現代妖奇譚

第15話

　――陽詩、すまない。

　その手紙はそんな一文から始まっていた。

　真新しい紙に几帳面な文字で綴られているそれは、悔恨のようでもあり、懺悔のようでもあった。

　叔母にあたる陽詩の事を、琥珀はよく知らない。逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと手紙を読み進める。

『漆間家には、一つの言い伝えがあった。かつて犯した罪の話だ』

　罪とは双樹の事だろう。しかし、時が経つにつれて曖昧になっていったらしく、漆間の先祖である不思議な力を持った男が、村を呪った話という漠然とした内容が記されている。

『漆間家の呪いによって、村では今でも少女が監禁され、殺されているという。私の父はその話を信じていないようだった。話してくれたのも恐らく酒に酔った勢いだったのだろう、馬鹿げていると笑いながら語っていた』

　苦しんでいるのは覡であって、漆間じゃないとは、尽が言っていた言葉だ。

　村に縛られている覡とは違い、外に出てしまった漆間にとってはそんなものなのだろう。

　恐らく双樹は罪に苦しんだ。だから、伝えていく事を決めたのだ。そこには多分何かしらの目的があったのだろうが、今はもう忘れ去られてしまっている。

『私はその奇妙な話にすっかりのめり込んでしまった。話にあった村の場所を調べ上げ、少女が監禁されている屋敷へと忍び込んだ。若かった私は軽薄だった。村に行ったのもただの興味本位だった』

　琥珀の産まれる前の事だ。

　その時陽詩は今の琥珀と同じ十七歳、もう少しで成人の儀を控えていた。

　そこに外からの人間が現れた。陽詩はどう思ったのだろう。戸惑ったのだろうか、それとも嬉しかったのだろうか。

『屋敷に閉じ込められていた陽詩という少女は、とても美しかった。彼女は私に来てはいけないと繰り返し言ったが、私は彼女に会いに行かずにはいられなかった。彼女は十八になったら贄にされるのだという。つまり、殺されるという事だ。そんなことが許される筈がない』

　昴は陽詩の境遇を嘆き、憤ってくれた。

　それだけで多分、陽詩は救われた筈だ。琥珀には、彼女の気持ちが何となくわかる。

『私は不自然なほど誰にもみつからずに、陽詩に会うことが出来た。孤独な彼女を不憫に思っていた彼女の弟が、知らぬ間に手助けをしてくれていたようだ』

　それは影虎の事だろう。

　当時から影虎は彼の言っていたように水妖の力を使うことができた。水妖は人の気配を追ったり、幻影をみせたりすることができるようで、屋敷に忍ぶ昴にいち早く気づき、覡家の人間から彼を隠してくれた、と言うような事が記されている。

　影虎と直接会って話をしたのか、陽詩が教えてくれたことなのかは分からないが、昴は術者の存在をそこで知ったらしい。

『私は陽詩を必ず助け出すと約束をした。時を見て陽詩を連れ逃げようと思っていた。私たちには時間がなく、そうするしかなかった。その時、私たちは既に愛し合っていて、私は陽詩が一緒に逃げてくれると信じて疑っていなかった』

　けれど、と文は続く。

『陽詩は死ぬことを選んだ。滝に神様が本当にいるのかいないのかは分からないけれど、自分が逃げたことで家族や村の人々が苦しむのは耐えられない。そう言っていた』

　陽詩は死んだと、簡単な一文で結末は締めくくられている。

　しかしその簡素な文章からは、深い悲しみと後悔を感じる。

　昴と陽詩の間には、短いながらも色々なことがあった筈だ。一緒に逃げることを望んだ昴も、残ることを選んだ陽詩も、苦しんだのではないだろうか。

『私は日常に戻った。陽詩の記憶が薄れる事はなかったが、どうする事もできなかった。それから何年か経ち、私は人並みに結婚をして息子の涼が産まれた。涼には覡家の事は黙っていようと決めた』

　陽詩を失い後悔をしていた昴のことだ、同じ過ちを繰り返させたくなかったのだろう。

　琥珀はちらりと涼に視線を送る。

　此方を見ている彼の黒い瞳は、凪いだ湖面のように静かだ。

　彼は一体、これを読んでどう思ったのだろう。

『しかし、涼が産まれた夜。あれは夢ではなかったと、私は思っている。一人の男が私の枕元に立ち、言った』

　――礼を言いに来た。お前のお陰で、ようやく封印が綻んだ。

『暗闇の中で男の顔はよくわからなかったが、なにか不吉なものだという事は分かった』

　――双樹は愚かな男だったが、お前もそうであるようだ。漆間の血筋は、消した方が良いのだろうな。

『それはまるで預言だった。それだけ言うと男は消えた。私は焦り、陽詩の弟である影虎に助けを求めた。次の巫が産まれ、十八に近づくにつれて封印は弱まっていく事を彼は教えてくれた。影虎は彼の水妖、蛟の力で涼に幻影をかけ、滝の神にみつからないようにしてくれた。だが、それも封印が弱まれば効果がなくなってしまうという事だった』

「……私を連れに来たのが、この手紙の中に出てくる影虎」

　琥珀は一度文章を追うのをやめると、手紙の文字を指さして涼に言った。

　影虎は、手紙の内容からすると、以前から死んでしまった昴と、目の前の涼の事を知っていたようだ。

　琥珀には、話す必要がなかったのだろう。

　手紙の中の出来事は琥珀には関係があるようでいて関係のない事だからだ。

「うん、名前が一緒だから、そうじゃないかとは思ってた」

　涼は頷く。

「俺は何も覚えてないけど、色々大変だったみたいだ」

　本当に小さいころの話なのだろう。彼の口調はどこか他人事のようだ。

　琥珀は手紙に視線を戻す。

『数年たち、影虎から次の巫である琥珀が産まれたとの知らせがあった。琥珀が十八になるのは、ちょうど涼が二十歳になってから数日後。琥珀には申し訳ないが、彼女が滝壺にその身を落とせば、ほころんだ封印の力は元に戻り、滝の神は現世に干渉できなくなるだろう。陽詩を愛しながら、涼の父親として琥珀の死を願っている。私は酷い人間だ』

　手紙は最後の一枚になろうとしている。

　涼の為にも自分は死ななければならなかったのかと、琥珀は思う。

　顔も知らない人間に死を願われる奇妙さと、そうして誰かから必要とされているという甘美さが胸の中で綯交ぜになる。

　琥珀が贄にされるのはもう決められたことだったけれど、そうすることが昴にとっては本当に重要で必要なことだったのかと思うと、自分の生も無駄ではなかったような気がする。

『涼が二十歳になった時に、その無事をこの目で確かめたかった。しかし、これを書いている私は病に侵されている。私の命は残り少ない。私はかつて影虎に教えてもらった禁呪というものを使ってみようと思っている。うまくいくかは分からないが、それで涼が守れるのなら、残された命など安いものだ』

　この手紙を涼が読まずに済むことを、何もない日常を過ごすことが出来ることを祈っている。

　そう、手紙は締めくくられていた。

　琥珀は手紙を丁寧に折りたたみ封筒にしまうと、陽詩の写真もその中に入れる。

　涼にありがとうと言って返してから、内容を反芻してみる。

　どうにも腑に落ちなところがあった。

「昴さんが陽詩に会ったというだけで、封印が綻ぶもの、かな。外の誰かと関わることで、巫としての力が弱まるというのなら、私はもうすでに穢れてる」

「俺の父は、陽詩と愛し合った、と書いている。そういうことだと思う」

「気持ちが通じることがいけない事だった？」

　琥珀の質問に、涼は考える様に視線を泳がせてから、口を開く。

「通じ合った気持ちを確かめる方法があるんだ」

「……それは、言い難い事？」

「そういう訳でもないけど、俺が説明したら困るのは琥珀だと思うから、やめとく」

　何かしら、自分の知らない事が手紙の文面の中で起こり、涼は理解しているらしい。

　涼が少しだけ笑った。

　笑った彼の顔を見るのははじめてだ。表情が変わらないせいで、端正な顔と相まって何となく冷たく見える彼だが、笑うと少しだけ幼くなる。

「……俺は、俺が助かるために、琥珀に死んでほしくなんかない。父さんは陽詩さんを守れなかったけれど、俺は琥珀を守りたい」

「どうして。私はあなたに、酷い事しかしていないのに」

「そういわれると、上手く理由を言えないけど、俺はそうしたいと思ってる。それじゃ駄目かな」

　涼の言葉が有難くて、とても嬉しくて、何と返して良いのか分からなくなってしまった。

　しかし、素直にそれを受け入れてはいけないと思う。

　琥珀は彼を殺そうとしたのだ。それは紛れもなく事実で、許されることではない。

「涼、私はもう誰かに迷惑をかけたくない」

「迷惑だなんて思ってない。俺に何ができるのか分からないけど、琥珀を死なせたくない」

「……滝の神様は、那智様という名前で、那智様は私が……、巫が欲しいだけなんだと思う。だから、私は死なない。那智様のところに私が行けば、全部終わる気がする」

　とても簡単な事だった。

　巫を滝の落とさずに、岩屋に捧げればきっと全て終わっていた筈だ。

　それをしなかったのは、滝に落とすという決まりを誰も変えようとしなかったからで、岩屋の奥にいる那智を恐れていたからだろう。

「琥珀は、那智の物になりたい？」

「私には、よくわからない。でも、それで那智様が満足して、終わりになるならそれで良いと思う」

　那智が欲しいのは琥珀ではなく神楽だ。

　琥珀としての自分などは必要ない。神楽の生まれ変わりとしてのこの体が必要なだけだ。

　自分がなくなるのは寂しい事のような気がしたが、それに拘ったところで琥珀自身を必要としてくれる何かがあるわけでもない。

「じゃあ、駄目だ。俺が、嫌だ」

「……でも、他に方法が」

「一緒に考えよう、だから琥珀が知っている事を教えて欲しい」

　涼の指先が、琥珀の目尻を辿る。

　困らせてごめん、と彼は小さく呟いた。