第14話



 琥珀は涼に握られている手と、涼の顔を交互に見ると、困惑して眉を寄せた。

 彼は一緒に来て欲しいと言ったが、もう誰にも迷惑をかけたくはない。

 首を振って彼から離れようとするが、涼の男性の物にしては繊細な指先は思いの外力強く、離すことはできなかった。

「一日だけでいい、時間をくれないか。もしかしたら、琥珀を助ける方法が分かるかもしれない」

「漆間昴も、かつてそう言いました。しかし、陽詩は死んだ。……勿論、琥珀様が生きて幸せになることを、私も覡家も望んでいます」

「俺も、琥珀を助けたい。……そうしなきゃいけないと、思ってる」

 真剣な涼の言葉に、影虎は溜息をつくと頷いた。

「明日また、迎えに来ます。琥珀様には、まだ少し時がありますので」

 涼はありがとうと彼に礼を言うと、琥珀の手を引いて歩き出した。

 帰らなければいけないだとか、離してほしいだとか、言いたいことは沢山あったが、喉の奥につかえたように言葉が出てこなかった。


 涼に連れられて辿り着いたのは、住宅街の一角にある一軒家だった。

 アンティーク調の硝子が嵌められている引き戸をくぐると、可愛らしい雑貨と共にテーブルとイスが並んでいる。「俺の家だけど、一階は店になってるんだ」と涼が説明してくれた。

 扉をくぐった奥の部屋に下駄箱があり、靴を脱いで上がった先が畳の敷いてあるリビングになっている。

 座卓の周りに座布団が並んでいて、小さな窓と時計だけが壁にあるシンプルな部屋だ。

「お客さんが多いと、ここも使ったりするけど、普段は家族……っていっても母さんと二人だけだけど、家族で使ってる部屋だから、座っていて」

「……私は、漆間、さんに……、酷いことをしたのに」

「涼で良いよ。見ての通り俺は元気だし、その話は終わり」

「でも、あなたは死んでいたかもしれない」

「大丈夫。気にしなくていい、ってことぐらいしか言えなくてごめん。……話すのは、あんまり得意じゃないんだ」

 弘一みたいに口が上手いと良いんだけど、と彼は言う。

 誰の事かは分からないが、琥珀が謝るたびに涼を困らせてしまっている事が分かったので、口を噤んで大人しく座布団の上に座った。

「琥珀、何か食べる? 簡単なものしかないんだけど」

「ええと……、はい」

 涼に問われ、空腹を思い出した。

 食事の話につい嬉しくなってしまって涼を見上げこくりと頷くと、彼は表情の変化に乏しい顔に微かに笑顔を浮かべた。

 なんだか恥ずかしくて慌てて俯く。

 さっきまで彼に謝り続けていたし、ここに居てはいけないと強く思っていたのに、厚かましくも食事をご馳走になろうとしているだなんて、なんだかちょっと情けないと思う。


「涼、お客さん? 涼が友達を連れてくるなんて珍しいわね、って女の子じゃない!」

 明るく元気な声と共に、若々しい女性が暖簾で仕切られている奥の間から顔を出した。

 涼は彼女を指さすと「これが母さん」と琥珀に紹介した。

「あ、あの、私……」

「琥珀ちゃんでしょ。本当に、陽詩ちゃんにそっくり。はじめまして、涼のお母さんです。文江ちゃんて呼んでね」

「はじめまして、覡琥珀、です」

「あぁ、女の子! 女の子って良いわね! 涼はこんなんでしょ、無口だし、どっかに表情を落としてきたんじゃないかっていうぐらい変化が無いし」

「母さん、何か食べるものある? 琥珀の分も」

 人の良さそうな笑顔を浮かべて会話を続ける彼女の言葉を遮り、涼が言う。

「お店の残りで悪いんだけど、パンとスープならすぐに出せるわよ」

「琥珀、良い?」

 涼に尋ねられて、琥珀は遠慮がちに頷く。

「私は、なんでも……」

「時間があればもっと豪華で華やかなご飯を準備できるんだけど、琥珀ちゃんは今にも死にそうな顔色してるし、急いで準備するわね。涼、お店のサーバーでお茶を入れてあげなさいね」

 そういうと彼女は奥の間に引っ込んだ。

 涼も一度店の方に降りて、すぐに戻ってくる。温かいお茶が琥珀の前に置かれた。有難くいただくと、空腹に染み渡る。

 壁掛け時計は午後六時半を示していた。

 尽は起きたのだろかと、ふと思う。

 何も言わずに出てきてしまったことを怒っているだろうか、それとも呆れているだろうか。

 じくりと胸が痛んだ。

「急に、連れてきてごめん。……詳しくは聞かなかったけど、さっきの人は誰?」

 思い出したように涼がいう。

「あれは、影虎といって……、昔から私の傍に居る人」

「琥珀を守る人?」

「うん……、多分」

 説明が難しく言い淀むと、涼は察してくれたらしくそれ以上なにも聞かなかった。

 やがて文江がやってきて、テーブルにパンやスープを並べていく。

 丸形のパンは中にチーズやクリーム、レーズンやクランベリー、ドライカレーが入っているものもあると文江が教えてくれた。「お店で出しているの。いつも売れ残りは涼が食べるのよ」と彼女は言う。

 スープは刻んだ野菜が沢山入っているようだ。

「母さん、話したくてしょうがないみたいだけど、ゆっくり食べさせてあげて」

「分かってるわよ、涼。あなたがこんなにちゃんと話すのは珍しいわね。明日は空から魚でも降ってくるんじゃないかしらね」

 文江はそう言って笑った。

 涼は揶揄われているようだが、特に気にした風もなく琥珀に食事を勧める。

 有難くいただいたクリームチーズパンは、中のクリームが甘酸っぱくてとても美味しかった。


 食事を終えて、文江が片付けの為に奥の間にあるらしいキッチンへと籠ると、食事中は何も話さなかった涼が、口を開いた。

「あの時、でかい犬みたいなやつが消えた時、俺の首飾りが光ったんだ」

 そう言って胸につけている飾りを指でつまみ、琥珀に見せてくれる。

 それは美しく、少しばかり毒々しい赤い色をした宝石だった。

「これは、死んだ父さんが俺にくれた。俺が二十歳になった時、何か悪いことがおこるかもしれないと言って」

「悪い事……」

「ごめん、勘違いしないで欲しいんだけど、琥珀に会えたことを悪いことだと思ってないから」

 琥珀は大丈夫だと首を振る。

 実際に彼は死にかけているのだから、悪い事に違いないだろうと思う。

「それで、琥珀と一緒にいた男が、これを護符だと言ってた」

「尽が?」

「あいつは、誰?」

 そういう涼の声に、初めて何かしらの感情が灯る。

 それは苛立ちに近い何かで、彼は尽の事を良く思っていないようだった。

「私にも、よくわからない。私を閉じ込められていた屋敷からここに連れてきて、あなたの事を教えてくれた。……狗神を貸してくれた。あなたを殺すために」

 本当に尽の事は何も知らない。

 少しだけ話してくれた彼自身の事は、どこからどうやって説明すれば良いのかよくわからない。

「琥珀も、会ったばっかり?」

「数日前に」

「そう。それにしては……、いや、なんでもない」

 涼は何かいいかけてやめた。

「琥珀が俺にしてくれた話は、正直お伽話みたいだなって思ってた。でも、空飛ぶでかい犬も、光る首飾りも本当に起こって、父さんの遺言が嘘じゃなかった事が分かった」

「私が来なければ、何も起こらなかった」

「うん、それで俺は、何も知らないままだった」

 あの後、父の書斎を漁ったのだと涼は言う。

 興味がなかったから入った事のなかったそこは、よく分からないもので溢れていた。文机の奥から、ようやく手紙をみつけたのだと、ため息混じりに語った。

「それが、これ。一応、内容が内容だったから、母さんには話したんだけど、知ってたみたいだ。気を使って損した」

「見ても、良い?」

 涼は頷く。

 細長い茶封筒から出てきたのは手紙と、一枚の写真だった。

 写真に映った少女は、琥珀によく似ていた。

「それは、覡陽詩さんっていう人」

「私の前に死んだ巫で、私の叔母だと思う」

「俺の父さんの恋人だった」

 琥珀は吃驚して写真を落としそうになる。

 基本的に巫は外界との接触を許されていない。

 会う人間は限られていて、琥珀の世界も父と母と妹、それから松代と影虎だけだった。

 それが、恋人だなんてあり得ない話だ。

「恋人って言っていいのかよくわからないな。ともかく、読んでみて。琥珀にも関係のある事だと思う」

 涼が指先でテーブルの上の手紙を琥珀の前に寄せた。

 琥珀は恐る恐るそれを広げ、目を通すことにした。




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