第七節~浄めの儀式~

 入里夜は輝く瞳で、むすうの光が飛び交う美しい空間を見回した。

「何これ! すごいきれいだわ。お母さんにも見せてあげたかったなあ」


 少し時が流れ、入里夜は天井を見あげて異変に気づいた。

「んっ、あ、あれ!? 天井が高くなってる……」

 最初は目の錯覚かと思った入里夜だが、どうやらそうではなさそうだ。

 やがて……。

 水晶の天井に月宮家の家紋が一瞬広がったかと思うと、天井は速度を上げてどんどん遠ざかっていく。

「ちょっと、なによこれえ、どうなっているの!?」

 入里夜がそわそわして周囲を見渡していると、空中に巨大な真紅の魔方陣が現れた。

「へっ? な、なに……」

 少女がびくつきながら見上げていると、魔方陣がほのかに輝き、儀式の部屋でみた女神像が現れた。変わらず飛行石で浮かんでいるが、それが入里夜の真上だ。

「…………」

 入里夜はぽかんと口を開いたままそれを見上げた。女神像の大きさと飛行石の大きさを比較すれば、落ちてこないか心配でたまらない。

 すると、しばらく聞こえていなかった昨夜の声が入里夜の脳裏に流れた。

『お待たせしたわね、いまあなたの心は落ち着いて優しさで満たされたわ。これで全ての準備が完了よ。それじゃあいよいよ儀式を始めるね。さあ一緒に

「えっ? 行きましょうって、どこへ」

 なんて聞き返してもむろん返答はない。これ以上どこへ行こうというのだろうか。

 しかし朔夜の声には、優しく入里夜を導くような愛がこもっていた。彼女はそれに勇気づけられ、

「はいっ!」

 と元気のよい返事を返した。までは良かったのだが、少女はまた声を上げることになる。

 水晶の天井はさらに高度を上げ、どういうわけか透きとおり始めたのだ。

「え、ええええっ! 何がどうなっているの~!」

 入里夜は魔方陣の上でけたたましくわめいているが、叫んだところでなにも変わらない。

 程なくして水晶の天井は、完全に入里夜の頭上から存在を消した。入里夜があたふたしていると。

「なっ、ど、どうして!?」

 不思議なことに、彼女の長麗な髪が吹くはずもない風に揺らされ軽くなびいたのだ。

 驚いた入里夜が顔を上げると、どことも分からぬ夜空が彼女の頭上に広がっていた。

 空間移動したのだ。今の入里夜ではそう解釈するのが精一杯だった。

 落ち着くはずもない心を何とかなだめて辺りをよく見ると、清めの泉ごと見知らぬ地へ空間移動したということらしい。

 空には蒼く美しい満月とむすうにかがやく流星群。そして、高さが十五メートルあった周囲の壁は消え、泉だけがそこにある。

 壁がなくなったので外の様子も確認できた。あたり一面優しい夜風が吹き抜ける大草原のようで、いずれの方角に目をやっても、生き物の気配はない。ただ無限の地平線が広がっている。

気配がまったくないわ……ここはいったいどこなの?」

 神と月宮の巫女の血を引く入里夜は何かを感じたが、今の彼女にはそれが何なのかは分からなかった。

 そしてついに、儀式の本番が始まる。


 朔夜の声がまた脳裏に流れた。

『それじゃあ行くわね。今のあなたの心は、落ち着いて愛に満たされている。実はこの状態じゃないと、儀式が不完全になってしまうのよ』

「そうなんだ……」

『この儀式において何より大切なのはあなたの心。巫女としての誇りを持って、清く優しい心で降り注ぐ聖水をその身に受けてね』

「はいっ!」

 入里夜がきりっとした顔でうなずいた。

『儀式が成功すると、足元にある魔方陣からまた七色の光が天に向かって放たれるわ。その光が消えるまではそこを動かないでね。全てが終わったら元の場所に戻るから』

 入里夜は朔夜の声に無言でうなずくと、改めて衣の帯を締めなおした。


 これで最後となる朔夜の声は、巫女に激励の言葉をおくる。

『空間が元に戻ったら、入ったところから外に出られるわ。……それから、今あなたが着ている衣は儀式の証として持って行ってね。あなたなら、どんな困難や試練でも乗り越えていけるわよ、いり……いやなんでもないわ。頑張ってね!』

「は、はい! 私がんばります!」

 入里夜の弾むような声が穏やかな草原に流れた。


 朔夜の長い説明が終わると、天使像の右手に花模様の魔方陣が浮き上がった。

『さあ、聖なる神の水を……』

 どこからともなく声が響くと、天使像の手にある魔方陣から聖水が美しい雨のように降り注ぎ、真下にいる入里夜に優しく降りかかった。

 入里夜は言われたとおりに辛いこと、嫌なことを忘れ、できる精一杯の優しい心でその聖水を一身に浴びた。

 入里夜は儀式のあいだ無口だった。喋らないほうが良いと思ったからではなく、この水浴びがあまりにも心地よかったからだ。

 聖水はただ心地よいだけでなく、心を癒し希望を与える朔夜の魔力が溶け込んでいる。

 入里夜の心は聖水によって不安や心配のすべてを洗い流され、彼女の心にあるものは希望の光へと変わっていた。

「……ああ、まるで愛と平和の天使に優しく抱きしめられているみたい」

 入里夜はこの時、その身にまとわりついていた何かが剥がれ落ちるのを感じる。


 放水から約五分。聖水が止まり、その直後足もとの魔方陣がまばゆい光を放った。朔夜の説明どおりだ。

 七色の光は優しく入里夜の中を通り抜け、やがて一筋の光の矢となって天へ駆けあがっていった。

 入里夜は不思議そうに自分の体を見回す。

「なにかしら。私の身体、少し光っている気がするわね」

 それは、入里夜の心が真に清められた確固たる証だった。

 

 儀式が終わると徐々に夜空が遠ざかり、魔方陣が浮き上がったしゅんかん入れ替わるようにして水晶の天井が現れた。

 やがて浄めの泉は元の姿へと戻り、辺りはしんと静まり返った。

 入里夜は来たときと同じく魔方陣の上に立っており、頭上の天使像は消えていた。

「えっ、これで浄めの儀式は終わったのかしら」

 入里夜はとにかく儀式の部屋へ戻ろうと思った。軽く辺りを見回すと、降りてきた石段が遠くに見える。どうやら出入口はそこしかないようだ。

 入里夜は衣の裾を軽く持ち上げると、ざぶざぶ歩いて石段まで戻り、儀式の部屋へと上がっていった。


 入里夜の心は晴天の空のように晴れわたり、朔夜への感謝の気持ちで満たされていた。大魔界への激しい気持ちも落ち着き、彼女の心の中にはもう、彼らに対する負の感情はない。

それどころか。

「……いつか、大魔界かれらを悪の支配から解放したい!」

というケルトに近い感情すら持ち合わせていた。


 しかしお間抜けな入里夜は、ここまでしておいて浄めの儀式を自分が行った理由を理解していない。


 

 

 ――永遠に日が差すことのない、名すらも与えられない安寧の大地。そこに一人の女性がいた。

「……ふう、本当にウラヌスのいう通りになるなんてね。■度目の大魔界の襲撃、そして暦の娘……入里夜ちゃんが救済の巫女として動き始める。占星術師ウラヌスがこの先どこまで正確に占っているのか知らないけど、私の役目はひとまず終わり。あとは任せたわよ、暦。もう少し……だから」


 月から遠く離れた安冥の地で、月の始祖が常闇の空を駆ける星を見あげ、静かな草原を飛び立ったことを、生けるもの誰ひとりとして知らなかった。


 ……知る由もなかった。

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