第十八抄 晴雲秋月



「君には驚かされるものだな」


 話の腰を折って介入してきた少女の顔は必死そのものだった。


「今の話は私には分からないことだけど、きっと難しい問題なんだよね」


「そうだな」


 泰望は息をついた。そこではじめて、自分が中々に荒い呼吸をしていたことに気づく。


「私や切雲が住むことができる場所を探すのと、今の話はどちらが泰望さんにとって難しい?簡単な方から、答えを見つけたらいいと思うの」


 瑠璃の愚かなほど真っ直ぐな言葉は、泰望を狼狽えさせるばかりだった。


「それは……」


 切雲も瑠璃から泰望へと視線を向け返答を待つ。泰望は口を開こうとして、一度はやめた。そして、二人のに向き直り尋ねる。


「念のため聞くが、君たちは示し彫りを施されているかな?」


「いや」

「持ってない」


 泰望の眉間に皺が増える。「簡単なこと」とは何だったか。


「登録身分がないということになるな。しかし二人の齢から新たに届け出るとなるとまた話がややこしくなる……うむ」


 沈思したか思えば程無くしてぱん、と調子良く手のひらを合わせた。


「君たち、腹は空いていないかね」



──────



「で、なんでこうなってんすかね」


 泰望の部屋とはまた別の、その部屋よりさらにひとまわり広い間へと場所を移した。部屋の直線に合わせたような長い机が置かれており、端を埋めるよう規則的に並び一同は座していた。今度は抖協をはじめ、泰望の部下数人も同席している。


「もちろん食事をするためだが」


 泰望はあっけらかんと答える。切雲の態度とは対照的にその部下たちは上司にならって各々笑い声をあげていた。


「突然召集するから、何事かと思いましたって」


 頭髪を後ろで結った体格の良い男が応えた。衣服は揃いのものなのか鈍色の着物をそれぞれが思い思いに着こなしていた。


 切雲はふと瑠璃の方を見ると彼女が瞳を輝かせていることに気づく。


「瑠璃。もしかしてお腹空いていたんすか?」


 瑠璃ははっとした様子で、首を横にぶんぶんと振る。


「目の前にあるご飯が見たことないものばかりで驚いたの。全部、食べられるの?こんなにも綺麗なのに?」


「もちろん食べられるとも」


 切雲の隣である上座にいる泰望が満足そうに答えた。瑠璃はますます目を輝かせている。切雲はため息を大きく吐いた。


「この際だからいっぱい食わしてもらうといいすよ。迷惑料ってことで」


 無論いっぱい食べて貰うつもりだとも、と胸を叩き誇らしげにする泰望。切雲は白けた顔を向けつつ一飯の礼を言う。


 泰望の部下たちはとても気さくで、瑠璃たちを容易く場に馴染ませた。珍客を交えた晩餐の時間はあっという間に過ぎる。


─────



「結局話は濁らせたままだったすねあの軟派ヤロー」


「でもほら、私たちがいてもいいって部屋を用意してくれたよ」


 瑠璃の言う通り、泰望は間借りできる部屋をあてがってくれた。それは泰望の部下である旦顕だんけんと呼ばれる壮年の官吏の居住区にある住居だった。


とは言ってもそこは刑部が設置された屋敷土地区画の一角にあるため、刑部が管理している宿舎のようなものである。


 なお、待望は刑部の長であるため先程まで瑠璃たちがいた刑部中央屋敷の中に私室を持つ。


 刑部は大黒から北西約四里(※一)の位置に座する。縦、横の直線が共に約一理(※二)の距離がありその正方形に収まるように中央屋敷、官吏居住区、地下牢など刑部にとっての要所が集約されている地だ。


「よりによってよ、こんな寂れた宿たぁ災難だな」


 旦顕は客人用の布団を二人が間借りする客間に運びながら言う。


「すんません。すぐ、他のところに移れるようにしますんで、しばらく世話んなります」


 切雲は立ち上がり深々と頭を下げた。瑠璃もハッとして切雲に続く。


「いやいいさ。若い奴が他人に上手く気を遣おうとするな。どうせ俺一人だしな。ゆっくりしてくれ」


 部屋の住みに布団を置いていくと、自身の肩に手を当て首を回す。そうして二人を見る。


「同じ部屋が良いらしいが、良いのか?狭くないか?」


「……瑠璃に言っても聞かないもんで、気にしないでほしいす。なんもないんで……」


 切雲の気苦労を察した旦顕は同情の面持ちを見せつつ「何かあったら呼べよ」と声を掛けると自室に戻っていった。


 切雲は、旦顕が自分達の事情を聞かないでくれたことに安堵した。恐らく泰望がある程度は話しているだろうが、あまり公にしたくない部分もある。自分の事情に巻き込むようなことは避けたいからだ。


 一室をあてがってもらったことはありがたいとは思っていたが、恐らくこの暮らしを継続することは難しいだろう。銭峯の刺客がいつこちらに気付くか、時間の問題である。


「どうするすかねー」


 うーん、と頭を捻らしてはみるが良い案は浮かばない。満月が背中を押してくれたとはいえ何の計画も無く逃げてきたことには違いない。正直展望が開けない事態ではある。


 予想外はもうひとつ、瑠璃の存在だ。


 切雲一人ならば、手段を選ばずに今後の逃亡の算段を練ることができそうだが、瑠璃を放っておくわけにもいかない。また後日泰望に掛け合うしかないだろう。


「切雲」


 黙ったままの切雲の袖を瑠璃は引っ張る。


「泰望さんとの話、邪魔してごめんね」


「何で謝るんすか」


「大事なことだったでしょう」


 切雲は先ほどの自分の発言でも気にしてしまったのだろうか、と思った。切雲からは瑠璃の髪と伏せられた伸びる睫毛が見える。平素ならばその光沢は美しいと評されそうなものだが、今の瑠璃は濡れそぼった野良動物のようにも見えてしまう。


 萎れた花には水をやるんだったろうか。切雲は瑠璃のこうした姿に弱いらしいということを、この短期間のうちに自覚していた。


「瑠璃は悪くないすよ。あの時話題を降ったのはオレすけど、やっぱりあそこであの軟派ヤローと話すだけでなんか解決したかって言ったらしないすからね。瑠璃の判断は間違ってないすよ」


「切雲の邪魔にはなりたくないんだ」


 これが本音か、と切雲は思った。瑠璃は天真爛漫かと思えば突然自分の存在を卑下するような言動を取る。恐らく前者が先天的な素質だろうが。


 隅に置かれた小さな鉢には、短く切り揃えた茅を束にし蝋で固め、茅の先端に油を湿らせ火を点した明かりがあり、ぼんわりと室内を照らす。火の元はジジジと音を立てて着々と燃え続けている。きっとすぐに、尽きるだろう。


「心強いよ」


 瑠璃は切雲の言葉に顔を上げた。


「瑠璃がいるから、不思議と前に進んでる気がする。行灯舎から出たことも、運良く軟派ヤロ……秋官の元に来れたのも全部瑠璃がいたからすよ。じゃなかったら、オレは今でも銭峯にこき使われてたままだったと思うす」


 それに、と付け加える。


「名もハムシのままだった。切雲って、オレも久々に名乗ることができたす。これも瑠璃のおかげね」


 切雲がふわりと瑠璃に笑って見せた。本心を素直に表すとそこでやっと瑠璃の表情に熱がこもった。


「名前、大事だから。でしょ?」


 するとぽろぽろと瑠璃が静かに泣き出す。切雲は何となくそうかなぁと思っていたので動じない。


 大黒の前であの男と話している時も、切雲が名乗った後も瑠璃は名前を強く意識していた。瑠璃にとって名前とは特別なものなのだろう。


 切雲は、弱く揺れる明かりが消えてしまわぬうちに旦顕の好意で用意された布団を敷き始める。瑠璃も泣きながらでも何とか自分の分を敷いていたようだが、瑠璃が敷いた布団はよれよれで、切雲は小さく吹き出した。整えながら、切雲と瑠璃の布団同士の間に半歩分の隙間ができるように隣に並べる。


「散々な事が続いて悪い方向に考えちまう時は、一旦寝ることすよ。ほら」


 掛け布団の中に入りつつ、瑠璃にも促す。うごうごと潜りながら瑠璃は布団から切雲を覗く。その目元にはまだ涙が滲んでいた。


「うん。切雲、あのね私も切雲がいてくれて良かったよ」


「ん」


「ありがとう切雲。また明日……」


「っす」


 泣き疲れたことで、そのまま瑠璃はするりと眠りにつく。規則正しい寝息が聞こえてきて切雲はほっとした。


 切雲は足音を立てぬように立ち上がり、鉢で辛うじて燃えていた灯を息を吹き掛けて、消した。




─────


※一 一里を約550m程として、四里は約2.2km程。

※二 一里=五町=550m

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