第2話 親友との境界線

「うう……っ」

 

 意識が飛び、どれほどの時間が経過したのだろうか。

 背中の、無慈悲なまでに平たく固い感触から察するに、未だ床に寝そべっているようだ。後頭部には、じんわりとした鈍い痛みが残っている。 

 それに……なんだろう、これは。誰かが腹を揺さぶっているのか?

 加えて、耳に付くような甲高い声。悲鳴……ではないが、どこか聞き覚えがあった。

 頭痛も徐々に引いてきたので瞼を半分上げてみると、そこにはセーラー服に身を包み、ボロボロと涙を溢す女の子がいた。

 彼女が肩を上下させる度、僕の頬には水滴が落ち、広がる。

 しかしこの女子、僕が先ほど手を伸ばした相手とは全くの別人だった。


「お願いだから目を覚まして……! まもる!」


 守って……ああ、そうだった。僕の名前じゃないか。でも、君は一体――


「もう、起きてるよ……日葵ひまり


 そうだ。僕の大切な幼馴染であり、親友でもある――日葵だ。

 本当に今日の僕はどうかしてる。大切な幼馴染の名前まで忘れてるなんて。頭部を強く打ち過ぎてしまったのか。

 直後、涙の雨は止み、間の抜けた声が僕の脳を駆け抜けた。


「……へ?」


「だから、起きてるって」


 まだ痛みのある頭を片手で押さえながら、むくっと上半身を持ち上げてみせる。

 けれども、それが浅はかだったんだ。

 怪我を心配する人間に無事を伝えた後のことなんて、想像に難くない。


「よ、良かったあ……‼」


 はしゃぐような顔を見せ、瞬く間に抱き着いてきやがった。

 衝撃によって頭は揺れ、同時に頭痛がその存在を激しく主張してくる。


「いッ……!」


「あ、ご、ごめんね!」


 今度は勢いよく離れ、両手を振って弁明の素振りを見せる。

 まずは怪我人に対する優しさを覚えてくれ……。

 僕は一旦、状況を知るべく日葵から視線を外すと、僕らを半円で囲みながら見物しているクラスメイト達を確認した。

 友人同士で耳打ちをしている生徒。ガラケーで誰かと連絡を取る生徒も。

 知識不足なので顔での判断は叶わなかったが、いつもどうりの光景と大差なかった。

 がしかし突然、誰かに舌打ちをされた。決して日葵じゃない。それに、正確に言うならそんな気がしただけなのだが、嫌な気配が確かに全身をなぞるのを感じた。

 まあ、気にしていてもしょうがない。兎にも角にも、状況の確認だ。


「日葵、今何時か分かるか?」


「十五時三十分だけど……それがどうかした?」


「…………は? おいおい、冗談は止めろって」


「いやいや、だってホームルーム終わったばっかだし」


「確かにホームルームは終わったばかりかもしれないが――」


 言いながら、日葵が視線で示した黒板の上に設置されている時計を見ると、


「じゅ、十五時……三十分?」

 

 驚きのあまり声が裏返ってしまう。

 それが正しければ僕は今日、テストも受けずに一日中、寝そべっていたのか⁈


「なら、期末テストはどうなった?」


「守……本当に大丈夫? 今日はもう、帰った方が良くない?」


「何でそうなるんだ」


 目を眇め、聞くと、困惑した表情を返されてしまった。


「だって、期末テストは来週じゃん」


 ん? ………ん?

 やばい。僕の理解力じゃ追いついていけない。まるで、流行に一人乗り遅れたときのような疎外感だ。

 落ち着きたい気持ちとは真逆に、僕は飛びつくみたく日葵を質問攻めにしていた。


「なら、さっきの女子は?」


「? 誰の事?」


「ほら、急に僕の前で倒れた子だよ」


「……倒れた?」


 これもなのか⁈ でも、あの悲鳴を純粋に忘れているとは考えにくいし……。

 周囲の人に尋ねようにも、顔も名前も基本的に知らない。

 やはり今、最も信憑性のある答えは日葵の出すものしかないのだ。

 なら、一体何だったら――


「先生がジャージだったことは覚えてるか?」


「何……言ってるの? 今日はTシャツだったじゃん……?」


 私、合ってるよね……、と不安げに首を傾げる。

 僕の記憶とは全く違うが、それを否定した場合、そもそもどちらが正しい記憶なのかすら判断できなくなる。

 日葵の言う事に間違いはないんだろう。でも、どうしたら……。

 すると唐突に、日葵が口を開いた。


「それってさ、守。不安夢とかじゃない?」


「なんだそれ?」


「現実で不安にしてる内容を夢の世界にまで持ち込む事らしいよ。ほら、期末テスト関系の夢見たんでしょ?」


 なるほど。不安夢と呼ぶのか、これは。

 まあ確かに。言われてみれば勉強でストレスが溜まっていたのかもしれない。

 やっぱり幼馴染というものは、いざという時に頼りになる。


「でさ日葵……今更だけど、何で僕ら、クラスメイトの注目の的になってるんだ? もしかして、生徒指導室行きの切符とか手に入れたとかか?」


「え……」


「え」


 その微妙な反応はまさか。もしかして本当に呼び出しなのか⁈ 人生で一度も生徒指導なんて経験したことなんてないぞ。

 緊張と恐怖は当然のようにあるが、若干の期待と興奮を抱いているのが恥ずかしい。

 どうせ、日葵は冗談混じりに笑っているのだろう。だからと言って怒ったりはしないが。

 様々な事を思案した末に、僕は日葵に視線を戻す。

 だが、言葉に詰まったのはその瞬間。

 日葵が見せた表情は予想と全く異なる――バツの悪そうな笑みだった。


「そう、だね……。もしさ、その切符を手に入れる可能性があるのなら、それは多分……うんん、絶対に私だよ」


 初めて見るその表情に。その言葉に。その口調に。いくら言葉を紡いでも、正しい返答が分からなかった。


「「…………」」


 しばしの沈黙は辺りを包み込み、日葵との間にある不可視の境界線を、日葵の内にある不可侵の領域の存在を強く、そして無情に主張した。


「ご、ごめんねっ! 心配しなくて大丈夫だから! それに今、心配しなきゃいけないのは守の方だもんね」


「あ、ああ。そうだな」


 僕は、あはは、と取り繕った笑みを浮かべることしか出来ない。まして、何があったかなんて聞けるわけがなかった。

 きっと今の僕には、相手に拒まれる勇気が……足りなかったんだ。

 今まで日葵に抱いていた無根拠の信頼が、一瞬にして――瓦解した。

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