第十六抄 闇夜の暈音


 ずっと、もうずっと、昼の間に差し込む日の動きを眺めていた記憶がある。


 言葉を交わすこともない、顔さえ朧気に覚えた家族と呼べる人たちがいた。隔てるために積み上げられた藁越しに気配をいつも感じていた。


 足首には冷たい鉄の輪がかけられている。そのため部屋の外へ行くこともない。


 日の動きは時に従順だった。まるで己の身のようであった。


 考えるということはとうの昔に諦めていたのかもしれない。


 日の動きに合わせて部屋を歩いてみる。幾日もそればかり繰り返していた。


 床から目線が遠のいていくことだけが、日々同じ景色を見る自分の視界の中で変化を感じさせるものだった。


─────


 部屋の角で女が首元をおさえ息苦しそうにうずくまっていた。


 女の目の前には年配の男が仁王立ちをしていた。肩を怒らせ眼を血走らせている。


 その女は葉朧圏にある圏門、大黒近くにある長屋〔行灯舎〕の女部屋にいた一人、満月。


 対する男は行灯舎の家主、銭峯である。


「満月......。貴様は利口だと思っていたが私の読み違いだったようだな」


 満月は息を整えるだけで精一杯だった。首もとには痛々しげな指の痕が残っている。


「何故っ!ハムシと例の娘がここから出ていくと知りながら黙って見過ごしていた!!」


 声が裏返るほどの激しい剣幕で怒鳴りつける。


 その怒号を直接浴びながらも嘲笑を浮かべる満月であった。そのすべらかな肌に浮かぶ血の滲む箇所はとくに目立つ。


「っ.....は......はは、良い、気味だ......」


 その言葉に激昂した銭峯は、満月の横髪の束を乱暴に掴み自らと対面するように持ち上げる。


「一体何様のつもりだ。あの方の娘だというだけで日頃から甘い汁をすする蚤同然のお前自身は、何も力などもたないということをいい加減に自覚しろ。お前の母親のように使い捨てられるだけの人生なんだとな」


 満月は静かに、目の前の男を侮蔑するような視線を注ぐ。微動だにしない口元から奥歯の軋む音がした。


(......覚えていろ。お前をに堕とすのはお前が蚤同然と揶揄するこのアタシだ)



ーーーーー


 重力の響きをもたらしカツカツという人の歩く音が近づく。


 気づかぬうちに眠りについていたようだ。身体に当たる冷たいままの床ではまとう疲労感は拭えぬものであった。意識は朦朧としたままなんとか起き上がろうとする。


(足音、泰望さんかな)


「お目覚めのようですね。お加減は如何です?」


 予想していた人物とは異なる声が耳に入る。


「申し訳ございません。秋官殿の命によりこっそりと眠蒸ねむらしの香を焚いておいたのです。秋官殿もその場におられたがために『俺までも眠らす気か』と叱られてしまいました。いやいやまったく、小生ばかりに否があるとも思えず......」


 暗闇で姿はよく分からないが年若の男とおぼしき声が流暢に言葉を重ね続ける。


「おっと脱線。ご無礼を致しました。小生、秋官殿の家仕けし......とは名ばかりほぼ雑役ぞうえきにあたります身のもの、抖協ときょうと申します。以後よしなに」


「あの、私は瑠璃です。よしなに?」


 そこで男が一歩近づき、手燭とともに顔を寄せる。


「ご丁寧な返礼痛み入ります。──いやぁ秋官殿が『妙な気を起こすなよ』と釘を刺してきた理由が今しがた腑におちましたよ」


 ぼそぼそとした口調で矢継ぎ早に言葉を繰り出す男の顔貌は、あしぎぬのような白地の衣服に身をつつみ、榛色を湛えたまとめ髪が穏和な雰囲気を醸し出してみせる。従容とした様も人当たり良く見せていて、警戒心を和らげるに相応しかった。


(悪い人ではないのかな)


 抖協は少し距離を置き、一寸値踏みするように瑠璃を一瞥した。


「瑠璃殿、貴女はここから出たいのですよね」


「出たい、けど......泰望さんは許してくれなかった」


 懇願してみたものの「聞き入れることはできない」と言われるだけであった。


「うんうん分かりますとも。平時の軽薄そうな態度とは打って変わり、お務めの最中はかなり自他共に厳しい振る舞いをなさる。小生どももその反動にどう反応したら良いものかと艱難辛苦......あら、いけない」


 小生の悪い癖ですね、と気を取り直す。


「実はその秋官殿がうっかりと間違いを起こしてしまったのですよ。それがですね、なんと無実の善良な民を二人も捕らえてしまったのですって」


(他にも捕まった人がいるんだ......。)


「ですがこれはあくまでも内輪で密かに広がっている話。今のところ外部には漏れておりません。そのような違反を犯すような愚行が事実であるならば、さて秋官殿はどうなってしまうのか......」


 指先を首元へ払う仕草をしてみせた。その表情は意味ありげに含み笑っている。


「そこで小生は交渉に参ったのですよ。無実の民である貴女と切雲殿にね。」


 自分たちのことであったとは露知らず、他人事のように話を聞いていた瑠璃は面食らう。


「私たちに、ですか」


「そうですとも。はあ、上司の尻拭いまでが、仕える小生らの損で健気な役割なもので。──ね、どうでしょう。夜一夜の苦行へのせめてもの詫びになるかは分かりませんが、清廉な貴女方に報いるおもてなしをお約束致します。どうかここから出てみませんか」


 しばらくの後、牢の扉が重々しい音を鳴りたてながら開いていった。

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