第5話 金に紐付く行動




早朝。


小鳥の囀りと共に目を覚ます。


窓を開け、換気をすると実に冷涼な風が室内を駆け回る。腕時計を見ると午前6時。市場が開き関係者達が仕入れを行うために忙しく動き回っている時間である。


酵母の瓶を数回振った後、砂糖を求めに市場へ向かう。


次いでに市場調査としようじゃないか。


何が誰にいくらでどの程度売れるのか。


実物貨幣なのだから日本円に換算出来ないのが手間なので早目に慣れておかなくてはならない。


大通りの市場に着くとコレが帝国の日常なのだと言うように様々な人種が忙しそうに歩きまわっている。


この大通りで朝食を売る出店の営業開始時間が6時から遅くとも8時。早くに営業する出店は昨日の晩にでも仕込みを完了させている筈だからこの混雑は遅めの時間に軽食を売る店だとか昼間の買い出しだろう。


さて、砂糖は何処だろうかとフラフラ歩いていると犬の獣人の子供とぶつかってしまった。


下を見ると身なりが小汚い。この時点である程度察したので右手をポケットに入れておいた。


「ああ、すまぬな子供」


「気を付けろよな、じゃーなっ!」


小走りで子供がその場から離れようとする。


立ち回りが早いな。


腰からぶら下げていた財布が無い事を確認すると私も心置き無く行動できる。


「いや待ちたまえよ」


左手で子供の襟首を掴み強く引いた後、態勢が後ろに崩れた所で足を踏み抜く。


大勢の前で子供が履いているサンダルを大人が革靴で強く踏んだ。


これで後には引けなくなった。


「いぎゃあっ!」


私は悲鳴を上げる犬の獣人の首根っこを掴んで裏路地まで引きずり問い詰める。


「さて、私の財布を返して貰おうか?拒否するなら君は後悔する事になる」


「なんの事だよ、放せっ!」


「君が素直に話すべきだ。私は朝から気分を害されて大変怒っている。君が私から奪った財布の中には金貨が詰まっているのだからな」


「旅人がそんな大金持ってるわけ無いだろっ」


「盗みを認めたな?そもそも私の労働の対価だ。君のそれとは違う」


私は右手から“激辛!熊撃退用スプレー”を取り出し、子供の鼻に噴射口を入れる。


「最後だ。それを返せ」


「嫌だっ!金が無いとお母さんが」


事情は察した。


「残念だ、とてもな」


このスプレーは非殺傷武器である。が、非殺傷なだけで大人が人目を憚らずに泣き喚く位には強い罰だ。


対するは犬の獣人。人より鼻の粘膜の面積が大きいと言われる犬である。


だが、慈悲は無い。


「ひぃっ」


犬の獣人の悲鳴が聞こえる。


プシュッ。


「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」


声に成らない悲鳴。私は鼻を押さえて蹲る犬の獣人から財布を取り戻す。


端から見たら私が悪人だと勘違いされそうなので金貨を1枚放り投げる。


「実験の協力に感謝する。これは謝礼だ受け取りたまえ」


これで、【自分の体を売って金を得る】商売が成立した。


もし、何らかの不幸で私が詰所に連れて行かれても言い訳が出来る。この金貨は未来への投資なのだ。


まあ、貧民街で子供が金貨を持っているわけなので他の貧民に殺されるかもしれないが、そこまでは知らん。


私が裏路地から出ると何人かの人達が顔を顰めて此方を見ていた。あの子供と何かしら縁を繋いでいた人々だろうか。それとも子供に対する仕打ちを責めているのだろうか。


子供を心配する反面、警備兵も医者も呼んでやらないのだから他人の為でなく自分の気分で私を責め立てているのは自明だった。何処へ行っても人間心理は変わらないものだ。


私が襲われた時、誰一人として私を助けようと動く者は居なかったでは無いか。


子供の味方をするでも無く、私の味方をするでも無い傍観者達が何を偉そうに私を非難するのかが判らなかった。


路傍の石。まだあのヒステリック女の方が筋が通っていた。


今日はついていない日なのかもしれないな。


私は視線を振り払うように歩き出す。


運が無い日は予定を早く終わらせて部屋に篭っているのが最も良い事を経験から知っていたからであった。


周囲を見回しながら歩いていると一つの出店に目が止まる。褐色の肌をした女が切り盛りする香辛料の店であった。


私は出店の前に行き女に尋ねた。


「此処には何が売っているのかな?」


「東方のマギです。それに野菜も少しだけ置いています」


東方が何処かは判らないが女の浅黒い肌の見た目から熱帯地域である事は容易に想像できた。


輸入品から何が日持ちするかを調べる事も出来る。


「野菜を見せて貰えるかな?マギは最も安い物を」


「野菜は此方になります。最も安いマギはこれですね」


出された野菜は玉ねぎ、ほうれん草、トマト擬きで香辛料の方はニンニク、唐辛子を練り合わせたペーストが片手で持てる程の陶器の壺に入れられていた。


「野菜は3房ずつ買おう、マギは1瓶で幾らかね?」


「銅貨30枚になります」


「では1瓶」


「全部で銅貨47枚になります」


私は嵩張っていた銅貨を丁度渡し商品を受け取った。他の野菜より5割高いのでそれが送料だろう。


「次は砂糖を買わなければな」


「砂糖でしたら此方でも取り扱ってますよ」


「先に言って欲しかった」


褐色の女はクスリと澄んだ声で笑う。


「貴族様位しか買っていただけないので」


ああ、私が安いマギを求めたので商売相手とみなされなかったのか。


褐色の女は出店の裏側に回り、白と青が美しい陶器の小壺を持ってきた。中を覗くと薄く茶色味がかった砂糖が壺一杯に入っている。


「これで幾らかな」


「銀貨30枚です」


「中身だけ欲しいのだが」


「陶器と含めての販売のみの取り扱いです」


「なら、一つ」


女に金貨を渡して釣銭を貰う。


砂糖菓子が高価な理由は想像が付いていたが此処まで高価だとは思わなかった。


探せば中身だけ売っている売店もあるだろうが先の茶会で見た物と同じ陶器であったので質の方は信用しても良いだろう。中身が挿げ替えられていないかを確認する為に受け取った陶器の蓋を開けて砂糖をひとつまみ舐める。きび糖に近い柔らかい甘味が口内に広がった。塩の精度が未熟なのに対して砂糖の精度がまともであるのは客層の差か。品質は金で買う他ないと言う部分は日本と同じである。


確認を終えると、もう此処には用が無い。


褐色の女の出店を後に宿屋に戻る事にした。


宿屋に戻ると殺風景な部屋が出迎える。


借宿なのだから多くを持たないべきだとは言え机とベットのみの生活感の無い部屋は大通りの喧騒とかけ離れたところにある。


私は机の上に置いてある試作品の酵母の様子を見る。酵母液は炭酸が発生し若干濁っていた。私は瓶の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。腐敗と醗酵の違いを分けるのは人体に有害か無害かなので、匂いと味覚で判断するのが最も簡単だ。


「問題はなさそうだな」


全ての瓶を確認したがどれにも腐敗の気配は無い。それぞれの瓶に砂糖を小さじ1ずつ入れて溶かし込む。これで醗酵はより進む事だろう。


酵母の作業が終わり外を見遣る。まだ昼前で日が高い。今日は良く無い日であるし宿屋に籠るか。


私は机に座ると聖書を開く。時間に追われる事も無く、嫌な事をしているわけでも無い。こんなにも緩やかな日々を送るのは初めてかもしれない。




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