第二十五抄 冥漠に至る爪先
泰望と切雲は刑部屋敷の、泰望の私室にある応接間にいた。お互いに面を合わせて向かい合うように各々は楽な姿勢で座っている。
切雲は入室する際に部屋全体を一瞥した。十二畳ほどの広さに露草色の床が部屋を清廉に魅せる。家具は行灯の他になぜか木彫りでできた動物の置物があるだけで、官吏と言えども外観の荘厳さと室内の質素な雰囲気はどうにも齟齬があるようにも思える。政務室の方がよっぽど豪華である。この男は意外に倹約家なのだろうか、などと切雲は仏頂面のまま思案する。
「結論から言ってこの葉朧圏から君たちが容易く抜けることは不可能に近いな」
泰望がそう大事でもないように言う。切雲は最初から期待などしていなかったので冷めた目をしながら「はぁそうすか」と言う。
「示し彫りや
墓帳とは人間が生まれてから死に至るまでの所謂生涯を管理するための個人の籍の総称であり、出生と共にそれぞれの執政機関へと届け出をする。これと共に示し彫りを与えられることになる。墓帳はこと必要不可欠な生きる権利の象徴でもあった。
とはいえ、これらを改竄することは明らかに罪である。しかし葉朧圏にある執政機関の統制というのは、大体は現時点では抜け穴の多い部分もあるために泰望はそれを容易いことと言うのだった。
「まぁそうすね」
「第一俺はこの示し彫りとやらは好かん。親父の代から始まったものだが何の意味がある?」
「あんたがそれを言うんすか。他圏へ行くための通行手形にはなってるでしょうが。それがなけりゃ大分困るってのが今のおれみたいな奴なんすけど」
「だからそこだよ。"無ければ困る"、これは人の手で生み出してはいけないことではないか。最初からそんなものをつくらなければ君が問題を抱える羽目にならずに済んだはずだ」
「“無ければ困る”ものが“無くては困った”から存在するんじゃないすか?それにあんたの言うことは事の結果を見てる傍観者の正論でしかないす。ゆえに暴論すね。後手に回ったなら状況を打破できる代替案を掲げてみせるくらいのことをしないと、己の無力さを露見するだけになるすよ」
泰望は切雲の言葉に一瞬目を見開くと、顎に手を添えて項垂れるような姿勢になる。そうしてしばらくすると顔を上げてこう言った。
「俺は意外と、切雲、君の捻くれた正直さを好ましく思っているようだ。気に入った」
切雲は侮蔑の眼差しを向けながら、得るものがないと知り部屋を後にしようとした。しかし後ろから泰望が着いてくるので鬱陶しく思いながら「あんたはヤローの手水についてくるんすか」と振り返る。
「君とならば寝食を共にすることもやぶさかではない」
と言うので切雲は本格的に米神を浮き立たせて「あんたとは分かり合えそうもない」と後ろ手に戸を勢い良く閉めてその場から離れた。
あとに残された泰望は一人取り残された部屋で「からかっていたことがバレたか」とうそぶいた。
「そりゃあねえぜ秋官殿」
どこからかドスの効いた声がした。そうしてすぐに声の正体は濃い影を落とし泰望の傍におどりでる。上半身の筋肉を露にして、両足には重量感のある鎖を結びつけており、男の威圧感は並みの者であれば大抵怯んでしまうものであろう。
「なんだ。男同士ならばさらけ出すつきあいの方が良いだろう」
泰望の頭を遥かに抜きん出ている体躯の男は溜め息を落とし、これ以上の軽口を止めるかのように首を傾け軽快で不気味な音を鳴らした。
「なんでもいいんだがよ。ちょいと小粋な話を耳に挟んだんでまあ聞いてくれや」
男が泰望に聞こえる程度の声で耳打ちをする。泰望は男の話を聞きながら口角を上げていく。
「
幵耦と呼ばれた巨漢は言葉を発する間もなく忽然と姿を消した。
「ようやくツキが顔を見せたな。待ち焦がれたぞ」
──────
「切雲!」
抖協と共にいた瑠璃は、刑部屋敷から出てきた切雲を見つけると走り出した。
「泰望さんとの話はどうだった?」
「これといって何もないす」
「何だか疲れた顔してるよ切雲」
切雲が眉間の皺をほぐしていると、隣の建物からゾロゾロと男たちが出てきた。揃いである衣服を見に纏い、まとまって行動する光景はどこか鬼気迫るような緊張感を醸し出している。
抖協が先頭にいる男へと話しかけた。切雲と瑠璃からは会話の内容は聞き取ることができなかった。抖協らが話を追えると男たちは門まで勇み足で進んでいく。
「大黒付近に危険人物の目撃情報があったとのことで、刑部の者らに召集が掛かったとのことです」
戻ってきた抖協がそう伝えた。
「危険人物?」と瑠璃が尋ねる。
「はい。詳細を聞けたわけではありませんが……。しかしどうやら町にある人物の命を狙った暴漢がいるらしく、被害拡大を未然に防ぐ目的のようです」
「武器を持っているんすかね?」今度は切雲が問う。
「可能性としてはありましょうな。なんせ市井に召集されるということは基本的にありませんから」
深刻気な二人の様子を見て瑠璃はたじろぐ。何かが起こっている、それもかなり非日常的なことらしい。
「武器って?」
「人に危害を加えられるものすよ」
「危ないもの?」
「瑠璃殿、先程小生が受けた毒は武器でもありますからね」
毒、と聞いて瑠璃は思い出す。
『触ってはなりませんよ。貴女では即効に毒が回りはじめもがき苦しみ身体中の穴という穴から体液が吹き零れるでしょう。やめなさい』
抖協は確かそう言っていたはずだ。
「だったら、その暴漢ってヤローはただじゃすまないすよね」
「ええ、恐らく問答無用で死罪でしょうな」
するとそこに刑部屋敷からゆっくりとした足取りで男が歩いてきた。──泰望だ。
「おお、お疲れさん」
「秋官殿」
先程門まで慌ただしく向かった刑部の男達と比べて、のんびりとした態度を取る男に全員が違和感を覚えた。この余裕さがむしろ不気味であった。
「お前達も聞いたか?どうやら穏やかではない事態が起こっているらしい」
「そう言う割には穏やかな様子すね、秋官殿」
嫌悪感を隠そうともせずに切雲は言う。泰望はそれにただ楽しそうに答える。
「そうか?まあそうかもしれん。俺も今から向かうのだがお前達も来るか?面白いものが見れると思うぜ」
泰望は歩みを止めず瑠璃達の側を通りすぎる。
「世の中が変わるぞ。──公開死罪を行うんだ」
三人は泰望の言葉に身構えた。
泰望の言葉の気味悪さは喉の奥に詰まり、瑠璃は言葉を発することができなかった。
悠久と刹那 今城御日 @ima0ka
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