第33話 善意と感謝
旦那が突然倒れたのは確か、今から3カ月前の事だっただろうか。
旦那が親方から1人前だと認められて、それを期に宿屋の娘だった私は木工細工職人の妻になった。
宿屋は体力仕事だ。部屋の掃除に昼夜と食事の提供をして宿泊するお客さんの鍵の管理。やる事は山ほどあるから家は子だくさんで、お客さんも酒を呑むから何時も騒がしい。
喧騒には慣れていたが正直、うっとおしいとも思っていたからサッサと家を出て旦那と安い賃貸で暮らし始めたのだった。
始めの頃は上手く行っていた。旦那の職人としての腕は確かで、木工細工職人と言っても、樽も家の木材加工も請け負っていたから他の人達よりは裕福だったし、2年もすれば弟子も1人出来て、親方は鼻高々に「コイツは俺が育てたんだ」と吹聴して回る程に出世した。
仕事が出来ない男と結婚してしまうと女性は苦労する。そんな苦労をしたくないから恋愛よりも良い仕事に就く男へ嫁ぎたいと思う女は多い。その点、私の眼は間違っていなかったんだ。
ただ、旦那が倒れてからの日々は正直不安だった。
始めの内は「医者なんて罹るか、養生すれば治る」と言っていた旦那も日に日に弱り、両手が動かなくなった時点で遂にお医者様に診せる事になった。
綺麗な服を着て、市民では手の出ない様な高価な眼鏡を掛けたお医者様からは火炎病と診断された。
指先の感覚が命の職人にとって火炎病は猛毒だ。四肢から腐り死んで行く火炎病に罹った職人は仕事が出来なくなる。私はお医者様に治療の薬は無いのかと尋ねたが、治療が完了するまでの薬の価格は金貨が3,4枚と高価で仕事を失った家族が払える金額ではなかった。
私は両親に頼み込み、宿屋の仕事をしながら旦那の介護をし続ける。精神的にも肉体的にも弱り、乾いた咳が止まらなくなって来た。
少し疲れたから休ませてと両親に頼んで、寝室で軽く横になっていると部屋の敷居板を3度、ノックされた。
「・・・お客さん」
私は宿屋の娘だ。休憩中のお客さんの対応にも慣れている。知り合いなら部屋の扉から名前を呼ばれるが、その時の私は何も考えずに扉を開けた。
「此方に、火炎病の患者が居ると聞いたのですが」
如何にも人のよさそうな声で、はっきりとした口調は聞き慣れた労働者の物では無く、先に診せたお医者様の様な丁寧な物だった。
男を見ると黒く艶のある奇妙な服に金で作られたブレスレット。傍には小さな女の子、肌が白くないから遠い国の子だろう。つまりは、裕福な家庭の人。
宿屋では宿泊するお客さんを見て、どの様な出自かを想像して遊んでいたのだ。良い旦那もそうやって見つけたのだから多少、見る目には自信がある。
「何方様でしょうか?」
時に、宿には裕福そうなお客さんが宿泊する事もあるので丁寧な言葉も少しは扱える。裕福なお客さんは接客に満足すると小遣いをくれるのだ。
小さい時、おやつを買う為の知恵だった。
「ええ・・・私、もちゃめちゃ教の牧師をしておりますナイハラと申します」
「はあ、私にどのようなご用件でしょう」
「火炎病の患者の容態を見せて頂きたく参上しました。我がンジョゲリッパ神は人類の救済を目的としていますので。勿論、金銭は頂きません」
「ええと、その?」
私は混乱する。男はイマイチ良く解らない事を言うが、詰りは旦那の容体を診たいらしい。正直な所、頼んでもいないのに旦那の容態を診たいなんて怪しいが、この男は貴族かもしれない。
時に貴族は良く解らない事をするのだが、それを断ると気分を害して何をされるのか分かったものでは無いので、私は違和感を覚えながらも旦那の元へ案内した。
旦那の寝室へと案内すると男は痙攣した旦那の腕を見て少し驚いた様に言った。
「ああ、これは。大変だ」
男は深刻そうにつぶやく。お医者様も言っていたが、最終的には死に至る病だ。この病を軽く見る人間は居ない。この病の厄介な所は、初期では通常の風邪と見分けがつかない事と治療薬が高価な所だ。
男は念入りに時間を掛けて旦那の身体を触診する。何度か旦那と問答を繰り返すと此方に振り向いて真剣な表情で話す。
「奥様、我がンジョゲリッパ神は私を此処へ導きました。神の奇跡で旦那様を治す事が出来ます」
「え?」
私は一瞬、頭が真っ白になった。
男は空かさず、畳み掛ける様に続ける。
「勿論、金銭は頂きません。当然です。神のお導きなのですからお布施を頂くなど以ての外。繰り返しますが、金銭は頂きません。私に旦那様を治療させて頂けませんか?」
牧師と名乗った男は頭を下げる。私は投げかけられた言葉をよく理解できないでいた。
「え、あの・・・なんで?」
「牧師である私は、神のお導きに従います。神は貴女を救えと仰せです」
男は頷き、私の言葉を待っている様子だった。
「・・・少し、考えさせてください」
「不安になるのは解りますよ。しかし、残念ながら旦那様には時間が遺されていません。明日、お昼ごろに大広場の私の露店にお出で下さい。その場で答えをお聞きします」
男はそう言って、私の家から出て行った。
私には少し、冷静になる時間が必要だ。急にそんなこと言われても信じて良いのか解らない。
暫くして、動揺も収まった所で先程の事を考える。
「どうしよう」
悩んでも答えが出る筈も無い。薬は高価で買う事が出来ないし、此の儘の現状を続けるなら、無料で治療してくれるという男の言葉を信じても良いかもしれないが、男は金銭は受け取らないと言った。
つまりは、私の身体目的の可能性もあるのだ。
胸はそこそこ大きいし、客観的に見て私は美人だ・・・と思う。旦那とはしているが子供を産んでいないこの身体を目的にして居る場合も十分にあり得た。
「どうしよう」
寝室からは旦那のうめき声が聞こえる。手足が燃える様に痛み、それに耐えているのだ。私はその声を聞くだけで、元気だったあの頃を思い出す。
「どうしよう」
あの男は明日までに答えを出せと言った。私は一晩中、旦那のうめき声を聞きながら寝られない夜を過ごすのだった。
◇
一晩が経った。
寝ずに考えて最悪、一晩抱かれるだけだという結論に至ったのだ。金貨4枚を稼ぐなんて1度抱かれるだけで稼げる金額で無いし、男は牧師だと名乗った。
神に仕える牧師がそんな事する筈無い・・・よね?
不安はぬぐえないが結局の所、私に選択肢など無かったのだ。
夫が亡くなれば未亡人になる。帝国で未亡人の行きつく先は金に困って安い給料でこき使われるか娼館行き。
私の場合は実家に泣きつく事もできるが、もう成人して家を出ているのだから良い顔はされないだろう。
心臓がドキドキと高鳴る。
あの異国人。黒髪の男を想像すると緊張するし喉が渇く。
正午になり、大広場まで向かうと普段ではありえない人だかりが出来ていた。
「人生の喜びとは忍耐の後に来る小さな喜びの事を言う。苦痛なき者に人生の味は解らない―――。」
「あれは、」
確か、軍事に関わる偉い人だった気がする。年に1度の国祭で祝辞を言っているのを見た覚えがあった。
その人の話を聞きながら傍の露店では正しく飛ぶように食事が売れている。
―――あの人だ。
以前会った、小さい女の子が整備する長い列の先には黒髪の牧師。彼が売っている平たいパンを購入した人たちは笑顔で食事をしていた。
「売り切れだ。また明日来てくれ」
黒髪の牧師の声が響くと列に並ぶ者達は文句を言いながら解散していく。
そのまま偉い人の演説を聞いて行く人もいる様子だった。
私は早々に露店の片づけをしている男の元へと駆けよる。
「あのっ!」
男は此方を見ると、軽く会釈をして私に答えた。
「ああ、待っていましたよ。この場で話す事では無いので中でどうぞ」
私は案内されるが儘に露店の裏側にある店舗に足を踏み入れた。
店舗の中は結構な広さがあった。少なくとも露店をする様な人間が住むには贅沢過ぎる家だ。
男にテーブルに座る様に指示をされ、キョロキョロしながら暫く待っていると男はコップを私に差し出した。
「どうぞ飲んでみてください」
差し出されたコップにはシュワシュワと泡が出ている飲み物が入っている。帝国では見た事が無い。
男が自身のコップに口を付けると私も同じくした。
「いただきます」
―――これは、凄い。
中身は果実を絞ったものだが、甘さが全然違う。小さい泡は舌に弾けて果実の風味をより引き立てているし、何よりも冷たい。
年中、冷たい飲み物は貴族や大店の商人だけが飲めるものだ。特に寒い季節で無いのに此処まで冷たいのはこの男が十分な金銭を稼いでいる証拠であった。
先程の露店での喧騒を見て他の露店よりも稼いでいる事は明らかだったが、此処までとは。
驚き、2口、3口と飲み物を飲んで、私が少し落ち着くのを見計らって男はゆっくりと話を始めた。
「それで、どうしますか?」
ドキリと胸が鳴った。一晩考えて結論は出ていたが改めて聞かれると緊張する。
私は俯き、震える声で言った。
「はい、治療していただきたいと思います。それで、ご奉仕の事なのですが」
男は穏やかな声で答える。
「えっと。奉仕も必要ありません」
「はい?」
「我がンジョゲリッパ神は貴女を救えとしか申しておりませんので、金銭も奉仕も必要ありませんよ」
「あの、他の宗教は何かを要求すると思うのですが・・・。」
「それは、他の宗教の方針であって我が神の方針ではありません。他の宗教とは違い、もちゃめちゃ教は対価を必要としませんので」
男は困った様に右上を見上げながら少し考えた様子で私に居直った。
「あー、それでは神の祝福を受けたパンをお渡しするので毎日、お昼ごろに受け取りに来て下さい。1カ月もすればご主人も快調に向かう事でしょう」
男はそう言って2つのパンを私に差し出した。
このパンを1日に2つと水を飲ませるだけで回復して行くらしい。私は男に感謝し、パンを受け取るとすぐに帰宅し夫に食べさせた。
パンを食べた夫はその美味しさに感動し、黒髪の牧師に深く感謝を示した。
そんなに美味しいの?
私は足繁く牧師様の元へと通い、牧師様の言うンジョゲリッパ神に感謝を捧げる。
2週間が経つ頃には夫は完全に回復し、牧師様にその事を伝えると私の手を握って喜んでくれた。
「念のため、後1週間はパンを取りに来てください。2つの内、1つは貴女が食べるとよろしい。このパンを食べれば少しの間、ンジョゲリッパ神に祝福されるでしょう」
私は、夫と一緒にンジョゲリッパ神に感謝をしながらパンを食べる。中には私では想像も出来ない様なソースがたっぷりと入っている。
この美味しさは、確かに祝福されていないと出せない味に違いなかった。
―――私は仕事に復帰した夫を見送る。夫は以前よりも精力的に働いて、火炎病の事など忘れる位にまでになった。
そして私は毎日、朝早くに牧師様の元へ向かう。
牧師様は最近、説法を教える事になった。ンジョゲリッパ神に祝福されたパンを購入し説法を聞いて、説法を周りの人たちに広める。
牧師様はもちゃめちゃ教に関して対価を求めない事も相まって、井戸端会議に参加する住民たちの間で急激に広まって行った。
「もちゃめちゃ教って本当に凄いの、夫の火炎病を治してくださったのよ!それに、ンジョゲリッパ神に祝福されたパンは特別に美味しいんだから!」
◇
「ヒロシよ」
「どうしたティベリス?」
「最近もちゃめちゃ教という新興宗教が急速に広まっている。事を知っているか?」
「ああ、火炎病を治すから人気が出たのだろうな」
「その事についてアクィタニア帝国の皇帝が興味を持ったらしい。貴族の間でも火炎病は在り、第三妃が患っているのだ」
「成程?」
「ついては、お前に招来が掛っている」
「なんだ、私の宗教だと知っていたのか。断っておいてくれ、症状が軽いから対処できるだけだ。最悪、手足を切り落とす羽目になるのだからな」
「王命である」
「従う義理は・・・あぁ、ティベリス。私の事を話してしまったのか」
「すまんな。昔、彼の専属の教育係をした経験があるのだ」
「先方には何と?」
「無礼で知識の深い、異国の男だと」
「笑ってくれるな。では、そのように・・・褒美は出るのだろうな?」
「皇帝と第三妃の両名から出る筈だ」
「ティベリス。良いのか?」
「何がだ?」
「私の宗教が大きくなってしまうぞ」
「ははっ。それ位でどうこう言う人間が居る訳がない」
「そうなのか・・・なら、本気を出そう」
「そうしてくれ、期待している」
「良いだろう。期待には応える男だよ。私は」
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