第2話
琥珀は車窓から、流れる景色を眺めていた。
空が段々と橙色に染まり、夕闇が迫ってきている。恐らくは夕方近くなのだろうが、村の狭い道を走る車の窓からは、誰一人人影すら見当たらない。まるで、世界中が寝静まってしまったかのようだ。
そして、その寝静まった世界で知らない男と二人きり、狭い空間にいる状況は、何故だか琥珀に世界の終わりを連想させた。
そこここに流れている小川の上流にあるのは、琥珀が生贄として突き落とされる筈の滝壺だろう。
詳しい話は聞かされていないが、それだけは知っている。
父である覡由良は、それが神の嫁になる尊いことなのだと、静かな口調で言っていた。最後に両親に会ったのは、琥珀が十歳の誕生日に行われた巫の役目を説明されたときだから、もう顔もぼんやりとしか思い出せない。
母の蛍はどうしていたっけ。触れた思い出も、抱きしめられた思い出も琥珀にはない。
琥珀の傍に居たのは、いつも何かに怒っているような表情を浮かべる世話人の松代という中年の女と、護衛とは名ばかりの監視人の影虎だけだ。
ぽつぽつと立ち並ぶ家々には、明りが灯り始めている。確かに人々はそこに存在しているらしい。
けれど見慣れない車が走り抜けるのを気にして家から出てくる者はいなかった。
田んぼの稲が、黄金色の首を垂れている。それは夕日に照らされ、輝いて見えた。
世界には、色があったのかと、当たり前のことなのだが唖然とする。
追手に止められることもなく、嘘のように簡単に、琥珀は村を出た。すっかり日が暮れてしまい、光源のない細い街へと続く山道を、尽の運転する車は眩暈がするような速さで飛ばしていく。
底のない暗闇に真っ逆さまに落ちていくようだ。
外を眺めていると、暗闇の中車のライトに照らされた木々が襲い掛かってくるようで身が竦んだので、琥珀は尽に視線を移す。
影虎以外の男を見たのははじめてだ。影虎は琥珀よりも頭一つ分背が高く、黒髪を女性のように肩まで伸ばしている。着ている服もいつも黒い。
顔立ちは、どうだっただろうか。不機嫌そうに眉間に皺が寄っているのは覚えているが、言葉を交わしたこともなければ、必要以上に傍に寄ったこともないのであまり思い出せない。なんとなく、琥珀が随分ちいさいときからあのままだったように思う。
尽は、どうだろう。不思議な色の冷たい目は、今は運転に集中しているのか前方を見つめている。
余計な物を排除したような横顔に、耳朶につけられた金属の飾りが目立っている。輪のようなものが四つ、長くて先に赤い宝石がついているものが一つ。これらは耳から直接はえている。
視線に気づいたのだろう、ちらりとこちらを見てくるので、当然のように目が合う。
「なんだ?」
琥珀は尽を見上げる。
「その、飾りはいたくないのかと思って」
「飾り? あぁ、ピアスか。初めて見るのか?」
「耳からはえている」
「まぁな。生まれつきはえてるんだ。そういう人間もいる」
「……それは、知らなかった」
初めて知る事実にそう呟くと、彼はにやにや笑いながらそうなんだよと繰り返した。
その態度はどうにも怪しいのだが、琥珀は特に言及せずに話題を変えることにする。
「八津房は、覡の関係者?」
「お嬢さんのその喋り方はなんとなく堅苦しいな」
「……変、か。あの、私は……あの家では、皆は私に敬語を使うし、父の話し方しか知らない。だから」
「まぁ良いんじゃないか。それはそれで、ギャップ萌えってやつだろ」
「ぎゃっぷ、」
「あぁ、良い良い、こっちの話だよ」
知らない単語に首を傾げると、尽はまた先ほどと同じような琥珀を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、片手でひらひらと手を振った。
「それより、俺の事は尽で良い。八津房は、言いづらいだろ?」
「分かった。尽」
「そこは照れたりはしないんだな。俺が言うのもおかしな話だが、あまり男の名前を気安く呼ばない方が良い」
「……呼べと言ったのは尽で、意味が分からない」
本当に分からない。彼の言葉は矛盾に満ちていて、琥珀は軽く混乱して小さくため息をついた。
そんな事よりも、聞かなければいけない事があったんだと思い出す。
「私を連れ出した目的は、何?」
「俺は、琥珀を助けたかった。それだけだ……なんて理由はどうだ?」
「私はあなたとは会ったことがないように思う」
「そうだな。まぁ、そりゃその通りだ。……俺は覡の関係者だよ、ある意味では」
「それは、どういう?」
「お嬢さんが俺をその気にさせてくれたら、話してやっても良い」
その気とは、なんなんだろう。
尽との会話は取り留めがなく、話していて益々混乱する。
「教える気がないなら、もう良い」
「聞き分けがいい子は好きだぞ」
「……覡の呪いと尽は言っていた。どうしたら、終わる? 私で、最後にできる?」
尽の冗談に取り合わずに、琥珀はぽつりと言った。彼は暫く思案するように無言で運転していたが、やがて口を開くと話始めた。
「あの場所から逃げても本質的な解決にはなっていない。お前が見つからなければ他の女が殺されるだろうな」
「分かっている」
「分かっていて、逃げたのか?」
私は、と言ってから、琥珀は躊躇するように息を飲んだ。
「……あの場所では、ただぼんやりと死を待つ事しかできない。私が死ぬのは良い。覚悟はできている。……だが次は、私の妹の娘が贄となる」
琥珀の知る覡の歴史は、血に塗れている。
それはいつからなのか分からないが、覡には必ず白い髪と肌で、赤い目の女子が産まれるという決まりになっていた。
それは、巫であり、神の嫁だ。
巫は産まれてすぐに隠家に連れていかれる。世話役と監視役をつけられ、屋敷からは一歩も外に出ることはできない。巫が屋敷から出るのは、十八歳を迎えた最初の新月の夜。
村の奥の滝壺で、神様の嫁になるのだ。
それは必ず、行わなければならない。そうしなければ、神様が怒って村を滅ぼすのだと、教えられている。
だから繰り返してきた。そしてこれからも繰り返すのだろう。
覡の当主は、必ず二人以上の子供をもうけなければならなかった。それは次代の巫を産み出す義務があるからだ。
琥珀は二人姉妹である。つまり、次の当主は妹の瑠璃であり、彼女は覡の血筋の夫を貰い、巫を産む運命にあった。
「私は、覡を呪縛から、解放したい」
「だとしても先の話だ。お前の死んだ後のな」
「……妹は、瑠璃といって、優しい子だ。少しだけしか、会った事は無いけれど。……でも。自分の娘を贄として差し出すのはどんなに辛いだろう」
母が私の目を見なかったのは、きつく唇を結んでいたのは、辛かったからではないのかと、琥珀は思う。
そう信じている。
そうであって欲しいと、願っている。
牢獄の日々は、辛くも苦しくも楽しくも嬉しくもない、乾いた毎日だった。
誰からも何の感情も向けられず、琥珀もまた、感情を向ける相手がいなかった。
だから、琥珀の中に残っている愛情に対する渇望は、妹を愛し、父母を許すというもののみに向けられている。
「殺されるのはお嬢さんなのに、妹の心配とはお優しいことだな」
「……知っているなら教えて欲しい。どうせ最初からあって無いような命だ。瑠璃を救うためなら、私は、なんでもする」
余程の覚悟を決めて、差し出された手を掴んだのだろう。
琥珀の紅い瞳には、ぞくりとする程強い光が宿っていた。
尽は口角を吊り上げると、頷いた。
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