第13話 漆間家と覡家
あれが夢だったのか、それとも記憶の中の世界に本当に入り込んでしまっていたのかは、琥珀には分からない。
ともかく琥珀は神楽として、双樹という男の家に閉じ込められていた。
そして、その時の琥珀は琥珀としての意識をなくしていた。その時考えていることも、感じたことも、全て神楽としてのものだった。
神楽は自分を信じてくれなかった双樹を恨んでいたが、それと同時に己の行動を恥じていた。
嘘をついたのは、駄目だと言われていたのに誰にも言わずに那智に会いにいき続けていたのは、神楽だ。
自分の身勝手な行動が招いた結果だと理解し、後悔していた。
でも、それでも神楽は那智を愛していた。
その気持ちは押さえつけることなどできないものだった。
琥珀が自分を思い出したのは、尽の声が聞こえたからだ。
お前は覡琥珀だろう。そう必死に名前を呼ぶ声が、閉じ込められていた屋敷に響いた。
琥珀には思い出と呼べるものが何もない。神楽としての記憶の方が色濃く、琥珀としての何かを思い出そうとしても、本当に何もなかった。
それなのに、誰かが私を呼んでくれている。
会いたい、と思う。
それは那智でも双樹でもない。ここには居ない人だ。
だから、帰らないと。
そう思った瞬間、がらりと扉が開いた気がした。
琥珀の前にいたのは、何かを祈る様に、懇願するように名前を呼ぶ尽だった。
彼はすぐにそれを隠し、なんでもないふりをしていたが、自分を呼んでくれた彼の声は脳裏に焼き付いている。
尽が居なかったら自分を失っていたのかと思うと、怖かった。
琥珀には何もないけれど、それでも自分を失うことは嫌だと思う。
まるでそれは、今まで生きて感じてきたこと全てが、無駄で無意味だったと言われているようで、どうしようもなく悲しくて、悔しい。
倒れてしまった尽を抱えると胸がいっぱいになった。
琥珀には神楽のように誰かから深く愛された記憶はない。自分を支えているのは贄としての価値だけで、それを失ってしまったら存在理由がなくなってしまうと思っていた。
それでも、こうして手を差し伸べてくれる人がいる。
きっと彼にも何かしらの理由があるのだろうけれど、自分にとってはその事実だけで充分だと琥珀は思う。
「……私がしなきゃいけないことが、分かったような気がする」
眠ってしまった尽を暫く眺めてから、琥珀はぽつりと呟いた。
本当はもう少し傍に居たい。もう一度話をしてみたい。どんな事情があるのか、彼にとって那智の封印を解くことにどんな意味があるのか、知りたかった。
けれど、これ以上誰かに迷惑をかけたくない。
漆間涼にも、酷いことをしてしまった。彼を殺さなければという神楽の想いに飲まれ、本当にそうしてしまう所だった。
何が起きたのかはよくわからないけれど、狗神が消えたところまでは覚えている。
自分が行ったことなのに勝手な話だとは思うが、無事でいてくれると良いと思う。
彼は本来なら関係のない人間で、琥珀が関わらなければ、何もない彼の日常を過ごしていた筈だ。
そんな酷いことをしたというのに、こうして尽に助けてもらい、幸せだと思ってしまった。
なんて自分勝手な人間なんだろう。
「ありがとう、尽。ほんの少しの間だけど、多分、私は楽しかった。外の世界を見ることが出来て、良かった」
名残惜しく、眠る彼の額を撫でる。
耳から直接生えていると言っていた飾りは、よくよく見ると耳に空いた穴を通っていた。
どうしてそんなどうでも良い嘘をついたのだろうか。
少しだけ呆れて、少しだけ微笑ましかった。
何かを決意するように琥珀は立ち上がる。彼はまだ目覚めないようだ。
ベッドにかけてあった毛布を持ってきて、そっと彼の体に被せると、部屋を抜け出す。
それから琥珀に与えられた部屋に入り、汚れてしまった服を着替えて身支度を整えると、静かに玄関から外に出た。
思えば、一人きりで外に出たのははじめてだ。
屋敷を連れ出されてから、いつも隣には尽がいてくれた。
それがどれ程心強かったかと、独りになってみてあらためて感じた。
マンションを出て、行くあてもないまま街を歩く。
自分には無関係な筈のすれ違う人々の視線が、こちらに向くのが恐ろしいと感じる。
同じ人間なのに、得体の知れない怪物のようだ。
実際には怪物は人を殺そうとした自分であり、他の人々の方が無害で普通の人間なのだろう。
尽は一晩中琥珀を起こそうとしてくれていたらしく、琥珀が目覚めた時にはもうすでに空は白んでいた。
部屋を出たのは、昼過ぎだっただろうか。
時刻を確かめていないので分からないが、こんな時でも体は素直なもので、空腹を感じる。
眠っていただけだというのに体はとても疲れていたし、たいして歩いてもいないのに視界が歪みふらついて転びそうになる。
これでは駄目だと思い、視界に映った小さな公園へと足を向けると、琥珀はベンチへと腰を下ろす。
公園で遊んでいる子供たちや、それを見守る母親をぼんやりと眺めた。
今日はとても晴れていて、子供たちは皆笑顔で楽しそうだ。
その光景はとても微笑ましく、琥珀の世界とは切り離された別の日常のように思えた。
どれ程そうして座っていたのだろう、疲れから少し微睡んでいたような気もする。
やがて日時没が訪れて、子供たちは皆帰っていった。そうして帰る場所があるのは、とても良い事だと思う。
「……琥珀様、迎えに来ました」
夕暮れに忍び寄る闇のように、黒い男が琥珀の前に立った。
昔からずっと傍に居たのに、耳馴染みのない低い声だ。そういえば影虎はこんな声で、こんな顔だったなと、琥珀は目の前の男をまじまじと見つめる。
着ているものは、上着からシャツからみんな黒く、肩で切りそろえられた髪も黒いが、肌は白い。相変わらず不機嫌そうな様子だが、口調は穏やかだ。
「うん。……いなくなって、ごめんなさい」
「あなたのせいではありません。あなたは攫われただけだ」
「影虎、私は自分の意志で、あの場所から逃げた。……でも、死にたくなかったとか、助かりたかった訳ではなくて、私で終わりにしたかったから」
琥珀は肩の力を抜いて、小さく息をついた。
「座って、影虎。話をしたい」
「……分かりました」
頷くと、彼は琥珀の隣に座る。
幼いころから、父や母よりもずっと琥珀の傍に居てくれたのに、こうしてきちんと話をするのは初めての事だ。
「どうして、私の場所が? 影虎も、不思議な力が使える?」
「琥珀様を攫った人間も……、いや、あれは人ではないかもしれませんが、術者でしたね」
「あなたの事を、教えて欲しい。……あなたも松代も、私にとっては親のようなものなのに、名前しかしらないなんて、淋しいから」
「琥珀様は、お変わりになりました。色々なことが、あったようだ」
影虎は頷いた。
すぐに無理やり連れ戻されるのかと思っていたが、彼にはそういう気はないようだ。
「私の名は、覡影虎と言います。あなたの、叔父ですよ」
「……もっと若いのかと」
「そこまで年老いてはいませんが、左程若くもありません。覡家の男子は、飾りのようなものです。当主は男ですが、実際に血を繋いでいるのは女です。私はあなたの母、蛍の兄で、琥珀様の前の巫である陽詩の弟になります」
「どうして、そんな人が監視役を? 」
琥珀は首を傾げる。
当主の血族が行うにしては、あまり良い仕事だとは思えない。
「琥珀様を連れて行った男程の力はありませんが、覡も少しばかり水妖の力を使うことができます。当主の直系として生まれてきた子供の中で、誰がそれを使えるのかは決まっていません。今回はたまたま私でした。だから、あなたの傍に居ることを決めました」
「私の側にいるのは辛かったでしょう。ありがとう、影虎」
琥珀はそう言って笑みを浮かべる。
それから立ち上がると、空を見上げた。
沈みかけた太陽が、橙色に小さな公園を照らしている。
「帰りますか?」
琥珀が頷いたのを見届けて、影虎も立ち上がった。
公園の脇に、黒い車が停まっている。
促されるまま後部座席に乗り込もうとすると、誰かがこちらに走ってくる足音が響いた。
「やっと見つけた」
息を切らせながらそう言って、彼は琥珀と影虎の前に立ち止まる。
「漆間、昴?」
「それは、父さんの名前。あんたは知ってるんだな、漆間昴が何をしたのか。それなら、話が早い」
聞いたことのない名前で、影虎は彼を呼んだ。
彼は、漆間涼は琥珀の手を取ると、力強く握りしめる。
「琥珀にはまだ、時間があるだろう? もう少し、一緒に考えたいんだ。だから、探してた」
だから、一緒に来て欲しいと、彼は言った。
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