第二十四抄 染纏空音



「満月姉さん、入っても良い?」


「……矢那か。お入り」


 軽く戸を引き、矢那は満月の私室に入る。行灯舍の女部屋の隣に備わる六畳程の小狭いところである。


 矢那はおもむろに満月に近づくと痛々しそうに満月の顔を見ながら、へたりこむように床へ額をつける。


「満月姉さんごめん。あたしが銭峯のやつをとっちめてやるからさ、そしたらさ、満月さんにこんな……こんなことをしたことを絶対に後悔させてやるからさ……!」


 瑠璃たちを行灯舍から逃がした満月は、それを不服とした銭峯に怒りのまま暴力を振るわれた。とくに顔はあたりどころが悪く、こめかみのあたりにうっ血や、眼下から顎に至るまで頬が腫れてしまっていた。


「最低!最低だ!あんなやつがいてたまるもんか」


 矢那は拳を床に何度も叩きつけ、ぼろぼろと水滴を落とす。満月は段々と赤らんでいく矢那の手をとり、矢那よりは少しばかり広い手でそれを包んだ。


「馬鹿なことをお言いでないよ。アンタがあんな下司のために手を犠牲にする必要なんてないじゃないか。アタシのためにも、そう」


 矢那が勢いよく面を上げる。そうして包まれた手を乱暴に振りほどき、満月の肩を掴んだ。


「馬鹿はどっちだ!満月さんがこんな目にあってあたしがどれだけ心配しているのか分からないの!?あたしがどれだけ満月さんのことを慕っているか、満月さんなら、もうくどいくらい分かっているはずじゃない!」


 矢那の勢いに圧され、満月は目を見開き眼前の少女を捉えることしかできなかった。

 矢那は感情的になるところがあるが、ここまでの激情を見せたことはなかった。


 満月と違い、童顔で少し目尻の吊り上がったところが特徴的な目元や丸い頬は赤く上気している。怒り、悲しみ、そのどれもを抑えることができずに、混乱しているようにも見えた。


「矢那」と満月が振り絞るように言うと、矢那はハッとして次第に青ざめていく。


「満月姉さん、あたし……っ」


 言い終わらないうちに満月は矢那を引き寄せ抱き締めた。


「アンタはいつもアタシのことばっかだね。たまには自分のことも考えておやりよ。心配かけちまってすまないね、矢那」


 もう一度あやすように「ごめんね」と、腕の中で強ばる矢那にだけ聞こえるように声を潜めて言った。


「あたしは、満月姉さんのことを考えたいんだ。馬鹿なんて言ってごめんなさい」


 矢那は一瞬躊躇をしたが、力強く満月を抱き締め返した。嗚咽がどうしようもなく漏れてしまうことを諦めてあふれるまま泣きじゃくった。満月は顎下にある矢那を思う。流れるままこぼれていく涙の粒が、満月にも伝う。それは温かく、満月が触れた途端に冷えていくようだった。


 ─────



「湖磨」


 満月は私室から女部屋にいる一人の女へ声を掛けた。


「あれぇ満月サンー。まだ寝てなかったの」


 女部屋と隣り合っているとはいえ、一間分空いている満月の私室は周囲から明け透けと見えるようにはできてはいない。湖磨と呼ばれた少女は女部屋でも若輩にあたり、矢那と変わらぬ年代の少女である。


「悪いが、そっちの部屋に矢那の布団を用意しといちゃくれないか」


「ねぇーあの子どうしたの?今日は夕餉にもいなかったんだけどさー」


「体調が優れないんだ。アタシの部屋で今休ませてるんで、就寝時間の頃までに運んじまうから頼むよ」


「それー助かるぅ。所在札誤魔化すのも面倒だし、夜の出歩きは懲罰モンだしぃ」


 湖磨の特徴的な緩い語尾とは裏腹に、観察眼に鋭く良くできた性分を満月は一目置いていた。


「アタシの方こそ助かるよ」


「ねぇ満月サンあのさ」


 満月が私室に戻ろうとするのを湖磨が引き留めるように声を掛けた。


「ハムシのやつ最近見ないねぇ?どうしたのかなー」


「ああ、ハムシか。さあね、いい加減ここを見限ったんだろう」


 満月は一瞬肌を刺すような緊張感を持ったが、湖磨のさして興味も無さそうな様子を見て、深読みはせずに答える。


「でもさぁ、ハムシってどこか浮き世離れているというかー。どこにいても一緒ですって悟っているような感じだったじゃなぁい?」


「何が言いたいんだ?」


「あのさ、いい……?」


 湖磨は「耳貸してぇ」と満月に詰め寄る。満月は猜疑心をもちつつも屈み、湖磨へと顔を寄せた。


「瑠璃って子とぉ、駆け落ちしたんでしょ?瑠璃もいなくなったわけだしー」


 ここで満月は気づいた──女部屋の女たちが我関せずという素振りを見せながらもこちらの会話に関心を寄せているということを。


 満月は頷くでもなく首を振るでもなく、背筋を元に戻してしばし沈黙した。ほどなくして「野暮はやめときな」と言い、納得のいかないような湖磨や女たちを置いてその場を後にした。


 満月が女部屋から離れると、途端にきゃいきゃいと話し声が盛んになった。満月は呆れるようにため息を吐くも、平常時と変わらぬ女たちの様子に安堵する。口角が上がると鈍い痛みが頬に広がる。けれどどうして、不快ではなかった。


 ─────


「悪いけどそれはできない」


「お前のような浮浪者にはよくできた話だと思うがな。……ただで引いてもらうわけにもいかない。こちらの面子もある」


 すきま風の漏れる小さな廃墟で、日陰となるこの場所は日が昇る頃にも薄暗く気味が悪い。どこからか差し込む申し訳程度の日差しも薄く、室内の埃に混じり曇ったように映る。双方とも声が低いことでかろうじて男だと認識できるが、お互いの顔ははっきりとは現れてはいない。


「うろつきたい奴からしたら、生きている間中同じとこで働き続けろっていうのが無理な話だ。どこを有り難がればいいんだ」


「く……野生の獣と相対するというのは、こちらにも良い刺激になるな」


「それで、条件は」


 相手の話など興味が無いとでも言いたげに、片方の声は催促する。


「いいだろう。ではこれを依頼しよう。遂行したあかつきには先の話を承諾しなおかつ報酬も与える」


「そりゃあ美味い話だな。で?内容は」


「我らの主が探している人物が二名いる。どちらも子どもだが急を要する。女の方は引き渡し、男の方は処分しろ」


「処分ってのは」


「お得意だろう?勝てば良い」


 この場合の勝て、というのは人命の取引である。つまり最後に生き残った方が勝ちという単純なものだった。


「罪もねえのに?」


「主にとっては大罪人だ」


「なら官吏にでもつきだせば良いんでねえの?」


 もう片方の男は、うっすらと濁って照らされる、長い顎をさすりながら笑んだ。


「仇は自らの手で取らねば意味が無いだろう?」


「手前でやれよ」


「今からお前と結ぶのは締結だ。締結で結ばれている間は主にとって身内も同然の繋がりだ。赤の他人よりも頼れるのは身内だろう」


 口の減らない男に呆れながら、これ以上の会話を切るべく立ち上がった。


「身内がいねえから分からねえな。とりあえずやればいいんだろ」


 出ていこうとする男が入り口の脆い立て木をどかそうとすると、背を向けたまま声を掛けられる。その一瞬、隙間からの光が増して男の姿を垣間見た。瘦せぎすで愛想の悪く、人を小馬鹿にしたような態度で座したままこちらを見ていた。


「ああそうだ、目的の人物たちの特徴だが……」

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