何度も跳ねて、お互いにぶつかりあう。子どもがじゃれ合っているみたいで可愛かった。


「わかりました。弾きますね」


 澪亜はにっこりと笑い、ショパンの子犬のワルツを弾き始めた。


 澪亜の指が音を一度も外すことなく、鍵盤の上を迷いなく滑っていく。

 テンポの速い曲に光の珠は大喜びなのか、澪亜の周りをぐるぐると回って跳ね回っている。しだいに珠の数が増えてきて、短い曲が終わる頃には倍になっていた。


 その後も澪亜は様々な曲を弾いた。


 いつしか礼拝堂は光で満ち溢れ、ピアノのコンサート会場のようになった。


(こんなに楽しいのっていつぶりだろう……鏡を通ってよかった……本当にありがとう)


 一時間ほどの演奏を終えると、光の珠が満足したのか、ふわふわと浮きながら消えていった。


「ありがとう。また会えたら、とっても嬉しいです」


 澪亜が手を振ると、珠が答えるように跳ねる。

 光の珠が完全に消えたところで、また脳内に声が響いた。


『――条件を満たしました。聖女へ転職しますか?』


 急に声が響いたので、澪亜はびくりと背を震わせた。

 後ろを見ても誰もいない。

 草に覆われた入り口の扉が見えるだけだ。


『――聖女へ転職しますか?』


 女性の声がもう一度響く。


(聖女……? 聖女って、あの……聖女?)


 澪亜が小首をかしげた。

 考えるときの彼女の癖だ。


(私なんかが聖女……でも、面白いかもしれない。ヒカリダマさんたちも楽しそうだったし……私も楽しく生きてみたい……)


 光の珠をヒカリダマと命名したようだ。


 澪亜はどうせなら面白くなりそうな方向へ行こうと決意し、こくりとうなずいた。


「はい。聖女へ転職します」

『――かしこまりました』


 女性の声が脳内に響くと、澪亜の身体が光に包まれた。

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