〇練
雪海
第1話 不透明な想い
登校なんて、するんじゃなかった。
真夏の暑さが余韻のように残る九月上旬。
二学期制の学校ならばこの時期、とある行事が催されることをご存じだろうか。
その行事に多くの学生は戦慄し、幾度にも渡って苦々しい思いを経験したことだろう。
そう――期末テストだ。
僕自身、教室へと続く階段が億劫で仕方ない。
一体なぜこの時期なんだ。
そんな会話すらもこの行事の一環と言うべきか、ホームルーム目前だというのに教室や廊下、到る所から似たような会話が聞こえてくる。正直うんざりだ。
いや、正確に言えば違うのか。
僕は恐らく、彼ら彼女らにうんざりしているんじゃない。僕だって、親しく話せる友人さえいれば同様の話題で騒ぐに違いないのだから。
「友人さえいれば……」
おっといけない。心の声が。
こういう時、席が窓側の最後尾で良かったと心底思う。
胸の内で咳払いし、気を取り直す。
友人がいなくたって、することは十分にあった。何せ今日は期末テスト当日だ。突き詰めて勉強しても、損どころか得しかない。
僕はページの端に癖がついている単語帳を取り出し、文字の海をパラパラと眺めながら目当てのページにたどり着く。
そうして、赤い丸が幾重にも記された単語を凝視していたとき、ふと、嫌な記憶が掘り起こされてしまった。自然とページをめくる手も止まる
『あいつ、本当にガリ勉だよな』
勝手なレッテルを張り付けるスクールカースト上位の声。
勘違いしないでほしいが、今、現在進行形で勉強することに損なんてあるわけない。
だが――日頃は違う。
休み時間に暇つぶし感覚で単語帳を開いていると、何故か『意識高い系』として扱われてしまう。この不幸な事実に関して僕は全く、一切、露ほども理解できない。勉強こそ学生の本分じゃないか。
そのくせ俺より点数が高いと、驚愕の視線を浴びせてきたり、クスクスとした笑い声が聞こえて来る。特に野崎……覚えてろよ。
でも……あれ? 野崎って一体、誰だっけ……。
降って湧いた何気ない疑問は、反芻する度に脳内を侵食していった。
染み付くような強い嫌悪感は確かに感じる。悪い意味で胸が窮屈になっていることこそ何よりの証拠だろう。だがしかし、野崎という人物の顔はどうやっても浮かばない。
それに、野崎という人物以外にも忘れてはいけない重要な人物が、幾人かいるような感覚に陥ってしまう。
これはなんだ。焦燥感のような。喪失感のような。
すると、程よいタイミングで生徒達に静寂を促すチャイムが鳴り、思考の連鎖がピタリと停止した。その後すぐに、担任の女教師がいつもの冴えない顔で入ってくる。
「はーい。着席です、着席。ほら座ってー」
床と椅子が擦れる音。未だに鳴りやまないチャイム。生徒達の騒ぎ声。
色んな要素がミックスされた雑音が、学校中を駆け巡った。
さっきのはどうせ、夢のことだろう。あんなにも存在を確信しているのに、輪郭が映し出されないというのだから、それしか思い当たらなかった。
「それじゃあ日直さん、号令お願いします」
言われ、すぐに軽い号令をかけるも、あくびで返す先生。
だからか、クラスメイトは着席の号令など待たずに、各々のタイミングで座った。
期末テストだというのに締まりがない。お陰様……というか、先生の所為でこちら側のやる気も削がれそうだ。
「今日も休みなし、と。皆、今日はテストだから気を抜かずにねー」
出席簿と生徒の間を往復しながら、無気力な声で言う。
テストの日に気を抜いていられるのは教師だけだろと、心の中でだけ反論しておこう。
その後、テストに関する諸注意だけをし、先生は教室を後にした。
時刻は八時四十分。テストの開始まで二十分近くある。いや、テスト用紙を配る時間を抜けば十五分程度に縮まるが、それでも復習には十分な時間だ。
僕はもう一度、単語帳を開く。
けれども、余裕な連中と諦めた連中は未だ会話に勤しんでいるらしい。スマホを片手に話す姿が視界の隅に映った。
「お前、マジで大丈夫か?」
「おう! 赤点回避は免れない!」
いや、そこは胸を張るなよ。先生の言葉を忘れたのか。
だがしかし、よく考えてみれば赤点回避とは何に該当するのだろう。
赤点が落第点を指すことは理解できる。だが何故、赤点なんだ。
丸バツの色が赤だからか?
それは赤ペンで丸付けをしているからであって、落第点を指す理由には納得しがたい。それに、だ。それが理由ならば、いくら丸を貰おうとも赤色で埋まる事には変わりないのだから回避のしようがない。
ならば一体、何が赤点回避に該当するんだ。
赤ペン以外での採点は、まずあり得ないだろうし――
そうして思案している最中、ふとクラスメイトの女子が目の前で転んだ。
床を確認しても何もない。きっと徹夜で勉強でもしていたのだろう。
友達がいないとはいえ、眼前で転んだ同級生を嘲笑うほど、僕は落ちぶれちゃいない。
小さく嘆息し、通り道側に半身を出しつつ右手を軽く差し出した。
「大丈夫、ですか?」
僕はそう言ったはずだ。何も相手を不快にさせるようなことは発してないはず。
それに、目だって合っていたはず。なのに――
「…………」
彼女は座り込んだまま、すぐに僕から目を逸らした。
もしかして……嫌われてるのか⁈
しかし、彼女の顔色が優れているといえば嘘になる。
まあ何であれ、行き先は保健室で間違いないだろう。
僕は椅子から立ち上がり、彼女と同じ目線まで腰を落とす。
けれど、その瞬間だった。
「いや……いやああああああああああ!」
彼女の叫び声と共に、一瞬で僕の肝は冷えきった。
額の冷や汗。青ざめた彼女の肌色。怯えたように眼球を震わせて、涙ぐむ目元。
どうしてこうなったかなんて分からない。されど、この事実だけは言葉にせずとも理解できる。彼女は僕の知らない何かに――畏怖していた。
突然の出来事で反射的に周囲を見渡すと、こちらも訳の分からない光景が広がっていた。
――こちらを、誰も見ていなかったんだ。
決して注目を浴びたいと言っているんじゃない。あの声量の悲鳴なら注目されないほうがおかしかいはずだ。
先ほどと変わらず、まるで誰も彼女や僕を認知していないように振舞うクラスメイト。さながら、機械のように。
違和感によって焦燥が刺激され、必然と彼女に話しかけてしまう。
「彼らは一体なんで君を無視するんだ?」
「いや! 近寄らないで!」
「……そう言わずに教えて欲しいんだけど」
「いやああああああああああ‼」
両手で自らの耳を塞ぎ、瞼をキツく下ろしてしまう。
……これじゃあ、どうしようもないな。
思案しながらも一度立ち上がると、彼女の口からは更なる混乱の種子が芽吹く。
「わ、私が……何をしたって言うのよ‼」
枯れた声ながらも口を大きく開き、彼女はそう言った。
脳内が強引に掻き混ぜられる感覚。
ああ、もう。理解なんて出来っこない。謎を解いている時に新しい謎を組み込まれては、一からやり直しじゃないか。
混乱のせいで情報が散らかった頭を片手で押さえるが、しかし間を置かずに、耐えきれない激しい頭痛に襲われる。
「うッ……!」
眉間にはシワがより、足はもたつく。まともに一か所に立つなんて不可能だった。
二、三歩、不規則に後ろに下がると、更なる頭痛が襲いかかる。
その衝撃が原因だろう。僕の体は流れるかのごとく後ろに倒れ、頭が床を殴るのと同時に、意識は飛んでいた――
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