第八節~禁術月界魔法~
儀式の部屋へ戻った入里夜は、辺りを見回して暦を探した。中央の魔方陣の辺りに目をやると対象者の姿はそこにあったが。
「……あれっ⁉」
入里夜は思わず目をこすった。彼女の視界に入ってきた母は一人ではなかったのだ。ざっと確認しただけで数十人はいる。
どうやら暦は、何らかの目的のため『
「お母さん、何をしているの?」
「あら入里夜、浄めの儀式は終わったのね」
「うん、いまはとても気分が良いわ」
「その様子だと儀式は上手くいったようね。これから必要な魔導書を探しているのだけれど、本が多すぎてなかなか見つからないのよ。ちょっと待ってね」
「うん、わかった」
入里夜は暦の作業が終わるまで、暦の分身と会話していようと思い立った。そこで退屈そうにしていた分身に近づいてみて、入里夜は驚いた。
「まったくお母さんそのままだわね……」
分身なのだからそれが普通なのだが、入里夜にとってはおおごとだ。入里夜は母の分身にゆっくり近づき、そっと声をかけた。
「ねえ、本当にお母さんの分身なの?」
「うわあ~びっくりした。あら、入里夜じゃない」
驚いたのは入里夜も同じだ。とつぜん声を掛けられた時の反応まで本物と丸っきり同じだった。
そして入里夜と暦の分身は、大好物である和菓子の話題で盛り上がる。
「私ね、桜が作る桜餅大好きなんだ」
「わあ~入里夜もそうなんだ! 私も好きよ。昨日も五個は食べたわね」
「さ、さすがお母さん」
入里夜は、分身とはいえ母そのものだということをしっかり認識するのだった。
数分後、暦が入里夜を部屋の中心部へ呼びもどした。
「入里夜~っ、あったよ、おいで~」
「あっ、はあ~い。じゃあまたね、分身のお母さん!」
「ええ、がんばってね」
入里夜は母の分身に手を振って別れを告げると、急いで本体のもとへむかった。
「お待たせ、入里夜」
暦は分身を解除すると、入里夜に魔方陣の上に立つよう指示を出す。入里夜は嫌な予感がして母の顔に目をやった。
「ね、ねえお母さん? 私がいないとできない儀式って言ってたけれど、もしかして、私が魔法を覚えるの?」
「あら、そう言えば私ったらまだ言ってなかったわね。そうよ、さっきの浄めの儀式もその準備段階なの」
暦はときどき、さらっと重大なことを言い忘れる困った大巫女だ。
しかし入里夜の口から出た返答は暦も、そして入里夜自身にとっても驚くべきものだった。
「うん! 分かった、私やってみるね」
それはひとこと。たった一言だったが、その声は浄めの儀式以前の入里夜の声ではなかった。浄めの儀式によって、入里夜の心は限りなく安定した状態にある。
儀式前の彼女に同じことを言えば、慌てふためいて首を横に振っていただろう。
「よく言ったわ、入里夜。儀式は本当に大成功みたいね」
「ふにゃあ! ちょ、ちょっとお母さん」
暦は入里夜を抱きしめて喜んだ。娘を信用していなかったわけではないだろう。だが、入里夜の強さは暦にとって嬉しい誤算でもあった。
むろん儀式の力はあるが、その儀式で成長できるかどうかは本人の心の強さに大きく左右される。暦は魔法習得について、少しは説得が必要だと想定していたのでそのあてが外れて嬉しかった。
入里夜にとってとつぜんの
暦の腕から解放されたとたん、入里夜は急激な体温低下に襲われた。ぷるっと身体が震え、鳥肌が連鎖するように立ち上がるのが分かる。
浄めの儀式が終わってから今までのあいだ、彼女は濡れた衣のまま着替えていなかった。
「ね、ねえお母さん。この濡れた衣着替えていい? 濡れているから寒いの」
「あら、その衣は?」
暦は今さら気付いたようで、不思議そうな顔で七色に輝く入里夜の衣をのぞき込んだ。
「うん、これはね、儀式のときに着替えたものなんだけど、儀式の証に持って行っていいって言われて……」
「そうなの、ちょっと見せてね」
暦はそう言うと、右手に月宮の家紋型の魔方陣を宿し入里夜の衣をひとなでした。それから少しのあいだ目を閉じて何かを探っていた暦だが、ふいに美しい碧の瞳を開いて入里夜を見やった。
「入里夜、この衣はどこにあったの?」
「この部屋だけど」
「そう、この衣から
「わ、分かった。でも寒いから早くしてね」
「そうね、じゃあ始めるわよ。この魔方陣の上に立って」
暦はそう言うと、先に展開していた結界の中へ入るように指示をだした。
「うんっ」
とうなずいて結界の中に入った入里夜は、足元の魔方陣の上に立って母の方へ振り返った。結界の中は驚くほど心地よく、濡れた体でも寒さを感じない。
「よし、行くわよ」
「うん、いつでもいいよ!」
入里夜がうなずくと、暦も結界へ入り、持っていた魔導書の一つを開いた。表紙には月界文字で「
「ね、ねえお母さん、私、空間移動するの?」
入里夜は首をかしげて母に確認を取った。
「そうね……詳しくは儀式が終わってから話すけれど、あと
「鍵も開けるの?」
入里夜は少し心配そうな顔で母に目をやった。暦はまだなにか入里夜に隠していることがあるようだ。
「ま、まあ安心して入里夜。そんな無茶なことはさせないから」
「う、うん分かった」
入里夜はうなずいたが、彼女は自分と母の「無茶」の基準が大きく異なることを知っているのでやはり心配だ。
暦は開いた魔導書を飛行石で浮いている黄金の台に置くと、右手に龍をかたどった魔方陣を宿し、魔導書の文字を一部なで始めた。彼女の手が通過した文字は複製され、龍の魔方陣に吸い込まれていく。
「お母さん、さっきからなにしてるの?」
「んっ? これ? 見ての通り転写しているのよ」
そんなことを真顔で言われても、入里夜の脳みそですぐに理解できるものではない。
これは大巫女のみが使用可能な
龍の魔方陣に魔導書の内容を写し取り、その内容を直接他者に伝承する力。これは禁術中の禁術で、暦も初使用だという。
この力は誰でも使えるような魔法も、本来莫大な時をかけて多くの修行を乗りこえ身に付けるような高等魔術や、はては禁術ですら瞬間で伝承する。まさに大巫女の特権を集約したような禁術なのだ。
『
読み取りを終えた暦は、ふいに指を鳴らした。切れの良い音が周囲に響き渡ると、空中に金色の魔導書が現れて暦の手に収まった。
なんとこの母は指を鳴らすだけで魔導書を出せるのか。入里夜は内心で驚いていたが、もはやいちいち口に出すことはしなかった。
暦は手にした龍の紋章が描かれた魔導書を金の台に置くと、何も書かれていない項を開いた。
入里夜が側で見ていると、暦はまたもやどこからともなく純銀製の羽ペンを取りだし、インクもつけずに魔導書になにか書き始めた。それが終わると、魔導書の内容を写した右手の魔方陣を、龍の魔導書の余白にかざし、内容をそこへ写す。
すべて写し終えると、暦は手の魔方陣を消して入里夜のほうへ向き直った。
「入里夜、準備はいい?」
「う、うん、もちろん! ここまできたんだもん、今さら後戻りなんてしないよ」
暦は娘の返答を聞いて少し驚いた様子だったが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうね、あなたに聞くまでもなかったわ。じゃあ入里夜、この魔導書の空いているところに名前を書いて、その上から手をかざして」
「う、うん、でもなにをするの?」
入里夜は少し不安そうな顔で暦を見上げた。彼女はたしかに強く優しい心を持っているが、生まれつきの怖がりと心配性が清めの儀式でなくなるわけではない。
「この龍の魔導書は、
「へえ~、じゃあ契約書みたいなものなんだ」
「そうね、そこに名前を書いて龍神様に認められたら、龍神様が魔法使いになるための魔力と、それを行使する
「そ、そうなんだ……」
入里夜にとって神龍と契約するなど未知の領域なので、多少の恐怖と不安があるが、彼女の中に引きさがろうという意思は毛頭なかった。
入里夜は母から羽ペンを受け取り、震える手で名前を書くと金色の名前にそっと手をかざした。
「お母さん、これでいい?」
「ええ、これで準備完了ね」
暦がふいに、右手の親指を軽くかみ切った。それを見た入里夜の目がまた大きくなる。
「お、お母さん? なにしてるの!?」
暦は親指から流れる血を、魔導書の魔方陣にこすりつけながら平然と答えた。
「んっ? これは血判よ。私が真の大巫女だということを証明するには、これが一番なの」
「へ、へえ……」
暦はしれっと言っているが、血判などというものを見たことすらない入里夜にとっては、おどろきが大きい。
「これでよし。入里夜、まずはあなたに私の魔力を送って、あなたの魔力を目覚めさせるわね」
「わ、わかった。でも私に魔力なんてないよね?」
「いいえ、そんなことないわ」
暦いわく、誰でもごく微量の魔力を持っているらしいのだが、魔法を使うには少なすぎる。
本来は長い修行を行って心身を鍛えて魔力を高めていくというが、今回は時間がないため大巫女の特権を用いてそこを省くという。
つまるところ荒療治に近いやり方なのだ。入里夜はその副作用で痛いめに遭うことをまだ知らなかった。
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