ぼくの記憶

深い闇と激しい雨の音が迫りくる神社の縁側のようなところ―――濡れ縁の下で、その人は困った顔をしてこちらを見ていた。

今思えば、青年、って歳に見える男の人だったと思う。

上下とも白い袴を身にまとい、立ったままこちらを見降ろしている。

どきりと心臓が高鳴るほど整ったきれいな顔だった。

少なくても島では見たことのない顔だった。



「…だれ…?」

「君こそ、だあれ?

 とにかくそこは濡れてしまうから、こちらにおいで」



綺麗な所作で正座して、男の人は隣をとんとんと叩く。

雨に濡れて足が冷え始めていた私は、言われるがまま靴を脱ぎ、彼の隣に座りなおした。



「どうしてこんなところに1人で来たの?」

「…家に帰れないの」

「帰れない?」



首をかしげて彼は小さい私を見つめる。

ああ、そういえばよく首をかしげて私に問いかけてくることが多かったっけ。


―――――――よく?



「お姉ちゃんと喧嘩したの。そしたらお姉ちゃんが『出てけ』って行ったの」

「だから、出てきたの?」



頷いた私に、その男の人はさらに困った顔をした。



「でも、ここにずっといたら風邪を引いてしまうよ。

 お父さんも、お母さんも、君のことを心配してる」

「…でも」

「でも?」

「お姉ちゃんは出てけ、って言ったもん。

 もう、帰るところ、ないもん」



ざあざあと降っていた雨は、もうバケツをひっくり返したかのような大雨に変わっていた。



「ほんとうに、そうかな?」

「…?」

「ぼくは、そうは思わないな」

「どうして?」



泣いていたことなんて忘れて、私は男の人の顔をじっと見ていた。

惹かれてしまう何かを子供なりに感じていたのかもしれない。

思えば、彼の顔をぼーっと眺めてしまうことが多かったような気がする。


―――――――多かった?



「この神社の名前は知ってるかな?」

「うん、とうめい神社、っていうんでしょ?」

「そうだよ。その『とうめい』の由来は知っているかい?」

「ゆ、らい?」

「うん、どうして『とうめい神社』って言われているか、だよ」

「しらない」



首を横に振ってみれば、男の人はふっと笑みをこぼした。

目を細めて口角をあげたその顔はあまりに優しくて、幼い私の目は釘付けになっていた。



「人を『とうめい』にできるからだよ」

「んん…?」

「難しいね、ごめんね。

 じゃあこんな言い方はどうかな。


 ここにいる神様はね、君が『お姉ちゃんの気持ちを知りたい』って願えば、お姉ちゃんの心を『とうめい』にして、君のことをどう思っているか聞かせてくれるんだ」


「お姉ちゃんの気持ち…」



私のことなんか、嫌いに決まってるのに。

だけれどこの男の人は、本当にそうかな?と言う。

私はそれが気になって、つい言われるがまま指を互い違いにして両手を握った。



「『お姉ちゃんの気持ち』知りたい。教えてください。神様」





『美里…美里…』



そうだ、願った途端、どこからか声が聞こえたんだ。



『パパっ美里は!?』

『佐藤さんの家まで行ってきたが見当たらない!こんな大雨なのにどこに行ったんだ…!

 ママ、矢島さんとは電話繋がったか?』

『繋がったけど…家にはいないって…!』

 もし排水溝にでも足を取られてたら…ああ、美里…!』


『美里、おねえちゃんが悪かったの!ごめんなさい!!ごめんなさい!!

 だから帰ってきてよ!美里…!!

 うわあああああああん!』

『詩織…とにかく落ち着きなさい。美里はきっと大丈夫だから』




「…!

 聞こえた」



びっくりした私は、隣の男の人を見る。

彼は穏やかな顔で微笑み、私の頭を撫でた。

宝物でも触るように優しく丁寧な手の感触、これもだ、身体が覚えているような感覚がする。



「お姉ちゃんはきみのこと、嫌いだった?」

「ううん、ごめんなさいって、言ってた」

「そっか。じゃあ家に帰れるかな」

「うん、帰る。お父さんとお母さん、すごく心配してた」

「そうだね、雨止んだら早くお帰り。それまで一緒にいよう」



わだかまりが取れて、ようやく私は笑顔になれた。

だけれど。



ズズ…ズズズズズ……



「!」



ガガガガ……ッギギ……



「…やだ」

「どうしたの?」

「やだ!やだやだ!やだよう、怖いよお!!」



音がした。

気配がした。

雨が降ると現れる、『イヤナモノ』のそれらが。


思わず立ち上がった私は目の前の青年に抱き着いた。

そうしたら耳元で凄く驚いた声を上げられて、ぎこちなく私の背中に手を回される。

確かその抱擁も次第に慣れたものになっていったっけ…。



「どうしたの?何が怖いの?」

「あれ…!あそこの草の中…!」

「どれ?あの木の下?」

「そう!それっ…やだ…怖い…!」

「………」



また私の身体はガタガタと震えだす。

それは彼の腕の中にいても、ぬくもりを感じることができないくらいで。

ぽんぽんと背中を叩く手のひらでさえ、『イヤナモノ』に対する恐れの方が勝ってしまっていた。



「大丈夫、大丈夫だよ」

「やだよお…こわいいよお!」

「大丈夫、ほら、もう一度見てごらん。もういないよ」


「…いない?」



男の人はなぜか強い口調でもういないと言った。

その言葉を大人に言われるのは初めてで、子供の私は目を見開いて彼をまじまじと見つめる。

でも彼の顔は変わらず微笑んだまま、ほら、と私を促した。


恐る恐る振り返ってみれば、そこには確かに何もなく、強い雨に晒された草木が揺れているだけだった。



「いない、いないよ」

「そうだね、いないよ」

「…っ!お兄ちゃん、ありがとう!!」


「えっ? っわ……!」



これはよく覚えているな。

思わず彼の首に抱き着いてぎゅっと抱きしめたんだっけ。

何も言わなくなった彼を不思議に思って離れてみれば、青年はとても顔を赤らめて俯いていた。

その反応がとても可愛くて、ついついわざと抱き着くことが増えたっけ。



「ありが、とう…?」

「うん、お姉ちゃんのことを教えてくれたし、『イヤナモノ』もやっつけてくれたでしょ?」

「そ、そっか…ふふ、そうだね…ありがとう」

「? ありがとうを言ったのはわたしだよ…?」

「はは、そうだったね」



どこか照れ臭そうに口を手の甲で抑えて、青年は笑う。

それがなんだかおかしくて、私は大きな笑い声を出した。


そうして通り雨が止むまでの少しの間を、確かに2人で過ごした。





しとしとと、雨が弱まってきた。

視界はだいぶ晴れてきて、ようやく遠くの家の光が見えてきた。

そろそろお帰りと男の人に背中を押されて、私は靴を履きなおす。

その姿を見ながら彼は私に声をかけた。



「ねえ、君の名前は?」

「わたしは、美里みさと

「美里、ちゃんか…。ねえ、美里ちゃん」

「なあに?」


「もう1つ、願ってみない?」



もう1つ?

私が首をかしげると、彼はぎこちない笑顔を返してきた。



「『イヤナモノ』が透明になりますように、って」

「! 神様、叶えてくれるかな?」

「うん、きっと。さっきと同じように願えば叶うよ」

「わかった!」



私はもう一度両手を握って、青年の前で強く願った。



「『イヤナモノ』が透明になっちゃいますよーに!」






びくっと肩が跳ねた。

持っていたスマホの画面が消灯していた。

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