第十九抄 朔に問う


 ふぅ、とため息を吐く。ぼんやりとした影となり宵闇の中で佇んでいると、このまま一面の黒に呑み込まれてしまいそうな心地になる。


「月はどこへ行っちまったんだろうね」


「お前がいるから充分だとよ。照れて隠れているのさ」


 もう一人分の影が闇の中に紛れていた。満月はため息の行き先を確認してから空を見上げる。


「月にも自分の役割を果たしてもらいたいもんだがね」


「はは、耳が痛い。だが相変わらずで安心したぞ」


 満月と泰望は刑部屋敷北門の表と裏にそれぞれ立っており、合わせるように背中を門壁に預けていた。


 人々は夜半になれば活動をやめ、就寝するのが常であるため道に明かりなどは置かない。刑部に限らず、圏内の家屋にある北門は忌門キモンと呼ばれ、夜はおろか日中にも近づく者は少ない。


 そのため遠くから見ると人がそこにいるなど誰も分からないだろう。だが、寝静まるために耳鳴りが聴こえるほどの静寂の中では二人の声はお互いに良く届く。


「いつ振りだろうな、満月とこうして相まみえるのは。息災だったか?」


「白々しい。アンタのとこの使いが行灯舎に紛れ込んでんのは割れてんだよ。アタシの行動も逐一報告されているんだろう」


 泰望は愉快そうに笑う。満月にはその姿は見ることができないが、背後から言い様の無い不快感を受け取った。


「許せ、こちらも仕事だ」


「それで、アタシからの伝言は伝わってるのかい?」


「それがなあ。出世払いにしたはずなんだがツケを今すぐ払えって言うんで少し戸惑っている。こう見えてもカッツカツでな」


 満月は先程より重くため息を吐いた。昔馴染みであるからこそ、泰望のこうした性分が好ましく思えない。


「最初からアンタに出世なんか期待しちゃいないよ。アタシはただ成すべきことを成せと、自分の役割を果たせと言っている。それは泰望、アンタにしかできないことなんだ」


 「アタシじゃどうしてもできないことだ」と満月は近くも遠くにも見えない夜空を眺めて言う。


「俺自身に出来ることはしているつもりさ。むしろ褒められたいものだ。威光を借りずともここまでは来た」


 泰望の見つめる先には刑部の屋敷がある。


「ツケてばかりの男の言葉とは思えないね」


「だから出世払いにしたじゃないか。俺は将来有望だぞ」


 恐らくあの男は胸を張って得意気に言っているのだろう、と満月は思う。泰望は握りしめた拳の行方をさ迷い、胸にドンと当てた。


「アタシはアンタが羨ましいんだ。桂風ケイフウ様のことも」


 泰望は何も言わなかった。満月は少しだけ睫を伏せて横髪に触れる。


「言ってしまえば本当は、ツケてきたのはアタシの方なんだよ。だけど、これだけでいい、今回だけでいいんだ。アタシの頼みを聞いてくれないか」


 泰望は背後の壁面に後ろ手でそれを添わせる。壁を透けてここにいるのだと伝えられるように。


「アタシからアンタに、最初で最後のお願いだ」


 宵闇に月の姿はない。


「銭峯を裁いてほしい。方法は問わないから」


 「……最後にするなよ」という泰望の呟きが届かぬ間に、満月は煙のように姿を消した。



───────


 切雲が目を覚ますと、半歩分空いていた隙間に瑠璃の腕が伸びて切雲と指同士が繋がっていたことに気付く。


 頭を抱えつつ、その寝顔を見ると振りほどくこともできずにどうしたものかと数秒思考する。やがてそっと瑠璃の指をほどいた。


 そうすると瑠璃も瞼をうすぼんやりと開き切雲の姿を捉えていく。切雲が「おはよう」と言うと緩みに緩んだ笑顔が返ってきたのだった。


 布団を畳み終わったところで旦顕が襖を開けて様子を確認しにきた。入るなりほっとした顔を見せたので切雲は肩を竦める。


 朝食は旦顕の家にある八畳ほどの居間で摂ることになった。食事は本来、刑部屋敷にある食堂から支給されたものを各住居まで配膳されそれを頂くのだと言う。


なので、昨夜のように皆が集まった晩餐等は稀だと旦顕は言った。瑠璃は賑やかな食卓を思い出しながら、旦顕と切雲とで囲む今の和やかな空間に浸っていた。



───────



 瑠璃は泰望に用があると言う切雲と、刑部官吏──旦顕は仁の位の正士しょうしという役職なのだと言う──としての務めがある旦顕と共に刑部屋敷へ向かった。


 瑠璃はそれに伴わず、旦顕の住居を出た。行きしなに旦顕から「刑部の外には出ないように」と念を押されたため近くを歩くことにした。


 ただし瑠璃も勝手が分からずに、どこに行こうかとこまぬく。そして、ある場所へ向かう。


 瑠璃は刑部屋敷の前にいた抖協とすれ違う。会釈をした抖協に挨拶を返して、瑠璃はそのまま歩みを進めようとするが抖協に制された。


「ああああいけません、瑠璃殿!いけません!地下牢にどんなご用向きがあるというのです」


 瑠璃が向かおうとしたのは一昨日の晩にいた地下牢だった。瑠璃が刑部で知っている場所というのはこの地下牢と屋敷だけである。


「秋官殿でしたら屋敷におりますから、接見…いや謁見のお気持ちがあるのならば小生が取り計らいますよ」


「ううん。泰望さんは今、切雲と会ってると思うから私はいいの。抖協さん、ここから先には行ったらいけない?」


「小生がお伴させていただけましたらできますが…」


「お願いしてもいいですか」


「断る理由がございませんな」


 即答した抖協に瑠璃は少し驚いた。怒られると思っていたが抖協はどうしてか上機嫌になったようだ。


 抖協を先頭にして地下牢の奥底へと下っていく。地下に深まっていくほど生暖かく、思わず身震いをしてしまう。


「あの、瑠璃殿。伺ってもよろしいですかな」


 ゆっくりとした足取りを止めないまま、手燭に灯る火を揺らめかせて抖協が瑠璃に訊ねる。


「如何なお気持ちで、ここに来ようと思われたのでしょう。あまり気持ちの良い思いをした場所とは思えずに、不躾ながら小生は気になっております」


 抖協のふわふわとした榛色の後頭部を瞳に映しながら、瑠璃も歩みを止めずについていく。


「うん、あまり良い場所では無いとは思うの。だから私も気になったんだ」


「はて」


「家は誰かが作った場所で、ここも同じように誰かが作った場所。でも家みたいに、人がいるために作られていないでしょう。それはどうしてなんだろう」


 ははあ、と抖協は唸った。目前の扉を開いた先には人を収められる場所がある。そこで抖協は歩みを止めた。瑠璃もそれに習う。


「この先に捕らわれた際に、ここにいたくはない、そう瑠璃殿は思ったわけですな?」


「うん」


「ならばそれが答えですよ」


 瑠璃は首を傾げる。


「瑠璃殿がお思いになったように、ここは人の手で作り込まれた場所、人が“いてはいけない”場所です」


「“いてはいけない”……?」


「ええ何故ならば、ここは罪を犯した悪しき人間が行き着く、穢れた場所なのですから」


 重たい前髪に隠された抖協の双眸が瑠璃を見抜く。慎重な物言いとは裏腹に、その口元は歪み笑んでいるようだった。

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