第9話 精神の変化



十分な水分と食事をティベリスに与え細かな水分補給を伝えたた後、医療器具の事を聞いた。結果として私が必要としていた注射器はこの国にあった。点滴用の袋には豚の膀胱を使用したもので針はガチョウの羽を使用しているらしい。私は鉄製の針と清潔な袋を求め鍛冶屋に3つ特注する事になった。ティベリスの家紋が入った手紙を見せると午前中に作成してくれることになった。


私は昼までに食塩、石灰石、アンモニア、蒸留水を集めソルベー法にて炭酸水素ナトリウムを生成し、蒸留水に炭酸水素ナトリウム0.2%と食塩を0.5%になるように加え電解質輸液を作成した。重量は天秤があったのでパーセンテージについては正しく出来たはずだ。


鍛冶屋に頼んでいた注射器を受け取る。針が太く恐怖感を覚えるが仕方ない。注射器3つを十分煮沸消毒した後、1つを持ち、貧困街へ行き汚い大人の男性に声をかける。怪しい異国人の返事に答えたのは手に持つ銀貨のおかげか。私は被験者を銀貨1枚で買った。


結果は思った通りになった。


もしもの時に必要な準備は出来たので、私は宿屋に酵母を取りに行った。


宿屋の息子に対して一連の事情の説明をした所、契約期間外であったにも関わらず私の契約していた部屋の荷物は預かって居てくれたらしく、荷物を受け取り、礼として銀貨を数枚握らせて部屋の契約を打ち切った。


私は館に戻ると厨房に向かう。


ティベリスの体調を確認するのは女中2人に任せているので私の手は空いていた。


そして、右手には宿屋に置いていた酵母が3種。ここは貴族の厨房でこの国に流通している食材の殆どがあると思っても良いだろう。私が確認する限りでは砂糖などの基本的な調味料は貴重な物にも拘わらず施錠されていないのだ、つまり盗まれても痛くないという事である。ティベリスの懐は大きいらしかった。存分に使わせて貰おう。


卵と酵母と砂糖を混ぜて小麦粉を適量。バターが無いことに途中で気付き壺に保存されていた動物の乳を温め酸味のある果汁を加えてカッテージチーズを作成しバターの出すコクの代わりとした。全てを練り続けグルテンが出てきたところでベンチタイムを挟みその間に窯に火を入れる。窯の中が十分に加熱されパンの生地が膨張した後にガス抜きをして8つの丸形に成型し窯に入れた。牧燃焼であるので焼き時間は約30分を目安に。


「よし」


手を洗った後、パン生地を練り続けた疲れを取るために伸びや簡単なストレッチを行っている最中にメアリ嬢とギボンが厨房に顔を出した。


「パンの焼ける良い匂いがします」


メアリ嬢はすんすんと鼻をひくつかせる。此方に顔を向けてきたので無言の問いに答えた。


「ああ、私の故郷のパンを焼いている。焼けたら味見でも如何かな?」


メアリ嬢は喜んだがギボンは顔を顰めた。


「本来、女中は食費を払って食事をするものです。貴方は客人扱いなので問題にならないでしょうが、我々がティベリス様の許可なく私事で食事をするのは」


この場には3人しかいない。メアリ嬢が喜んでいるのを見る限りティベリスの懐が狭くないという事を示しているように思える。つまりは、ギボンは規則を尊ぶ傾向にあるようだった。


「なに、ティベリスに正しい食事を与える事が出来るかの審査をして貰っているだけさ。私の国と随分流儀が異なるのだからそれも当然だろう」


「それは、」


「私には彼に対して正しい治療をする義務があるのだから、何が必要で何が不必要かを選別する権利がある筈さ。私が味見を必要と言っているのだから君達が気にする事は無いよ」


私は今後これが商売になるかを判断しなければならない。異国の料理に関する関心や警戒を天秤にかけたときにこの国の人間はどのような行動をするのか。味覚について差異は無いのか。先ずは単純で受け入れやすい料理から。この国の上位に居る彼女たちなら食事の偏りも少ないように思える。まともな判断を下せるだろう。


「職務を全うしてくれたまえ。君の食事でなくティベリスの食事の毒見さ」


私は窯の様子を見る。後20分もしたら焼きあがるだろう。


朝方に作ったスープの残りを温め、厨房の果物を漁る。オレンジの様な果実の味を確認した後、1mm程の薄切りにして皮ごと砂糖煮にする。20分程煮詰めると甘い香りが厨房に漂ってきた。


「それは、かなり贅沢な料理ですね」


メアリ嬢が調理中の小鍋を覗く。オレンジ5つに対して砂糖の小瓶を1つ全て使用したので砂糖の量は重量比で20%程。銀貨30枚分に果物分の料金を加算すると市民向きではない。この館に滞在する間の贅沢か。


「それは貴族としてかい?」


「ええ、砂糖は舞踏会などの大きな集まりに城や家紋などのその貴族の象徴に成型して出される物でそれ以外だと上級貴族のお茶会に出されるのが一般的ですので、貴族でも金貨を多く稼いでいるお家でないと出されることは少ないのです」


恐らくだが、砂糖は貴族にとって富の象徴であるように思える。私が砂糖を購入するときに商品として陳列されていなかったのはそういう理由だろう。つまり、砂糖菓子は未成熟。客先も貴族に限られるという事。


今まで存在しなかった甘い菓子。客先は金持ち。量産は容易い。今回の砂糖煮の砂糖の量は全体の30%という事は残りの70%が所謂水増し。とてもいい商売になりそうだった。思わず笑みが浮かぶ。


「そうか、君と話が出来るのは大変有意義な時間だよメアリ嬢」


こういった市井では解らない事は早めに解決する他無い。ティベリスの館に留まれるのは後1,2日程度しかないのだ。彼らが何を食べ、何を思うのか。少しでも多くの情報が必要だった。


後は貴族への繋がり。ティベリスだけでなく商人や他の貴族に幅広く顔を広め、販売経路を拡大させる事が当分の目標になるだろう。この毒見にも婦女子の口の軽さと自尊心の高さがきっと多くの人間にこの商品を広める切っ掛けになるに違いないという打算からだ。


そういえば、


「今ティベリスには誰が付いている?1人は常に傍に居て欲しいのだが」


私の問いにギボンがため息を吐きながら答えた。


「メアリが昨日の夜番の最中に廊下で寝てしまったのです。代わりにティベリス様の私兵が付いています」


あんなにはしゃいでいたのに。ギボンの小言が私の耳に微かに届いた。


メアリ嬢は顔を赤くして俯いている。


「代わりが居るのなら問題はない。次が有ったらベッドに入る前に連絡してほしいけどね」


説教は同僚がしたであろうから、なるべく優し気に注意する。折角の貴族とのパイプだ。波立てる事はしない方が賢明に思えた。


簡単な雑談をしているとパンが焼きあがる。窯からパンを取り出すと小麦の香ばしい匂いに干しブドウの様な果実の匂いが混ざり合い私の期待は膨らむ。パンを突くと外皮がパリッと砕けた。少し冷ましてから食べようかと思っていたが出来立てで食べた方が美味いだろう。パンの1つを取り球状のそれを半分に割って口に運ぶ。店に並べるには遠いが出来立ての魔力で素人の荒は誤魔化せている。改良の余地あれどこれが今の限界だろう。


「悪くない。出来立てが良いので君達も食べると良い」


女中2人にも出来たばかりのパンを勧める。私は小鍋に作ったジャムを小皿に小分けし、机の上に置いた。


スプーンで一匙掬い上げ半分に割ったパンの断面に乗せる。冷えたことでゼリー状になったジャムがパンの熱で溶けて広がった。普段は余り好んで食べないが甘味を絶たれた今、貴族が砂糖を尊ぶのにも多少の理解が出来る。パンと同じようにジャムを勧める。どちらも好評だった。時代は変わっても婦女子に対して甘味の力は強力なようだった。


「ティベリス様だけでなくユーリお嬢様にも持って行って差し上げたいですね」


メアリ嬢がぴこぴこと駆け寄ってくる。


言うまでもないが関わったことのない人物である。


「ティベリスの娘かな?」


「いいえ、お孫様に当たります。今年で齢7になりますがお部屋からあまり出てきませんので」


聞いた限りでは断定できないが反抗期や思春期でないのなら幾つか原因が浮かぶ。


私には関係ないがティベリスに請われる可能性も有るので頭の中に留めておくことにした。


「毒見は済んだから持って行って差し上げると良い。与え過ぎると太るので控えめに」


私の話を聞いた瞬間女性2人が固まる。彼女達の時間が一瞬の内に止まってしまった様だった。


固まったメアリ嬢の代わりにギボンが口を開く。


「冗談ですよね?」


「いや、間違いない。過度な摂取は人の腹を樽の様に膨らませる」


私は何かに怯えた彼女たちを見据えハッキリと言葉を伝える。齢14程度の無知な女を脅すのはオーガズムに似た快感だった。


「・・・少しなら大丈夫って事ですよ」


ギボンがメアリ嬢に耳打ちしたが如何にも不安げな声が印象的に残る。


私は微笑みながら言った。


「勿論。少しなら大丈夫・・・だがその少しがどの位だったのかは忘れてしまってね。君達が試してくれるなら好きなだけ作って差し上げよう。過程を観察すれば被害者は減る事だろう」


「貴方のそう言った所嫌いです」


ギボンが恨めし気に私を見る。私の株価は暴落しているだろうが私の自慰の為だ。致命的な失敗さえしなければ別段構わない。欲求が理性を上回る事だってあるのだ。


「私は自分が大好きさ。こう言った部分も含めてね」


ギボンは膨れっ面になり、それを見たメアリ嬢は驚いたように口に手を当てた。


「ギボン、貴方」






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