第12話
どれ程時が経ったのだろう。
尽の掌の檻に触れている部分からは、血が滲み、激しい火傷を負ったような痛みがじくじくと体を苛んでいる。
解呪の為には、自分の体に巡る術力を直接呪に送り込み、それを施した者に勝つしかない。
しかし相手は神であるカグツチだ。
勝てる可能性など、万に一つもない。それでも諦める気にはならなかった。
あれは幻のようなものだったが、確かにカグツチは可能性を与えてくれたのだ。それが気まぐれだったとしても、彼らが嘘をつかない事を尽は知っていた。
「戻ってこい、琥珀……!」
途切れそうになる意識をなんとか繋ぎながら、絞り出すように言う。
「琥珀、俺に呼べと言っただろ。お前は琥珀だ。神楽なんかじゃない、琥珀だ。だから、戻ってきてくれ」
それは紛れも無い、本心からの言葉だった。
琥珀として目覚め、帰ってきてほしい。
彼女にもう一度、「尽」と名前を呼んで欲しい。
「琥珀……っ」
縋るように、うわ言のように繰り返す。
ぴくり、と琥珀の瞼が動いた。
檻に、僅かにひびが入ったのが分かる。
その中心に手を当てて、もう一度力を込める。
掌と檻の境から、水蒸気のように白い煙が上がる。肉の焼ける嫌な臭いが部屋に漂う。
手のひらを中心に、檻に触れている右腕が焼け爛れていく。
激しい苦痛に奥歯を噛んだ。もう一度「琥珀」と名前を呼ぶ。
精神を集中して、残った力を全て注ぐと、パラパラと檻が崩れはじめる。
尽はふらつく体を叱咤しながら、更に力を込めた。
小さな破壊は大きな振動を産んで、連鎖するようにガラガラと檻が崩壊していく。
同時に琥珀が小く身じろいだ。
もう少し。
もう少しだ。
尽は数枚の呪符を琥珀の体の上にひらひらと舞い散らせる。
呪符は紫色に光り、光の線で琥珀を囲むように繋がり空中に静止した。
ピシッと硝子が割れるような耳障りな音を立てて、檻が完全に崩れる。
粉々になったそれは、最期の灯火のように赤く燃え上がると、はらりと消えていった。
ベッドの上でゆっくりと目を開いた琥珀は、ぼんやりとした瞳に次第に焦点を合わせ、尽の顔を見上げる。
「……私を、呼んでいてくれた?」
「やっと起きたか、お嬢さん」
尽は焼け爛れた右腕を隠すと、朝の挨拶をするように言う。
無事な左腕で琥珀の頬を撫で、それからがくりと床に膝をついた。
情けない話だが、もう限界だった。
「尽!」
琥珀は痛みをこらえる様にしながら体を起こすと、膝をついて倒れ込みそうになっている尽の体を助け起こそうとする。
しかし体格差の為にそれが出来ず、何とか頭だけを膝に抱えて、座り込んだ。
「酷い、怪我をしてる。……私の、せいで」
そう呟くと、胸に手を回し、抱え込むように抱きしめてくる。
窮屈さとその体温の温かさに、尽は俄に目を見開いた。
彼女の行動に、皮肉も冗談も何も言えずに戸惑っていると、耳元で小さな声がする。
「ありがとう」
琥珀は泣いているようだった。
何か言おうと思ったが、何を言っていいのか尽には分からなかった。
「夢を、見ていた。夢の中で、あなたの声が聞こえた気がした。……だから、私は戻ってこれたんだと思う」
もう一度ありがとう、と彼女は言う。
それから優しく尽の頭を床に降ろすと、立ち上がり涙に濡れた顔を腕でごしごしと拭う。
「どうしたら良い? 包帯が、ある?」
「大した怪我じゃない。今は無理だが、時間が経てば自力で治せる、そのままにしておいて構わない」
解呪の時の反作用でできた傷であり、本当の火傷という訳ではない。
術力が戻れば、すぐに治るような怪我だ。
大丈夫だといったが、琥珀は納得しなかったようだ。
「血が出てる。尽は寝ていて」
琥珀はそう言って部屋を出て行った。
包帯なんかあったかなとぼんやり考えていると、暫くして彼女はカラフルなスカーフと大量のタオルを持って帰っきた。
「あなたに貰ったものだけど、これしかなくて。ごめんなさい」
気にしなくていいと首を振る。
横たわる尽の横に膝をついた琥珀が、器用に腕の怪我にスカーフを巻いていく。
滲んだ血で床を汚さないためだろう、その上からタオルを巻いているようだ。
痛みもあったが、それ以上に彼女の小さな手のひらと、細い指先の感触が心地よく、尽は目を閉じる。
抱きしめられたときに感じた、彼女の体温の温かさを思い出す。
長い間、忘れていた。
血液の巡る体は、温かいと言うことを。
酷い眠気を感じる。
「……眠った?」
腕の治療が終わったのだろう、慎重に右腕が床の上に戻される。
眠ってはいなかったが、疲れから、返事が出来なかった。
「本当は、ベッドに寝かせてあげたいんだけど、私には尽を持ち上げることができなくて」
ごめんなさい、と頼りなく彼女は謝る。
暫くして、ひやりとした感触が額にあたる。濡れたタオルで汗を拭ってくれているらしかった。
「思い出したよ、尽。私は神楽だ。……でも、あなたが呼んでくれたから、琥珀だったことを思い出せた。あなたが居てくれたから、何もない私でも、私を失わずにすんだ」
顔を拭っていた手が止まる。
額や頬を、形を確かめる様に小さな手が辿った。
「……あなたは恋や愛が、愚かなものだと言っていた。今なら、私にも、それが分かるような気がする」
それから、琥珀は何か言ったようだった。
それは心の底が温かくなるような、何か大切で重要な言葉だったような気がする。
けれどそれを理解する前に、尽は深い眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます